2008年:佐田岡啓司
第1話(15)
週末。
同窓会で飲めなかった分を奢ってやると言って、いつも落ち合うバーに山田を連れ出した。カウンターの隅のいつもの席で、いつもの酒を飲む。
そんな中、いつになく口数の多い山田が思い出を語り出したのは、同窓会の余韻のせいだろうか。
「佐田岡とはもう長い付き合いだよな」
「なんだよ急に」
山田は俺の問いかけには応えず、片肘をついてグラスの中で揺れる水面に目を細めた。
「大学の合格発表も一緒に見に行ったよなあ。中学高校といつも
水面にいつかの情景を描いているのだろうか、山田は俺に喋りかけながらも、視線はグラス越しの遠いどこかを眺めていた。
「今更だけどあの時は悪かった。佐田岡は受かってたのに、慰め役にさせちまって」
「そんなこと、全然。俺も離れるのは寂しかったよ」
山田が俺の受かった大学に落ち関西に行くと聞いた時、寂しさと同時に心のどこかでほっとしている自分がいた。このまま二人の側にいれば、嫉妬に狂ってどうにかなってしまいそうだったから。
その一方で、山田の目というストッパーが外れ、自分の悪意がエスカレートしていく予感もあった。
そしてその予感はあたった。
「俺にはあっという間の四年間だったけど、梨花にとっては違ったんだろうなあ」
ぐいとグラスをあおった山田の口はますます滑らかになり、別れてからはタブーとなっていた吉川の名すらも飛び出す。
「梨花もさ、自分でやるほど野球に熱中してるなんて、全然知らなかったよ」
江崎はマネージャーよりも選手に関心が向いた吉川に、はじめソフトボールをすすめるつもりでいた。母数が多く地盤が出来上がっているソフトボールよりも、競技人口の少ない女子野球を提案するよう言ったのは俺だった。
「そういえば、梨花は夏休みに絶対来ると言っておいて、とうとう一回も来なかったんだよ。冷てぇよなあ」
告白するなら長い休みの直前にしろ、と江崎に助言したのも俺だ。
告白は一度は断られるだろう。でも保留にして、最終的な返事はいつまでも待つと伝え、あとは普段通りに接しろと。
考える時間は多いほどいい。山田の元へ行く暇もないほど悩めばいい。
「きっと受験で大変だったんだろ。女子野球部があるそれなりの大学となると、かなり絞られるから」
そしてそれは江崎の志望校でもあった。
「そうだよな、俺みたいに三年の夏に浮かれて遊んでちゃ、受かるもんも受からないよな」
山田は自嘲してかぶりを振る。
現実はそこまでうまく行かず、江崎は山田と同じ道を辿り第一志望に落ちたのだが……。共にオープンキャンパスに出かけたり部活やリーグ戦を観戦したりと、彼氏持ちの相手と一緒にいる言い訳をたくさん用意してやったのだから、さぞかし楽しい高校生活だったろう。
「かわりにお前は何度か来てくれたなあ。そうそう、あの時もさ」
「……どの時だよ」
「梨花に振られた時。あの時も、お前が飛んで来てくれたんだよな。明け方に突然ピンポン鳴ってさ、開けたら佐田岡がいるんだもん。マジでびっくりしたよ」
「そんなこともあったっけな……」
「なんだよ忘れてたの? 一人でいたらどうにかなりそうだったから、来てくれてありがたかったのに」
忘れるわけがない。
大学二年の初夏、俺は吉川を抱いた。山田から吉川と別れたと暗い声の電話がくるまで、それから一ヶ月とかからなかった。
俺は一報を聞いたその日のうちに夜行バスに飛び乗って、山田のマンションを目指した。ドアの前に立つ俺を見た山田は、急にどうしたんだよと驚いた後、堰を切ったようにボロボロと泣いたんだ。
「俺はあの時、一生分の涙を流したんだと思うよ」
あの時。
