15 滅びの蝶


 生き残った心は、ゆらりと軋む骨盤同様に空っぽ。裂傷の残痛に、じんわりと耐え……この腕は温かい生命いのちを抱いている。関節が緩んだ人形のような私の中に『ひと』が生きていたなんて、己の目で見るまで信じられなかった。小さなかかとの力強さは、ずっと感じていたけれど。


智太郎ちたろう』は、ふわふわした髪質がわたる譲りだった。色彩は、残念ながらわたしの血を継ぐ証。白銀の睫毛は、新雪の樹枝じゅし先を見つけた時に似ている。花緑青はなろくしょう色の瞳の奥――潤う千芒星は、虹彩の輪で純粋な光の花束を捧ぐ。


 小さな凛々しい眉を撫でて悪戯イタズラをする度に、愛しさと表裏を成す喪失感が、指先へ齎された。


 秋陽が居たら、私の真似をして智太郎に可愛らしい悪戯をする。千里とお揃いのおくるみをくれて、男の子だけど可愛いお洋服を着せたくなっちゃうねと笑うのだ。金木犀の下で聞こえるはずの陽だまりの声を、私は焼き付けていたい。


 眠る秋陽の身体が焔に包まれ、絶対的な死灰しかいの中から、骨上げ箸で拾った脆い骨が砕け散る余韻なんて耐えきれない。白くない骨の鮮彩さを知らなければ、私の中の秋陽は死なない。再会の約束は【感情視】にあったのだと信じるがまま、『外の世界で生きる秋陽』という夢を、檻の中で視たいと願ってしまった。

 

 鉄格子の隙間へ指先を晒せば……花緑青の陽炎が燃え上がり、拒絶する。『秋陽が居ない外の世界』をこれ以上知れないように、私の無意識は呪いを掛けたのか。


「咲雪」

 

 燃える爪を覆った手は、智太郎を抱く私ごと引き寄せた。皮膚が焦げる匂いが、山間やまあいのような静謐な香りに攫われていく。見上げれば、柳煤竹やなぎすすたけ色の髪がくすぐった。渉の傍で、私は安堵に弱っていくんだ。


「秋陽が遺してくれた、綺麗な檻の中は温かいのね。何で、なのかな」


「分からないのか? 内と外から、俺達が咲雪を抱いているのに。秋陽さんが望んだ願いを叶えられるのは、咲雪自身しかいない」


 渉が耐えるように蒼黒の鵲眼しゃくがんを細めれば、私を小さな細い希望が刺す。凍らせてきた心臓を痛みに救われ、針に縋れる私は幸運なのだろうか。


「……叶えるよ。生き残ったからには、秋陽の遺言を守る。千里の為にも、私は答えを出さないといけない」


「それだけじゃないんだ、咲雪。秋陽さんが笑っていて欲しいと願ったのは……」 


「その女は、貴方の言葉だけでは気づきませんよ。秋陽の亡骸を見送る事も出来なかったのだから」


 春に舞う一片ひとひらを思い出す。地下こちらへの階段を降りる度に、桜色の着物が揺らぐから。私を睨め付ける彼女は、肩から掛けたさらし稚児ややこを抱いていた。薄茶の髪を肩上で真っ直ぐに切り揃えた彼女は、己の愚直を貫いたのだと本能的に理解していく。桂花宮家ここに居る事が、自ら異端の世界に踏み入った証明だ。七年前、蛍雪けいせつ中学校の音楽室の窓から飛び降りた私を、呆然と見送った彼女とは久方ぶりの再会だった。

 

那桜なお……? 」


「今は、羽衣石ういし家に嫁いだの。貴方とは違って、妖とは無関係だった人間が、秋陽を一番近くで守るには手段なんて限られてるでしょ? 人生を賭けた意味なんて半壊したけど……私が生きる理由は、まだある。秋陽の代わりに私が、になったのよ。咲雪の顔なんて見たくもなかったけれど、秋陽の願いの為に来たの。貴方は、想像以上に酷い体たらく」


 その言葉に、歩む那桜が抱く稚児の正体を知る。地下牢へ、望んだ陽が差した。秋陽と同じ鶯色の髪の子は……『千里せんり』だ。無垢な頬紅は、きっと柔いのだろう。秋陽の忘れ形見は『人』のまま、この世の穢れなど知らずに眠っていた。那桜は、千里の正体を恐れないのか。


「幸せに生きなさい、バケモノ。翔星さんがあるじとなった今、咲雪は自由になった。秋陽の願いは『家族』が幸せに生きることなのに……己を呪うなんて、憎ましいのよ」


 私と錠の解かれた檻を睨め付けるのをやめた那桜は、七年前より変わったと感じた。……違う……七年前も、秋陽を傷つけたわたしを案じてくれた。やや垂れ目の丸い瞳で私を見つめた那桜は、愛情を隠せない人間だったのだ。腕の中の千里になら、尚更。


