第3話(11)

 場が落ちつきを取り戻しそれぞれが思い出話に花咲かせはじめたころ、端で『酒が飲めないかわりに食べ物で元を取る人』を演じていた俺のもとに、ニヤニヤ顔の監督がすりよってきた。

「なんスか? 気持ち悪いな」

「なぁ、お前らって付き合ってたんだろ?」

 突如耳打ちされたありし日の最重要マル秘事項に、食べかけの銀杏がカーブを描いて飛んでいく。

「なんで知ってんスか?」

「えぇ、お前あれで隠してたつもりなの?」

 ……なるほど。

 佐田岡以外にはバレていないつもりだったが、俺は相当隠し事が下手だったらしい。まさか監督にまで知られていたとは。ということは、俺と梨花のは野球部公然の秘密だったのか。


 監督は俺の真横に座布団を敷いて居座ると、お猪口を片手に頬杖をついて昔語りをはじめた。

「俺は結構応援してたんだよぉ。山田に行くとは、吉川もああ見えて見る目あるよなって。女子はだいたい佐田岡狙いだったじゃん、船高のキムタクとか言ってさ」

「佐田岡が?」

「そうそう、よく部室棟の裏で告白されてんのを目撃しちゃってさぁ。あそこ職員室からよく見えるんだよ。気まずいったらないよ」

 モテる奴なのは知っているが、そこまでだったとは。あいつ、あの部室の裏で告白されていたのか……。

「っていうかさぁ、俺が強引にマネージャーに勧誘しなかったら、お前ら絶対つきあってないぞ。感謝しろよ〜」

「えぇ、そんなことを言われても」

 だって、俺たちはもうとっくに別れているのに?

「吉川はさ、最初は野球なんて興味ないって言ってたし、俺も正直マスコット扱いしちゃってたんだよ。でも蓋を開けてみりゃ、誰より熱心だったからなぁ。だから一番真面目に練習していたお前に惹かれたのかもな」

「それは……」きっとそうなんでしょうね、と言いかけてやめる。

「それがさ! まさかの江崎だろ? 招待状二度見しちまったよ、あははは」

「はは……」

「江崎のやつもなぁ、吉川なんて〜って顔してたのにさ。三年がいなくなったらイチャつきはじめちゃってまぁ、恋心の裏返しだったんだろうなぁ。なんたってホラ、幼馴染なんだろ」