俺の胸で泣いたお前の涙の温度、掴まれた肩のかすかな痛みを忘れない。きっと一生。
「そういえばさ、ちょうどその頃、髪をバッサリ切って坊主にしたじゃん? あれはなんだったんだよ。不祥事でも起こしたの?」
「なに言ってんだよ、ただのオシャレだよ」
「うっそだろ、そりゃ攻めすぎだろ〜。しかもその後モヒカンとかにしてなかった? ただでさえ高ぇのに、どんだけ背を伸ばしたいんだよって笑ったわ」
そう言って俺の前髪をつまむ山田に、ニヤリと返す。
「本当はさ、ああいう攻めた髪型にしてると、無駄に女の子がすり寄ってこなくて楽なんだよ」
「うわぁ、監督がまた
俺は一緒に笑って頭を掻くふりをして、襟足の上の隠れた傷を確かめるように触った。
ふと会話が途切れたところで、俺は山田の横顔につぶやいた。
「なんだか、同窓会の続きみたいだな」
「うん」
山田はそれだけ言って、笑っているのか、泣きそうなのか、どちらともつかない顔でまた手の中のグラスを眺めた。
同窓会の夜。
二人の間にはきっとなにもなかっただろう。お前が略奪愛などできない臆病な男なのは、俺が一番良く知っている。
では吉川は?
吉川は江崎との間にあったことを、俺との間に起こったことを、山田に白状したのだろうか。
俺が吉川と寝たことを、二人の関係に決定的なヒビを入れる最後のハンマーになったことを、お前はもう知っているんだろうか。
もしも話していたとすれば、山田は俺がそんなことをした理由を、少しは考えてくれただろうか?
あんなにわかりやすいと思っていた、覗き込むだけでなんでもわかると思っていた山田の顔が、今夜はまともに見られない。
「俺さあ、ガキのころから好きだった奴がいるんだよ」
「え?」
聞き返されて、ハッと我に返る。
どうしてそんな事を言い出したのか……、沈黙の後で、気がつけば自然と口にしていた。押さえつけ塞いでいた傷口から血が滲み出すかのようだった。
──潮時かもな。
十年以上続けてきた裏工作に、近頃ボロが出はじめている。結婚がゴールだった江崎は、俺という参謀を失ってから吉川を上手く扱えなくなった。
吉川は俺と寝た日以来ずっと不安定だが、あれは我の強い女だから俺さえ関わらなければそのうち過去を忘れていくだろう。
もともと俺が無理やりくっつけた関係だ、いつかは然るべくして破綻するのだろう。
俺はため息混じりに笑って先を続けた。
「だから、好きな奴がいるの。ずっと」
「はぁ? マジで?」
驚きと好奇の声。目は見られない。俺は斜め下に目線を向けたまま話し続けた。
「マジで。笑っちゃうだろ? 結婚までしたのにな」
そう、嫉妬するのにも後悔するのにもいい加減疲れ果てて、好きも嫌いも全て忘れて新しい生活を送ろうと、言われるがままに結婚したこともあった。そんな結婚が上手くいくはずがない。ムカつくと言い残して去った相手のことは、ろくすっぽ覚えちゃいない。結婚は俺の罪を一つ増やしただけに終わった。
「なんていうか、意外だな。相手は?」
「秘密」
「俺の知ってる奴?」
「ああ、よく知ってる」
「もしかして……」俺の横顔に視線が刺さり、「梨花か?」
俺はたっぷり一秒ためらってから応えた。
「さあな」
はぐらかすと、視界の隅の山田はグラスを置き、しばらく前を向いたまま黙り込んでいたが、ふっと吹っ切れたような声で笑った。
「まあ、言いたくなら言わないでいいさ」
俺は目を閉じて頭を抱え込み、BGMに紛れるほどの小さな声でつぶやいた。
「ずっと、好きだったんだ……」
頭の後ろで組んだ手の爪が、皮膚にめりめりと食い込む。
あの時。