「二人に、本題を伝えるわ。二年後、羽衣石家は『蝶』の間引きを行います。羽衣石家わたしたちの根源たる『蝶』は、他の妖力を喰い尽くしえ続ける妖。『蝶』を狩る為の生力由来術式を必要とするその時には、渉さんの力もお借りする可能性があります」


「擬似妖力由来術式家門の羽衣石家……そうか、君は『メツ』の術式を継いだんだな」


 渉に応えるように、那桜が袖から白札を取り出せば、籠提灯が生成されていく。白光で脈動する紙繭の隙間、青白磁せいはくじの翅をゆっくりと羽ばたく『蝶』を見た。下等な妖だからか意思を感じない……と白光の鱗粉に呆けていると、『蝶』は真っ直ぐにわたしの方へ飛ぼうとし、肌が粟立つ。白札の繭に阻まれて叶う事は無かったが……あれは『妖力を喰らい、滅する』という本能しか持たない、寄生虫か。複眼が静止し、長い腹が波打つ。

  

「他の擬似妖力由来術式家門からは、羽衣石家は『異端』と蔑まれていますが。彼らは、己の術式を喰い尽くされるのを恐れているのですよ。宮本みやもと家との協定が無ければ、力の無い羽衣石家はとうに滅ぼされていたでしょう」


「何故、俺達へ事前に情報を与えてくれるんだ」


「秋陽と咲雪を想えば、温情と警告、どちらも伝えたくなったからです。『蝶狩り』に生力由来術式家門の妖狩人が集まるという事は、『得物エモノ』を欲する『首謀者』が動く可能性がある。散々煮え湯を飲まされてきた貴方達は、一矢報いたいのではありませんか? 」


 裏から冴達を操り、妖狩人らの疑心暗鬼を形代わたしへ拭いつけた『原初の妖』。姿見えねども、恨みが無いかと言えば嘘になる。だが……。

  

「もう一つだけ、咲雪に伝えないといけない事があったわね」


 去り際に、那桜が桜色の袖を翻す。

 

「七年前。唯一の芽衣ははおやを大切に想う貴方に、私は言ってはいけない事を言ってしまった。……心から謝罪するわ。生きていてくれて、ありがとう」 


 陽に包まれた微笑みの余韻に気づいた時、小さな悔しさが立ち込めた。蝶の籠提灯を手に、『幸せの意味』へ導いてくれた那桜は……すでに地上へ消えてしまったから。


「烏合の宮本家が、羽衣石家を使って罠を張り始めたな。『首謀者』を捕らえる為か、或いは『首謀者の配下』としてか」


 智太郎ごと私をいだく渉はくうを睨み、かいなの力が強まる。熱く隆々する筋に触れれば、愛しさと不安を覚えた。


「那桜を疑ったりはしないけど、自覚無く使可能性があるのね。『首謀者の配下』の疑いが消えない私への一報は、『首謀者』を誘き寄せたい宮本家の布石……? 」


 或いは、『首謀者』が形代わたしを誘っているのか。


「期待は半々、と言った所だろう。『妖狩人家門当主』達へも、通達があるはずだ。咲雪以外にも探りを入れて『首謀者』への警戒をさせる為か、『首謀者の配下』として『秘ノ得物』を狩る宣戦布告かは分からないが……尾白 隆元ちちうえは誘いに乗るだろうな」 


「警戒はしても、応えてあげる必要なんて無い。私は『家族』と居たいの。……もう渉は、私達を置いて猟犬になったりしないでしょ? 」


「……ああ」 


 渉の儚い微笑に何も言えなくなった時、智太郎が欠伸をした。苦笑した私達は不安ごとあやす内に、川の字で泥のように眠りへ落ちていく。渉と私で額を近づけ智太郎を守るように抱き、『池』のように円くなって。呼吸と人肌の温かさを感じながら深く落ちるのが心地好いなんて、久しぶりだ。これが、私の『幸せ』だったのか。


 ――恐れていた、くらい奈落の底なんかじゃない。

  

 背丈程の蓮の葉が、露を弾いた夢だった。白い長襦袢を引き摺って、ほとりの泥濘を裸足で進む。緩慢に沈みながら、蓮の蕾へと手を伸ばせば、葉の上に誰かが舞い降りた。


 彼が振り向けば、左肩から背へ垂れ下がる金糸の修多羅しゅだらの太房が権威を誇る。木蘭色もくらんじき法衣ほうえの上に、壊色えじき七条袈裟しちじょうけさが左肩から斜め下に身と左袖を大きく覆っていた。壊色の文様は、田の字型の額越しに、水面を鑑賞しているように錯覚させる。水縹みずはなだ色のます内を流れる金箔の流水紋へ、蓮が散りゆくのだ。