 監督は三好達と女子野球時代の話に花を咲かせる梨花を横目で見ながら、軟骨揚げを噛み砕く勢いそのままに、次々と衝撃の事実を語っていく。

 酔っているのか饒舌になる監督に対して、次第に俺の口数は少なくなっていった。


 俺は自虐的に鼻で笑って、箸を置きタバコに火をつけて動揺をごまかした。

「俺とはあいつが大学入ってすぐ別れたんで、その後のことは全然知らないんスよ」

「あ〜まあなぁ、お前は大阪だったもんな。遠距離は厳しいよなぁ」

 そう、傍目には俺と梨花はたかだか二年の、たかだか四百キロの距離に負けた程度の付き合いなんだ。もとより高校時代のカップルがその後も続く方が珍しいのかもしれない。

 こんなふうに軽くからかわれる程度の、青春のアルバムのせいぜい三、四ページに収まるだけの話。

「それで山田、お前まだ一人なの?」

「ええまあ、残念ながら」

 なのに、なぜ俺は十年ぶりに見る梨花に、初めて聞く監督の話に、こんなにも狼狽しているんだろう。

「そうかぁ、ラクダも三好も吉川と江崎まで結婚しちまってさ」

 と息を吐き切ったところで、前を向いてひとりごとのように喋っていた監督が、同じく煙草の煙を目で追っていた俺を振り返った。

「橋本は彼女と同棲中だっていうしさぁ」

「そうなんスか、おめでとうございます」

「俺はめでたくねえよ! で、佐田岡も一度は結婚したんだろ?」

「……ですね、一年も持たなかったけど」

「結婚は結婚じゃん!」

 監督のくわっと開いた目と額が光り、座敷の全員の視線が集まった。

「俺の仲間はもうお前だけだよぉ」

「うわっ、監督、泣き上戸?」

 慌てて灰皿を手繰り寄せる俺の左肩におぶさって、監督はおいおい泣き始める。どれだけ結婚に夢を持っているのか知らないが、まさかこんなにからみ酒だったとは。


「それくらいにしてやって下さいよ」

 見かねた佐田岡が、烏龍茶片手にやってくる。

「あ〜モテが来たぞ、モテ男が」

 泣いていると思っていた監督の目に涙はなかった。

「お前はモテるから仲間じゃないですぅ」

「そんなこと言わずに、俺だって今は独身なんだし仲間にしてよ」

 佐田岡はグラスを俺の前に置いて、監督を挟むようにして座った。ふと目が合って片目を細めて微笑まれる。さっきから助けられてばかりだ。

 ターゲットが俺からうつり、監督は佐田岡の肩に肘をかけモテるのモテないのとからみだした。

「お前を仲間にしたら全部お前になびいちゃうじゃんよ〜」

「でも不特定多数からモテたって仕方ないじゃないですか」

「はい出ました、モテ男の余裕〜」

「本命から好かれなかったら意味がないでしょ」

 絶妙に苛つく顔で新たな生贄をつつきまくる中年と、それを苦笑しつつたしなめる佐田岡とでは、たしかに、俺が女なら佐田岡を選ぶだろう。

「いや! それでもオレはモテたい!」

 すると『モテ』の話には目が無いラクダが、隣の座卓からいきなり参戦してきた。

「お前、子供三人ももうけてよく言うよ。奥さんの他に可愛い子までいりゃそれで十分だろうよ」

 そう二枚目にツッコむ三好は、冷房が効いて寒いくらいの座敷で巨体にじっとりと汗をかいている。

「俺も佐田岡派だな〜、俺もみぃたん以外の誰に嫌われても構わんわ〜」

「うっせぇ橋本、さっさと結婚しろ! 乾杯!」

 同棲中だという橋本の余裕ぶった態度に、ラクダは今日何杯目かわからないビールをまた一気にあおった。


 俺はモテ談義で盛り上がる連中をしり目に、ちょっとトイレとだけ言って抜け出した。

 襖を閉めた俺の手は、脂汗でびっしょりだった。

 本当に俺は一体なにに焦っているんだ。恥ずかしいような、苦しいような、なんとも言い難い感情。こんな気持ちも初めてで、なんと表現していいのかわからない。

 恐ろしい。

 それが一番近いのかもしれない。



 座敷を出た俺は、クールダウンしようとジャケットの胸ポケットを探った──しまった。タバコもライターも座卓の上だ。

 仕方がないから小便してさっさと戻るか、とトイレへと向かうと、通路の角を曲がったところで梨花とばったり鉢合わせてしまった。

 そうか、さっきの騒ぎの最中声が聞こえないと思ったら、いつの間にかトイレに行っていたのか。俺はいまだにだ。

「梨花」

 気づいた時には時すでに遅し。俺は咄嗟に、昔の呼び名で声がけてしまっていた。

「先輩。お久しぶりです」

 あの頃の全く変わらない声と、小首をかしげるしぐさ。

 その姿にショート寸前の俺と、落ち着き払った梨花の態度。当時を再現するかのような時間。

「……元気だった?」

「まあまあです。先輩は?」

「俺もまあまあかな……」

 相変わらず小柄な身体は、けれど野球で鍛えたせいか少し筋肉質に引き締まって見えた。肩まであった髪は、小ぶりなピアスの空いた耳の下あたりまで短くなっている。鹿みたく大きな目、長いまつげ、少しだけ上を向いた小さな鼻は、酒のせいか化粧のせいかほんのり色づいている──変わらない梨花と変わっている梨花を数えて、俺はどうしようってんだ。


 梨花は黙って、俺の言葉の続きを待っているように見えた。

 野球はまだ続けてるの? ポジションはどこ? 俺はとっくに野球もやめちゃったよ。そんな当たり障りのない話をするつもりで口を開く。

「あの、江崎と結婚したんだってな」

 なのに俺の馬鹿な唇は、こともあろうに一番口にしたくないことをのたまった。うそだろ。

 大きな目にはっきりと動揺の色が浮かぶ。でもそれも一瞬のことで、すぐにもとの冷静で大人びた態度に戻った。

「うん、佐田岡くんから聞いてました?」

「誰から聞いたか忘れちゃったけど……、風の噂で知ったよ」

「じゃあ、噂で上手くいってないってのも知ってます?」

「えっ」

 呼吸が止まる。

「あっそろそろ戻らないと、怪しまれちゃいますね。みんな噂話好きだから。先輩もトイレでしょ?」

「あ……、うん、そだな」

 有無を言わさぬ梨花の物言いに小声でそう言い返すのが精一杯で、その姿が小走りに角を曲がっていくのを見つめるしかなかった。



 それからの俺はほとんど上の空で、三好達の言葉に適当に相槌をうちながら、梨花の笑い声とラクダの雄叫びをどこか遠くで聞いていた。

 盛り上がる宴と裏腹に、俺の興奮は次第に醒めていく。

 頭の中を渦巻いていた、かつて聞いた梨花の言葉と今日聞かされた梨花の言葉、監督の言葉、佐田岡の言葉たちが混ざり合って、ひとつの答えを出そうとしていた。

 俺は──


「山田、

 突然背後から呼び掛けられ、俺は座布団ごと飛び上がった。

「佐田岡」手渡された灰皿に、落ちかけた灰ごと煙草を押し付ける。「悪い、ぼぉっとしてた」

「顔色悪いけど大丈夫か? 飲んでないんだろ?」

「あぁ、きっとゴルフ疲れだな。朝早かったし」

「大変だな。二次会は遠慮して早く帰れよ」

「うん、悪いけどそうさせてもらうわ」

 俺は今さっき考えかけたことを忘れようと、一気に冷たいお茶を流し込んだ。

 その俺を眺めるようにしていた佐田岡は、飲み切って喉を鳴らすのと同時に急に真剣な顔になり、声を潜めた。

「なあ。梨花ちゃんのこと、早く忘れた方がいいぜ」

 心を覗かれたようで、俺は早口に取り繕う。

「なに言ってんだよ、もうとっくに忘れてるよ」

「ならいいけど」

 佐田岡は肘をついた手で後頭部を抱えると、ほんの少し顔を傾け、横目でじっと俺を見て口元を緩ませた。

 目は笑っていなかった。

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