1995年:森久志
高校教師 森久志の憂鬱 前編
小さい頃の夢はお嫁さんだった。
幼稚園で一番ドッジボールが強いジュン君、いやケン君だったか誰だったかのお嫁さんになって、白いウェディングドレスを着るんだと疑いもなく信じていた。
背が伸び、髭が生え、声変わりをして女の子になりたいとは思わなくなった頃、マッチョで背の高い体育教師に恋をした。無邪気を装って教師のたくましい背中に抱きついた時、勃起しているのをクラスメイトに気づかれて、ホモリだキモリだのとあだ名をつけられた。
それ以来、恋愛対象が男であることをひた隠し、無害なお調子者として生きている。
◆
あいつ、まぁた告白されとる。
職員室の窓際の自分の席、キャスター付きの椅子に反対向きに座り、背もたれに腕を乗せぬるいお茶をすすりながら口の中でつぶやいた。
西の壁際に並んだ書類棚とその上の腰高窓。俺の席の後ろの一か所だけ壊した──もとい壊れたブラインドの隙間から窓の下を斜めに見下ろすと、丁度いい具合に船高の告白スポットが見えてくる。
職員室のある北校舎と部室棟の間の狭いスペースは、さらに左右を樹木や室外機に挟まれ周囲に見つかりづらいことから、俺が
その部室棟裏で今まさに、いかにも今時の男子高校生といった風情のロン毛が、一見清純そうな黒髪の美人生徒から告白されている。おい気をつけろ、そいつは去年三年生で一番人気だったヤンキーにも告ってるぞ。
でも実はあのロン毛が告白されるのはすでに三人目なのだ。まだ五月になったばかりだというのに。
今年の一年に凄いのがいる、と鳴り物入りで入学してきた今年度一番人気のサダオカケイジ。成績の話ではない、見た目の話だ。
日本人離れした体躯に整った顔。色素の薄い瞳、緩く癖のかかった長髪は異国の血が混じっているのを感じさせる。神様がずいぶん気合を入れて造形したであろう恵まれた容姿。
船校は自由な校風が売りで校則がゆるく、髪型の規定もないためあっちこっちに似たような茶髪のロン毛が溢れている。大同小異で俺には区別が付かないが、サダオカだけは
とはいえ、俺にはまったくの守備範囲外。
それじゃあなんでこうして覗くかっていうと、テレビの中の若いアイドルを愛でるような気持ちと似ている。考えてみれば、芸能人も美形の男子生徒も手が届かないのは同じだ。もし手を出したならお昼のワイドショーになるか、夕方のニュースになるかの違いだけ。
「森先生、ちょっといいですか」
湯呑み片手にワイドショーを眺めていると、後ろから声を掛けられた。
体育の
「はい、なんでしょう」
愛しの猪山先生のために、サッと立ち上がりとびきりのスマイルを作る。
「休憩中すみません、先生のクラスの佐々木のことなんですけど──」
あぁ相変わらずゲイ受け抜群の男臭さが匂い立つ良い身体してんなぁ。半端に開いたジャージの胸元についニヤけてしまう口元を引き締めつつも、
「了解です、じゃあその件はこちらで引き継ぎますので……」
面倒なお願いもついうっかり引き受けてしまう情けない俺よ。
去年も兼任の陸部に専念したいとかいうもっともらしい理由でヤンキーの溜まり場と化した野球部を押し付けられて、おかげで俺は野球部部長兼コーチ兼監督代理というよくわからない肩書きになってしまっている。もちろん俺に野球経験はない。
進学校のヤンキーなんて可愛いものだからそれはそれで構わないのだが、部活を受け持つと余計な仕事が増え、ただでさえ過重労働でゴリゴリに削っている私生活はますます痩せ細る。
そんな時に、俺は船木場ワイドを覗くのだ。ゲイゆえに暗黒だった思春期のかわりに告り告られフリフラれする普通の青春を追体験する。これは一種のストレス解消、つまらない人生における一服の清涼剤ってわけ。
