自分のことについて書く 4

 今日FWN、Friedrich Wilhelm Nietzscheの思想について一本筋の通った理解を得ようとするならば、


①木田元によるハイデガー論(岩波新書、岩波現代文庫)

②ハイデガーによるニーチェ講義(平凡社ライブラリー、全2巻)

③ニーチェ講義で言及される哲学者の著作

④FWN本人の著作


 の順で読むことを強く薦める。

 20世紀の高名な哲学者・哲学史家の中で、思想の歴史、精神史の中に組み入れる形でFWNを論じたのは、ハイデガーが唯一とは言わないが、その最大のものと言って差し支えない。他のものは皆精神史上の特異点としてFWNを扱おうとするきらいがある。確かに『悲劇の誕生』という異様な古典文献学の著作によって論壇にデビューすると同時に放逐され、漂白の中で独自な思想を練り上げていったこの反哲学者は、数多くの断片的著述を残した末に、「力への意志」の概念を彫琢する道の半ばにあって狂気に斃れた。しかしFWNはキリスト者であり、ショーペンハウエルの信奉者である。彼は古典悲劇の時代以来の地中海とその周辺の精神史を受け取って書いた。その個別的な思想の道行きを辿り直し、ドイツ語圏の精神史の中にFWNをもっともよく組み入れたのは、ハイデガーである。

 無論、マルティン・ハイデガーによるニーチェ講義は1930年代のものであり、WW2以後のフランスにおける「ニーチェ・リバイバル」に時間的に先行する。しかしながら、その先行・後続関係は単に時間的な前後を示すに過ぎず、ジル・ドゥルーズをはじめとする「フランス現代思想」のニーチェ論が必ずしもマルティン・ハイデガーのそれを継承発展させているわけではない。本邦におけるFWN受容の大半についても言えることだが、フランス人たちもまた「既成道徳・形而上学に対する敵対者」として、思想史上の特異点としてFWNを扱ったきらいがある。そのような態度は、いきおい個人崇拝めいたものに傾いていくのだが、こうした個人崇拝、言い換えれば彼のテキストに真理が記されているとみなす態度は、ほかならぬ真理の構成を論じ続けたFWNの態度に真っ向から矛盾する。

 フランスの「ニーチェ・リバイバル」において、FWNを特異点としてみなす趨勢には、20世紀前半のドイツにおけるFWN受容の一傾向が大きく関わっているようである。ゲオルギウス=ジョルジュ・バタイユの『ニーチェ覚書』――FWNの著作からの抜粋集――第三章「政治」の冒頭には、選者による解題が付いている。FWN解釈上の原則をいくつか挙げるなかで、GBは、「力への意志」とは「精神の自由、精神的存在の至高性」に関わるものであり、その問題圏では「物質的な富を所有することが問われているのではない」こと、また「この至高性は、政治権力とは明瞭に区別される」こと、「超人」と「末人」という「至高の人々と大衆との隔たりは、封建制の時代に階級を分離させていた政治上の差異とは何ら共通点を持ちえない」こと、を指摘している。こうした区別を忘れると、FWNの叙述は容易に「ナチスの精神と混同されてしまう」――AD2022/02/24以後には陳腐に成り果てた悪の記号をGBが用いるのをそう簡単に笑ってはいられない。同書は帝国主義的近代性という「他者の絶滅への意志」が初めて欧州内部で炸裂してから日が浅い時期に編まれたのだし、FWNの政治的読解というミスリーディングへの嫌悪は、必ずしも故の無いことではないのだから。

 事実、FWNの精神史的ならぬ政治的読解は、20世紀前半のドイツにおいて一種の流行を見せた。力への意志、Wille zur Machtと言われる。この「力」の文言が、失った領土の奪回、「ナチスの戦争」(リチャード・ベッセルの同名の新書を参照)と結び付いたこともまた事実である。またFWNの妹エリーザベトがNSDAPのフューラーに取り入り、兄の遺品のステッキを贈与するなど、第三者による演出も相まって、その印象はさらに強まった(このあたりの詳細については、マンフリート・レーデル『ニーチェ思想の歪曲:需要をめぐる100年のドラマ』を参照のこと)。

