第5話(13)
「先輩……」
かすれた声の上でまぶたが閉じ、鼻の頭がぶつかる。口元に感じる他人の温度。漂ってくる梨花の匂い──鼻をつく、アルコールと化粧品の匂い。
俺は梨花の両肩を押し戻した。
「ごめん」
「……どして?」
閉じていたまぶたがゆっくりと開く。
「どうしてって……」
俺には梨花の疑問のほうが不思議に思えた。どうして? どうして、俺にせまる?
数秒間無言で視線を合わせたまま、
「変わってないね、そういう誠実なところ」
運転席から顔を背け、窓の外を見つめたままつぶやく。サイドガラスに映る梨花の表情は、暗くてよく見えない。
「悪い」
「悪くなんかないよ。いつだって悪いのは私」
声が涙がかっているのに気づき、はっとして顔を向けると、梨花の大きな右目から涙の粒が零れ落ちた。
「……梨花?」
「ごめん、ごめんね」
涙とともに、梨花は両手で顔を覆って崩れ落ちた。その小さな肩は小刻みに震えているように見えた。
「どうしたんだよ?」
突然の涙。いつも梨花は突然すぎる。
「ずっと謝らなきゃって思ってて、でも言い出せなくて……」
「なんのことだよ?」
梨花が泣いて俺に謝らなければいけないこと。それは──
「あの時、私、佐田岡くんと寝ちゃったの」
耳に入った言葉が脳に届いた瞬間、警告音は鳴り止んだ。かわりに、梨花がなにを言っているのかすぐにはわからない程、頭が真っ白になった。
寝た。梨花が。佐田岡と。
……江崎ではなく。
言葉も出ない俺はただ黙って、指の隙間から漏れる嗚咽を聞いていた。
そのうち梨花は手の甲で目元を拭うと、すんと鼻を鳴らして前を向いた。そうして、車という告解室で俺を相手に懺悔するかのように、ぽつぽつと静かに話し始めた。
「あの時……先輩が大阪に行っちゃって、他のみんなも卒業して、野球部は
「江崎にか」
「もちろん断ったよ! 会えなくても私先輩が好きだった。だけど学はすぐ返事はいらない、いつまでも待ってるからって言って。それから先輩と別れるまで、本当になにもなかったし、手も出してこなかった。それでも一番近くに居てくれたから……」
だから江崎に心変わりするのはわかる。でも、
「それでどうして佐田岡と寝ることになるんだ」
口にした自分でも驚くほどの冷たい声に、梨花はびくりと肩を震わせたあと、また鼻を啜って話しだした。
「大学が別れた学とは高校の時みたく毎日会うことはなくなったけど、佐田岡先輩とは大学の方面が一緒で、行き帰りの電車でよく見かけるようになったの。それで通学の間、たまに恋愛相談にのってもらうようになって。学に告白されて揺れていることも、会えない時間が寂しくて仕方ないことも……佐田岡くんは先輩の親友だから、もしかしたら話が伝わるんじゃないかって思ってた」
「聞いてない」
「そうなんだ。佐田岡くんは思ってたより本当に口が堅いんだね」
梨花が涙で目元を真っ赤にしたまま苦笑する。
聞いていない。佐田岡からは、梨花のことも、江崎のことも、何も聞かされていない。俺が梨花に振られてから今日の飲み会の話題になるまで、佐田岡の口からは梨花の名前すら出たことがなかった。
あの頃に江崎のことを知っていたら、俺はどうしただろう。夜行バスで飛んで帰って、江崎を殴っただろうか? 梨花を抱いただろうか?