山田が関西へ旅立ってから一年が過ぎ、吉川が山田から江崎に心変わりしかけているのは明らかだった。山田を捨てて江崎の元へ走るまで、あとほんの一押しに見えた。
だがそのあと一手が足りない。吉川が江崎の告白にハイと頷かないのは、その愛が今のままでは浮気だからだ。浮気相手に乗り換えるという体裁の悪い真似は、吉川の中ではあり得ないのだと考えた。
では全て山田に言ってしまうか?──いや、今のあいつは引き下がらずに、吉川を取り戻そうとするだろう。一か八かにかけて元鞘に戻られては困る。
やはり吉川自ら山田に別れを切り出してもらわねば。江崎以外の男と浮気をさせ、罪悪感を煽る。浮気相手は別に誰だっていいんだ、俺だって。
そう計画だてて、何度目かの恋愛相談を受けたその日、たまには飯でもと言ってダイニングバーへ誘った。
江崎から逐一報告をうけていた俺は、吉川の好む仕草、好きな食べ物、望む会話、彼女の思考パターンから導いた王子様をいくらでも演じることができた。吉川の理想の彼氏をプロデュースしたのは俺なのだから当然だ。差し出された手をとってベッドに入るのが自然だと、錯覚させられるほどのエスコートを。
ベッドに入ってからは、山田が触って、舐めて、口付けた吉川の身体に、俺は触って、舐めて、口付け、歯を立てた。山田がしてくれただろうことと、山田がとてもしなかっただろうことをした。
その時まで、たしかに俺の心は
吉川は絶頂の間際お前の名前を叫んだ。そうだ、あいつは俺でイッたんだ。
その瞬間、俺と吉川が一緒にお前のことを考えてセックスしていたことに、心臓が凍りつくほどの嫌悪が襲った。吐き気がして、鳥肌が立ち、手足から血の気が引いて身体が震えるのがわかった。
それは結果的に吉川の罪悪感を増幅させるのに一役買ったが、俺の中にも隠しきれない大きな罪となって爪痕を残した。
後頭部を引っ掻く悪癖をこじらせて、束で抜けてもお構いなしに掻きむしったのもその頃の話で、坊主にしたのはそんな理由だ。
そうして吉川と別れさせたあとは、ヨリを戻さないために次々に俺のお古をあてがった。お前が偶然出会ったと思っているいつかの彼女も俺の差金だ。
山田、お前の涙もお前の後悔も全部俺が仕組んでやらせたことなんだ。
俺が全てを告白したら、「言わないでもいいさ」なんて切り捨てずに、なぜ、どうしてと問い詰めてくれるだろうか?
なぜ?
俺は吉川梨花が世界で一番嫌いなんだ。
だって山田、お前が好きだから。
山田の目に映る吉川が憎くて、憎くて、憎くて。
ずっとずっと、出会った頃からお前が好きだった。江崎に協力したのは打算だけではなかった、その気持ちに共感したからだ。
別に男が好きなわけじゃない、抱くのは女だ。山田だって特別なところなんてなにもない、臆病で鈍感で真面目なだけの男だと思っているのに。それでも、お前への想いは『好き』としか言い表せないんだ。
いつでもお前を目で追って……他の女を抱いていても、寝る前のまどろみの時間にも、寝ても覚めても考えるのはお前のことばかり。
たとえお前が俺のものにならなくても。たとえお前を不幸にしてでも、俺がお前の一番近くにいたかったんだ!
なあ山田、本当のこと知ったらお前は俺をどうしてくれる?
「……俺は、」
俺はお前が──
「え、なに?」
俺に注がれる眼差し。山田の目。グラスにそえられた山田の指先。唇。
欠片の一つすら手に入れられない、俺の親友。
俺はようやく顔を上げ、両手の爪にこびりついた血を隠した。
「なんでもない」
嘘で固めた俺は、永遠に本当のことは言えない。
それが、俺の罰だ。
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