 こうした印象からFWNを救出するために、WW2以後のフランスでは偉大なる哲学者としてのFWN像が多く打ち出されることとなった。しかし、それらにしても、FWNを「最大の価値の顛倒」の哲学者とみなして、精神史上に彼を位置付けることを怠った。FWNは、その無頼漢めいた逸話や自己演出、そして文体に反して、やはり精神史上のいち思想家である。そのありようを最も明確に語ったのは、マルティン・ハイデガーを措いて他にいない。FWNの、政治的読解でも個人崇拝的読解でもない、哲学史的読解をもっともよく施したのは、マルティン・ハイデガーである。

 このようなことを自分がネチネチ言い募るのは、かつて読んだ『ツァラトゥストラはこう言った』の中の一節「ツァラトゥストラの猿」が、私に強い印象を残しているからである。手許に同書がないので引用できないが、この節の主旨は要するにツァラトゥストラの掲げるテーゼの猿真似を戒めることだった。真理や真実というのは、要するに人間が持ったいち観念に過ぎないのだが、それがあたかも超越的な実質であるかのように思いなされることで、崇拝の的となる絶対的・排他的真理へと祭り上げられる。そうなれば後に残されるのは猿真似と繰り返しで、ゲオルギウス=ジョージ・オーウェルの『動物農場』に描かれる羊たちと、やっていることはそう変わらない。真理の構成について数々の著述で語ったFWNの態度を具象的に語ったのが「ツァラトゥストラの猿」の節である、と私は考えている。そういうわけだから、思想史上の特異点としてFWNをみる態度に私は反対し、精神史上のFWNの位置を理解することこそ重要であると私は考えている。


   * * *


 気に入っている詩。かなり即興でできた代物。


Wife beating, slut talk, femicide... Yes, I'll eat

Bread being to blame if I'd a wife to beat.

You people for justice should kill golden boys

Instead you hate bad guys lonely playing toys.

Injustice and inaccurate anger

You show for us, all men, is to go there.

Let's catch and kill that golden boys and guys

With virgin clowns: I'm ready for disguise!


   * * *


AD2023/黄4721/05/03


>成人女性が高く幼い声で幼い仕草で幼い言葉で「自分を小さく見せる」ことに全力をかける社会。

https://dot.asahi.com/dot/2023050100075.html?page=1


……この手の幼稚さを嫌う人間としては、これを好むことが「男性的嗜好」として一般化され、あまつさえその「暴力性」に連座させられることに対する深い怒りの感情がある。

「ジャパン」と銘打ち、「おんなの話はありがたい」と自画自賛する北原みのりだが、このように一般化することの「暴力性」については、思考することが及ばないのだろうと考えられる。

……幼稚さを求める男性の幼児性と同様に、実存的に幼稚に振舞っている女性の幼児性は、何故糾弾されないのか?

 何がガラパゴスだ、男がそうであるなら、それに阿諛追従する女もまた――ガラパゴスなのだろう?


 女性主義が扱う男性性とは女性の意識・環世界に現象する男性の性質であり、人付き合いをほぼ断っている私のような人間の趣味嗜好についてかのじょらは別に何ら興味も持たない、自分に近付いてくる連中を一括して呼んで非難しているだけのことではある。

 そこで「男性性」という超越的な術語を用いることが……これまでの男性による数々の「女性」論と同様に……独断的な「男性性」の定立という悪弊を生むのだが。

 あるいは女性主義者は(cf. S. de Beauvoir)女性が自らの言葉で主体的に(独断的に)女性性・男性性を定立することを目的とするのであって、主体的(独断的)な定立一般を非難するのではなかったのかもしれない。しかし、そうであるならば、女性主義的な独断的女性規定への批判は、あくまで一方に対する他方の対立であり、メタ的な批判力を有することはない。