猪山先生の逞しい背中を見送って、またチラリと部室裏に目をやると、件の女子がサダオカの腕に絡みつくようにしなだれて、仲睦まじく去っていくところだった。どうやら交渉成立したらしい。今度は歳上の彼女か。おいおい、前の二人はどうしたよ色男。
俺は積み上げた書類で壊れたブラインドを隠すと、とりあえずは目の前の仕事を片付けようとため息とともに席につき、抽き出しから佐々木のファイルを取り出した。
◆
その噂のロン毛がもう一人でかいのと一緒に野球部の入部届を持ってやってきたのは、仮入部期間が終わった五月半ばのことだった。
あれから件の女子と一緒に帰っていくのを何度か見かけたが、まだ付き合ってんの? それとももう別の子にうつった? なんて芸能リポーターじみたことは勿論聞かない。
「ああそれ、顧問の馬場先生に渡してよ」
かわりに素気なくそう言うと、
「今忙しいので、部長兼監督の森先生に預けてくれと伝言がありまして!」
と、もう一人が明るく元気に答えてくれた。
くっそあのジジイ、問題児に関わりたくないからって全部こっちに丸投げしやがって。猪山先生はかっこいいから許すけど。
「オッケ、じゃあこっちで預かるよ。あと俺は監督代理で、正式な監督は猪山先生な」
諦めて何度もコピーしすぎて掠れた印刷の入部届を受け取る。
山田
1─C 佐田岡 啓司
へえ、サダオカって定岡じゃなくてこんな漢字を書くのか。珍しい。
育ちの良さと神経質さが文字に表れてる。俺、字の綺麗なやつが好きなんだよな。丁寧に育ってきた感じがしてさ。まあバカっぽい字もワンナイトなら全然アリなんだけど。むしろ好きなんだけど。
「不備はないね。じゃあ受理します」
入部届を抽き出しに入れ、代わりに必要物品購入の用紙を手渡した。
「そういや二人とも体験入部はしてないよね?」
「何度か部室を伺ったんですが、誰もいらっしゃらなかったので」
佐田岡が首を掻いて目を合わせないまま言う。あらまあ、俺の上をいく素っ気なさ。でも背の高さがわかる低音ボイスが耳に気持ちいい。
「あぁごめんなぁ、じゃあとりあえず一週間は仮入部で、その後で本入部するならユニフォームや練習着を用意してくれる? その時また改めて詳細話すから」
でかい二人が並んではいと頷く。椅子に座ったままの俺の首がきしんだ。
「あの、僕ら以外に入部希望者って居ますか?」
佐田岡とは対照的に、山田が明るく訊ねる。
「うーんと、今日届けを持って来たのが二人いるな。
すると佐田岡が山田に向かって答えた。なんだ、優しい声も出せるじゃん。
「三好は俺と同じクラスだ。ガタイがいいから柔道でもやってるのかと思った」
「後で声かけてみようぜ! 良かった、先輩入れて九人揃えば試合できるな!」
ニコニコする山田に思わず口をついて
「え、山田は試合するつもりなの?」
と出てしまい、山田はきょとんとした顔で首をかしげた。
「あーいや、そうだよな。出来るといいな。山田は野球やってたの?」
「はい! 中学ではピッチャーやってました」
俺の発言の方がおかしいのはわかっているのだが、今の野球部の二年は部室を休憩所か連れ込み茶屋としか考えてない学校の問題児集団だぞ。金属バットでボールを打たずに窓ガラスを割り周っていた昭和のヤンキーと比べれば他愛ないもんではあるが、真面目に活動していた上級生を追い出して辞めさせちまった後は練習も試合もここ数ヶ月まともに行った記憶がない。
「そっかそっか、じゃあ佐田岡も野球やってたの?」
「いや、俺は未経験でつきそいというか、他にやることもないんで……」
「佐田岡は俺と同じ中学出身で、俺が野球部入るって言ったらついてきてくれたんすよ!」
あぁお前は山田のおまけなわけね。見るからに野球に興味なさそうだもんなあ。折角タッパがあるんだからバスケやバレーでもすればいいのに。
いやいや、生徒の事情には助けを求められるまで首を突っ込まないのが俺の信条。これ事勿れ主義ともいう。