「貴方は……天瀬 櫂海あまがせ たくみ? 」


 舛花ますはな色のはねっ毛で厨二病の如く左目が隠れているのは、漣廻寺れんかいじの若住職だ。翔星かいせいと同い年だと聞いた事があるから、今は二十八歳位だろうか。七年前、桂花宮家に未知の妖として捕縛された少女の頃に会ったきりで、夢に出て来られる程に親しかった覚えはないが。


「そう見えるなら、『蝶』を知ったお前は正しく夢に沈んでいる。は可能性を確かめに来たんだ」


 咲いた蓮華座れんかざに腰を掛け、仏像のように半跏はんかした天瀬は、あめ色の眼光を研ぎ澄ます。後光すら背負い、以前感じたヘラヘラとした雰囲気が無い。二重人格とでも言うのか……。はたから見たら、彷徨えるわたしを僧侶が救済しようとしているように見えるのだろう。

 

「可能性? 」 


「あぁ。『人』に肩入れする『妖』のお前は、問いに答えねばならない。埜上 咲雪、お前が救いたいのは『人』か『妖』か」


 正治しょうじと翔星が語った、人を忘れられない『わたしの可能性』を、この男も語るのか。

 

「救いたいなんて、高尚な事を問うのね。私は大切な『ひと』達と過ごしたいだけ。『人』も『妖』も、私には関係無いの」


「『人』に飼われているくせに、憎悪が無いとは恐れ入る。帰るべき隠世を捨てただけはあるな」


「私が憎悪してるのは『妖』の方よ。『人』を憎んで化し、憎悪の連鎖を始めたのは『原初の妖』だから。私の炎陽ちちおやと正治に、嫌というくらい理解させられたわ」


「初めから『妖』であるお前には分からない。『人』が『人』に、どれ程残酷になれるのかを。くだれば、真実を教えてやろう。蘇った支配者として、蟲の如く蔓延る奴らに制裁を下してやる」


 天瀬が鳩尾みぞおちを深く抉る声で手を伸ばせば、私の胸の内が光を帯びる。驚愕に目を剥いた。私の白い太陽の根源しんぞうに触れられるのは、わたしより上位の妖だけだ! 声も出せぬ金縛りの中、洗朱の鰭条きじょうを見た。私を螺旋で囲った『人魚』が牙を剥く!威嚇音に舌打ちした天瀬は、私の魂をさせる事は出来なかった。睨み返しても、くどい鼓動が打ち続ける。

 

「……厄介なモノに憑かれているのか」


「天瀬かどうかも疑わしい貴方こそ、『人』じゃないでしょ。貴方は、海辺で出会った私へ予言をした『青い左眼の占い師』なの? 」


 晨星落落しんせいらくらく。明け方の空から、『秋陽』という私の星は確かに消えた。星と告げたかれの声音は、嫌な予感を連れて来る。


「予言……? あぁ、【未来視】の青ノ鬼あおのかみの事か。わざわざ助言を告げに来るとは、世話焼きな事だ。弐混にこん神社は、青ノ鬼の子孫を狩った宮本家にさぞ恨みが深かろう。羽衣石家の『蝶』も、喜んで狩り尽くしてくれるはず。青ノ鬼の魂の器の、青ノ巫女姫が『人』である以上可能だからな」 


 妖力を喰らう『蝶』を滅したいのは、擬似妖力由来術式家門だけでは無い。妖達も同じだと気づけば、天瀬の瞳孔は獣のように細く化していた。

 

「兎角。誘いを断ったお前は、根源しんぞうを賭けたと遊戯をしなければならない。お前が賭けるのは、大切な存在だ。『蝶』と『妖狩人』を狩る遊戯を終わらせたければ、『後継の白虎びゃっこ三節棍さんせつこん』と『桂花宮けいかみや 千里せんり』をこちら側に差し出せ。咲雪おまえくだらねば、悪夢は続く」


 我に返れば、腰まで泥濘に沈んでいた! 牙を剥き、私を沈める泥に藻掻くも虚しい抵抗になる。


「そんな遊戯、する訳が無いじゃない!」

  

「お前のは、既に決められている」 


 今まで沈むのが緩慢だっただけだ。呼吸も、氷のような眼光を睨む視界さえ、泥に遮断された私は奈落のくろを思い出した。

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