それとも、梨花の思惑通りに、佐田岡にそんな相談を持ちかける時点で終わっている関係だと諦められただろうか? ──無理だろう。俺はあの時本当に梨花しか見えないくらい好きだった。
「それで色々話を聞いてもらっているうちに……本当に今でもなんでかわからないんだけど、なりゆきで……」唾を飲む音。「え、エッチしちゃって……」
うつむいた頬にかかった髪がゆれる。
「終わった後でとんでもないことをしたって気がついた。佐田岡くんなんて真っ青で今にも倒れそうになってた。私も佐田岡くんも先輩を裏切ったことを後悔して、このことは二人だけの秘密にしようって約束したの」
俺は目をつむり、深く息を吐いて目頭を押さえた。泣きたいわけではなかったが。
「で、でも、黙ってるのが辛くなって、でも、言っちゃったら私と先輩も、先輩と佐田岡くんも。……私と学も。全部バラバラになる。本当のことは怖くてとても言えなかった」最後の方は消えいるような小さな声になっていき、
「だから……私から別れを切り出した」
梨花の告白は終わった。
俺はドアにもたれ、口元を拳で押さえつけながら梨花の独白を聞き終えた。横を通り過ぎた車のテールライトが先の角を曲がって見えなくなるのを待って、俺は拳を下ろした。
「そっか」大きなため息。「そうだったんだ」
唐突な別れ。佐田岡の過剰なまでの気遣い。釘を刺すような言い方。
さっきから感じていた違和感の正体がやっとわかった。二人が『梨花ちゃん』『佐田岡くん』と呼びあっていることだ。
俺の知らない二人。
はじめて知ることが多すぎて、俺がどれだけ色んなものを見逃してきたのか、知らないところで知らないドラマが始まって終わっていたことを、今更ながら思い知らされて。
俺は今日まで、俺以外の、俺の周りの人々の物語について、ちっとも考えたことがなかったんだ。梨花ですら。
「怒らないの?」
梨花は怯えた子供のように俺を覗き込んだ。
「……そんな何年も昔のことで腹を立てても仕方ないよ」
俺は真っ赤に充血した目から視線を逸らした。その視線を梨花が追う。
「もう怒ってすらくれないの? 怒ってくれないと、許してって言えないよ」
「俺にどうしてほしいんだよ」
苛つきを隠さずに言い捨てると、梨花は逃げた俺の顔をぐいと引き戻し、
「抱いてほしい。キスして欲しい」
ほとんど慟哭に近い声で懇願してきた。
「学と居ても、なにか上手くいかないことがある度に、先輩を好きでいたままあんな風に終わっちゃったからだって、わだかまりがあるからだって思っちゃうの。ずっと心の中に後悔してる自分がいるの」
瞳からは涙が、唇からは言い訳の言葉が溢れ続ける。
「やめろよ」
「考えちゃうの、もし先輩と別れなかったら、結婚していたら幸せだったんじゃないか」
「やめろって」
「今からでも先輩とやり直す道があるんじゃないかって──」
「いい加減にしてくれよ!」
梨花の手を振り解く。あまりに自分勝手で一方的な言い分に、押しとどめていた感情が溢れ出した。
「佐田岡が好きだったのか?」
「違う! 佐田岡くんを好きだったことなんて一度もない!」
「じゃあなんで寝たんだよ! なんでよりにもよって佐田岡なんだ!」
「じ、自分でもわかんないの……本当に先輩のことが好きだったのに」
言葉を詰まらせた梨花に構わず、堰を切ったようにまくしたてる。傷つけてやりたいとすら思う。
「俺のことが好きなら、どうして好きでもない男と寝たんだ! なんで黙って別れて、江崎と結婚したんだよ! 江崎のことも好きじゃなかったのか?」
「好きだよ、心が動いたよ。先輩と違って、隣にいてくれたから!」
「それならなおさら江崎を裏切れるのかよ? 俺を裏切ったのと同じことを繰り返すだけじゃないか! この裏切り者!」
最後の一言が決定的だったのだろう。
梨花はあふれる涙を拭うこともせず、呆然と黙りつくした。
フロントガラス越しに見上げた鉄塔が酷く不格好に映る。涙で化粧が落ちた梨花も、一時間前よりも色褪せて見えた。