「よし、じゃあ今日の放課後、三時四十五分に部室棟前に体操着で集合してね。二年にも俺から声かけとくから」
「はい!」
あぁ爽やか山田くん。なんというか、無垢というか素直と言うか。馬鹿というか。
かわいそうに、上級生があんなヤンキー崩れじゃなければ思う存分青春の汗を流して、マネージャーときゃっきゃうふふ出来ただろうになぁ。二人ともきっと来週にはいねえだろうな。
なんてことを思いながらあっという間に訪れた放課後、宣言した時刻ぴったりに部室棟に出向くと、遠くからでもひときわ背の高い佐田岡の姿が見えた。長い髪を後ろで結んで、隣の山田と楽しそうになにか話している。
あれっ、こいつよく見ると片目がほんのちょっとだけ外斜視だな。そこがまたミステリアスな雰囲気を醸し出して、無愛想なのも相まって女子供には魅力的に映るのかもなあ。と思っているとじっと見つめすぎたのか、振り向いた佐田岡と目があってしまった。
「なんすか」
ぶっきらぼうにそう言う姿は、正直言って可愛くはない。
「いやなんでも」俺は視線を切って、パンと手を叩いた。「よし、全員集まったなぁ」
五人の二年生と、ジャージ姿の一年生四人。よしよし、二年生部員も全員揃ってるな。終わったら皆にジュースを奢るという約束で顔を出してくれるなら可愛いもんだ。ねえ奥さん、日本の教師達はこうやって身銭を切ってせっせと働いているんですよぉ。変なクレームとかいれないでねぇ。
「ほんじゃ、一年生全員はじめてだから自己紹介しようか」ごほんと一つ咳払いする。「え〜俺は野球部部長兼コーチ兼監督代理、国語教師の森久志、二十五歳独身絶賛彼女募集中です! よろしくお願いしまっす!」
小笠原流にいい角度でお辞儀した俺の頭に、パラパラ拍手が悲しく降り注ぐ。
「おいおい〜もっと盛り上げていこうぜぇ。誰か一番に自己紹介してくれる人!」
と一年に向かってフると、ロバっぽい顔の一年がハイと勢いよく手を上げた。いやいやロバっぽいとか教師が言っちゃいけない。
「おっ積極的で良いですね! では自己紹介お願いします!」
「一年B組の
あ、言ってもいいのね。ロバじゃなくてラクダだったかぁ。
「実家は条乃内青果店を営んでます! 船北商店街の奥にある条乃内青果店、鮮度抜群丁寧接客の条乃内青果店をよろしくお願いします!」
「おいおい家の宣伝すんなよ、今度鍋の季節に白菜買いに行くよ! はい次は隣のムキムキな君!」
「うすっ! 一年C組
「いやいや先に野球のこと言えよ! 俺は大胸筋と大臀筋が好きです、はい次!」
「山田太一、一年A組です! 小学四年生から野球やってました、ポジションはピッチャーで右投げ左打ちです、よろしくお願いします!」
「真面目か! でもそこがイイね、はい最後そこの色男!」
「一年C組の佐田岡啓司です。山田とは同じ中学出身で、野球は未経験ですが頑張ります。ちなみに好きな筋肉は
「ってお前も筋肉か〜い!」
綺麗にオチがつき、男子ノリ特有なぎゃはは笑いが響く。あぁ驚いた、スカした野郎かと思っていた佐田岡は結構乗せてくるタイプなんだな。
「いや俺も大好きだよ、
三好がガチっぽく言ってるのに若干ヒきつつ、やたら感嘆符の飛び交う一年の自己紹介が終わった。その間二年生はだるそうに突っ立ってはいたが、メンチを切ってもおかしくないような場面でも視線は地面を向いていた。なにせ一年生四人が四人ともでかい。全員180以上ありそうだ。佐田岡に至っては172の日本人平均の俺が見上げる高さなので、190センチあってもおかしくないな。
その壁のような四人が揃って野太い声で
「先輩方、よろしくお願いしまっす!」
と、空気をビリビリいわして挨拶をすると、二年生達は「お、おう」とオタつきながらボソボソと自己紹介をした。う〜ん可愛いじゃないの。