 ボーヴォワールをはじめとする女性主義は、男性による独断的・環世界的な女性規定の超越的な真実性を否定することはできる。正確に言えば、環世界的な規定に独断的にも超越的真実性を付与することを非難することはできる。しかし同時に、女性主義における環世界的男性規定を超越的な真理として提示するならば、それは批判対象と同様の独断的性格を女性主義が帯びることを意味する。この独断的性格は権力の後ろ盾によって保護される。権力付与(エンパワメント)を求める女性主義が、このような独断的規定を可能とする権力を欲することは、運動自身の流れとしては自然なものだとしても、理論上の正当性は怪しまれる。


   * * *


47210505


 神奈川県川崎市の地元にずっと住んでいて、就職を機に地元から北陸に引っ越してきて3年目になる。現場監督として長く働いている先輩・上司は工業高校や高専の出身が多く、大きな現場では100人以上にもなる職人ひとりひとりは、恐らく大学進学率はかなり低い。そういう場所を眺めて過ごしてきて思うのは、「ここにいる全員の給料が今よりもっと上がる、そういう未来を目指す必要がある」ということだった。

 格差の是正という観点からは、一つには、例えば教育格差の是正といって、地方に教育機関や都会にしかない職掌を誘致するとか、全体を均質化するための努力が求められる。他方で、教育を受けた人間だけで世間が回るわけではないということも明らかであるから、教育如何にかかわらず関心と富の適正な分配が求められるだろう、と私は思っている。


【エッセイ】これからは「田舎」の話もしよう: ポリティカル・コレクトネスが絶対に直視できない「地域格差」を考える

https://note.com/hidetoshi_h_/n/nba5ad1dbf2ca


 筆者の堀口は大衆の関心を一種の「公共財」とみなして、いわゆるジェンダー、性別に基づく女性への差別の問題には非常に高い関心が寄せられるにもかかわらず、構造的な格差によって苦境に立たされる地方に対しては「遅れている」「政治的に正しくない」と追い打ちをかけるようなバッシングが行われている、その結果大衆の関心は集まらず、存続すら危ぶまれている――まず共同体を存続させるために、金のある地域=東京、都会とのコネを持つ人物≒男性を政治的に優遇せざるを得ず、その様子がまた都会のメディアによって「正しくない」と非難されるスパイラルに陥る――という指摘をしている。

 共同体の存続が危ぶまれるような状況では人間の行動は最大限に「合理化」され、余剰が認められない――という論理は、小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』にも見られた。星間飛行船がロストテクノロジーと化した植民惑星では生命の存続のためにも人口の再生産が至上命題であり、再生産に寄与しない同性愛は全く是認されない。それは、人的・物的に少ない資源を背景とした已むに已まれぬ選択であって、「正しくない」あるいは「遅れている」という選択肢のある立場からの批判を受け付けることが土台不可能な事態である。堀口が主張するのは、そういった資源の偏った少なさの自覚と、その格差の是正との要求である。

 堀口の論議の注目すべき点は、「政治的正しさ」「ジェンダー平等」の論議が目指す「マイノリティの平等」を全面的に達成するためには、都市部と地方の格差、「遅れている」地方の「弱者」性を認識し、これにアライしなければならない、と主張していることである。当たり前だが女性は地方にもいる。地方の女性が「政治的正しさ」の恩恵を受けるためには、地方が都会と同様か、あるいは格差がそう激しくない程度に富み、共同体全体が余裕を持つ必要がある。現在のPCの主潮は、あくまで地方を「男性という強者が牛耳る遅れた場所」とのみ認識して『ヒルビリー・エレジー』に語られるような都会と地方の格差、都会女性の「強者性」と地方男性の「弱者性」を無視するが、これは都市と地方の圧倒的な格差に目を瞑る不合理であると堀口は論難する。都市と地方の格差を無視する現行のPCの論議は、「都会の金持ちの道楽」から脱却することができず、そのお題目であるところの「ジェンダー平等」を、より広い範囲で達成することも妨げている。

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