俺は怒りで震える手を抑え、どうにかダッシュボードから新しい煙草を取り、火をつけて深く吸い込んだ。
「想い出だからだよ。想い出だから綺麗に見えるんだ。現実が上手くいっていなければいない程美化されるんだ。あの頃だって、なにもかも上手くいってたわけじゃないだろ」狭い車内に、汚れた煙と白々しい言葉が広がって行く。
「俺たちはもう恋人じゃないんだ。学生でも十代でもない。もう好き嫌いだけじゃやってけないんだ。終わってるんだよ……とっくの昔に」
そうだ、俺と梨花はとっくに終わっている。佐田岡のことがあってもなくても。真実を知る前も、知った後でも。
一つの真実。
俺の中で
俺はきっとまだ、梨花を許せないんだ。
突然別れた梨花を、江崎に乗り換えた梨花を、黙って佐田岡と寝ていた梨花を、そして今また俺に抱かれたいとふてぶてしくのたまう梨花を。好いて愛した気持ちの何倍も恨んでる。
梨花が憎い。親友面をして梨花と寝た佐田岡が憎い。梨花を幸せに出来なかった江崎が憎い。知らないフリをした野球部員も憎い。全て分かったような顔でにやける監督もなにもかも。
自分の中の醜い感情を知ることが、これほど恐ろしいことだとは。
それでも俺は……きっとまだ。どこかで梨花のことが好きだ。
どんなに色褪せ曇ってしまった彼女でも、憎しみ一色では塗り替えられない。あの頃に戻ってやり直すことができるのならそうしたい。
かといって──俺には現実を捨てることはできない。江崎から梨花を奪い返して、幸せにしてやることはできない。自分のために不幸になった人間を忘れて、あははと笑って生きてはいけない。十字架を背負って生きてはいけない。
俺は傷つきたくない。
煙草が根本近くまで灰になった頃、無言だった梨花は諦めたように薄く笑った。
「もっと早く沢山ケンカすればよかった」
俺は梨花を見ないまま、灰皿に煙草を押し付けた。
「もう遅いよ。帰ろう、送る」
「…………」
「江崎と仲良くな」
「うん」
お互い、もうなにも言うことはなかった。
梨花の実家の近くまで運転した俺は、ここでいいというので梨花を下ろした。じゃあなという俺の別れの言葉に、梨花は振り返らずに手を振って、寝静まった住宅街の角に歩いて消えた。
これで俺と梨花の話はおしまいだ。これ以上はなにもない。
◆
マンションの駐車場についてからも、俺はなかなか車を降りれずにいた。すると携帯が鳴った。
『着信 佐田岡啓司』
佐田岡──同級生。俺の恋人と寝た男。俺と顔を合わせながら、それを黙っていた男。俺の、一番の親友。
「よう、どした?」
『わりぃ、ラクダがお前に掛けろってうるさくてさ』
後ろでぎゃあぎゃあ騒ぎ歌う声が聞こえて、思わずにやつく。
「ラクダも相変わらずだなあ」
『いやぁ、それが経営が立ち回んなくて色々大変らしいぜ──と、梨花ちゃんも一緒か?』
「ああ、さっきまでいたけどもう帰った」
『そっか……』
「なに?」
『別に。略奪愛に走るんじゃねえかと思って』
「まさか」
お前じゃあるまいし。
俺は笑ったが、本当は泣きたい気分だった。いっそ泣ければ、どんなに楽になれるだろう。泣き喚いて怒り狂って、なにもかも元通り、思い通りになるのなら。色鮮やかな想い出が、この手に帰ってくるのなら──でももう、遅い。
俺は喚くかわりに、窓を開けて夜空を仰いだ。星はない。
『山田、どうかした?』
「いや、少し疲れたなって。今日一日色々あったから」
『そうだな、今日はもう休めよ。また連絡する。おやすみ』
「おやすみ」
俺は携帯を電源ごと切り、助手席へ放った。
風が冷たい。夏も終わる。酷く虚しい。
「そろそろ秋だな」
つぶやいて、目を閉じてみる。
涙も出ない。
どんなにきつくまぶたを閉じても、見えるのは暗闇だけだ。あの夏の匂いも面影も二度と蘇らない。
もう二度と。
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