そう、男というものはどんなにイキがっていても、ガタイの良さには勝てない。男同士の闘いでは身体の大きいオスが常に勝つのだ。
自分より背の高いオス、自分よりも広い肩幅、ムキムキの筋肉を見た瞬間、我々は精神的インポになってしまうものなのだ。ただし
すると山田がきょろきょろと先輩を見下ろし、否、見回してでかい声で言った。
「あれっ、三年生はいないの?」
隣にいたラクダがぎょっとして、山田の頭を
あ〜あ、意外と空気を読むタイプだった佐田岡に比べて、この子は察しが悪いことこの上ないな。どうかこれからの一週間、なんの問題も起こりませんように……。
◆
初顔合わせから一週間。
始めはほぼサボって練習に顔を見せなかった二年生が五日目、急にグラウンドに姿を現し、時折笑い声を上げながらにこやかに一年と話している。
「おっ、どしたの。やけに仲良くやってるじゃん」
驚く俺に、ラクダがそうなんスよ〜と声を掛けてきた。なんでも佐田岡がハイレベルな女の子を集めて合コンを開催したとかで、二年生をすっかり懐柔したらしい。すげえな、やり手ババアかよ。
「へえ、部員全員参加だったの? なんだよ俺も誘えよぉ」
とりあえず定番の返しをして肘でつつく。
「いやぁ、全員じゃなくて二年とオレと橋本、佐田岡で。三好は筋肉に悪いとかで来なかったし、山田は合コン苦手だから佐田岡が誘わなかったって。まあ一年のオレらは盛り上げ役の接待要員だったんでコンパの頭数には入ってないっス」
ははぁ、なるほど。それで二年生のあのご機嫌ぶりってわけか。
「それにしても佐田岡はめっちゃマメっスね。内心スカしたモテ野郎だと思ってたんで意外っスわ。表に立つとどうしてもアイツに女の子が集中しちゃうからってほとんど裏方で働いてて」
その点は俺にも思いがけない収穫だった。佐田岡なんて三日で辞めるかと思っていたが、個性の強い一年のまとめ役を買ってでていて、まあ大したもんだよ。
「あと運動音痴だったのも予想外っスわ」
「それなぁ」
思わず二人で苦笑する。いやいやどうして、あの恵まれた体格で走れば転び、投げても転び、何もしなくても転ぶ。最初はふざけてやっているのかと思いきやどうやら全力でそのザマらしい。どうりでバスケ部やバレー部からお声がかからないわけだ。
「正直言っちゃうと、やっぱ全て完璧に恵まれることはないんだなあって安心しましたもん、オレ。つうかなんでわざわざ運動部入ったんスかね?」
「それを言うなら、お前だってなんで野球部入ったのよ。野球好きなの?」
「オレは先輩が
ハハハと笑ってお茶を濁す先生を許してね。
「なるほどなぁ。ところでまさかと思うけど、お前ら飲酒してないだろうな」
「飲んでるわけないっスよ! 健全な飲み会ですって!」
「いま飲み会って言わなかった?」
「言い間違えっス! 健全な合コンでぇす」
これ以上私生活を削りたくない心の弱い俺はノミの二文字を聞かなかったことにして、ラクダの肩を軽く小突いて不問に付した。
そうかぁ、同中ね。佐田岡と山田も中学が同じだとかでよく一緒に行動しているみたいだし、もしかして無垢な山田を先輩のイビリの洗礼から遠ざけるためにわざわざついてきたのかもしれないな。たしかに山田って、放っておくと二年の逆鱗に素手でベタベタ触れまくりそうだもん。でもねぇ、それって完全に過保護な親じゃん。守ってばかりだと子供はダメになるんだよ。可愛い子には旅をさせないとダメよ、佐田岡くん。
「さあアップが終わったら楽しいキャッチボールするぞぉ、集合して〜」
きゃっきゃと戯れ合う男子生徒達を集めて、なにはともあれみんな恋に部活に友情に、一度きりの十代を目一杯楽しめよ。でも飲酒と喫煙はすんなよ。
と、心で応援する俺だった。
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