リアルガチの哄笑:パラニューク『サバイバー』を読んだ

 名の知れた批評家が、パラニュークを「現代の予言者」、ないし「時代の批判者」として称揚してみせることもままある。去年出た文庫版『サバイバー』には英文学者の北村紗衣が解説を寄稿している。せっかくなら女性米文学者を起用してもよかったろうにと思うが、自分は米文学者事情にまるで詳しくないので、例えばこの人……と例を挙げることはできない。とにかく北村紗衣、シェイクスピアを主専攻とする英文学者は、『サバイバー』を「『ファイト・クラブ』と並んで、一九九〇年代の物欲まみれのアメリカ社会のあり方を辛辣に諷刺する一方、陰謀やテロ、フェイクニュースを用いた世論操作やマーケティングなどが横行するようになる二十一世紀の社会をも予見していた作品だ」と語る。

 辛辣な風刺。社会を予見。

 また、『サバイバー』自身予言が重要なカギとなる作品であることから、作中に登場する「予言者」ことエージェント何某を引き合いに出し、彼の言動と作者パラニュークの「予言」を対比させている。このエージェントは何とかいう「トータル・コンセプト・マーケティング/PR会社」に所属している。会社は例えば、ギリシア語、ラテン語、英語その他考えうるかぎりの言葉を組み合わせて、製薬会社が新製品に使いそうな言葉を商標として登録しておく。商標権を先取りする。製薬会社が新製品を作り、命名をしようという段になると、命名案はすべてこの会社がおさえている。製薬会社は新製品を売り出すためにこの会社に金を払って商標をリースする羽目になる。裏を返せば、この会社は将来登場する、たとえば糖尿病治療薬の新製品の名前を確実に予言している。

 新手の詐欺のような手口だが、そういうことになる。エージェントの「トータル・コンセプト・マーケティング/PR会社」にかかれば、どんな新奇な命名も順列組み合わせのひとつの解以外のものではない。

「ひとつの解でしかない」と言ってもいい。お望みならば。

 個別的な事象を無数の組み合わせのひとつに還元するエージェントは、主人公テンダーの境遇についても「特別でも何でもない」と切って捨てるように言う。当事者を前にしてこのように語るエージェントを「冷酷」と北村は非難する。「『サバイバー』はエージェントと違って、テンダーの人生をちっぽけな歴史の一部に還元しない」。そしてふたりの「予言」の最大の違いは、「エージェントは金儲けのためにやっているが、パラニュークは芸術家として社会を冷徹とも言える鋭い視線で分析するためにやっている」点にある。「本作はエージェントの描写を通してさも賢明でポジティヴであるかのように装いつつ、その実は拝金主義一辺倒で個々の人間を尊重しない貪欲な商業活動を辛辣に批判している」。

 芸術家として社会を冷徹とも言える鋭い視線で分析。辛辣に批判。

 テンダー・ブランソンが所属していたクリード教会はネブラスカ州に二万ヘクタールの土地を所有する教団であり、長男及び彼と結婚した女子以外を低賃金労働者(掃除夫、皿洗い、庭師等々)として外界に送り出し、少ない給料から多くを送金させて私腹を肥やしていた。テンダーというのは長男(例外なくアダムと名付けられる)以外の男子に例外なく名付けられる名前だ。女子には例外なくビティと名付けられる。一組のアダムとビティは12~15の子を産む。アダムと、アダムと結婚するひとりのビティ以外全員が外界へ送り出され、ネブラスカに送金する。

 本作の語りが始まる十年ほど前に「脱出」と称した集団自殺を行い、前後してその内幕が明らかになったことで、クリード教会は白人奴隷制を布く家父長制的教団として(既に本体は滅んでいることもあって)世間から激しいバッシングにさらされた。非難に値する集団であるのは事実だろう。しかし悪辣さではエージェントもどっこいどっこいだ。「クリード教団最後の生き残り」として「僕」テンダー・ブランソンを一躍有名人にまつりあげたエージェントは矢継ぎ早に書類にサインを書かせていき、スーパーボウルのハーフタイムを使った一大イベントとして催される模擬結婚式の直前、次のような書類にサインするよう要求する。

「当事者Aテンダー・ブランソン(以下カモと呼ぶ)は、当事者B(以下エージェントと呼ぶ)に対し、テンダー・ブランソン・メディア&マーチャンダイジング・シンジケートに支払われるすべての金銭を受領し配分する権利を委譲する。ここで言う金銭には、書籍、テレビ出演、印刷物発行、講演、化粧品(具体的には男性用香水)などの売上を含み、かつこれに限定されない。。」

 エージェントは「脱出」以前から閉鎖的なキリスト教共同体の崩壊を見込んで「最後の生き残り」をスターに祭り上げる計画を練っており、テンダー・ブランソンはその網に引っかかった魚にすぎなかった。出版された自伝も、番組での発言内容も、すべてお抱えのライターのものだ。とはいえいくらなんでもこの「利益分配契約書」はやりすぎだ。クリード教会よりひどい。読者は乾いた暗い笑いをこぼすことができるだろう。外界の世俗的社会もまた、閉ざされた前近代的社会と同等かそれよりも大きな悪を含んでいる。

「大きな悪を孕んでいる」と言ってもいい。お望みならば。

 冷徹とも言える鋭い視線。辛辣に批判。

『サバイバー』はハウスクリーナーのテンダー・ブランソンや。彼の勤務先の豪邸に住む銀行家夫婦、テンダーと週一回面会するケースワーカー、「予言」をビジネス化するエージェントといった多くの人物を描いて、1990年代のアメリカ社会の端々を活写している。北村が指摘するように、エージェントの拝金主義的経済活動を閉鎖的なカルトと同様のものとして描いてこれを暗に非難するのと同時に、『サバイバー』は1980~90年代の精神医学、その専門知のありかたに強い疑いの目を向けている。第37節ではケースワーカーによるテンダーへの治療や診断について次のように言われる。


 一〇年前、セラピーを始めたとき、ケースワーカーから見て、僕は泥棒じゃなかった。ぼくは最初、強迫神経症患者だった。

 強迫神経症の次に、僕はPTSDになった。

 その次は広場恐怖症になった。

 パニック障害にもなった。


 このときケースワーカーは二十五歳、学位を取ったばかりで実地での仕事はビギナーとはいえ、当事者であるテンダーの語り口からはいささか困惑、あるいは不信の雰囲気がほのめかされる。


 初めてケースワーカーにあった直後の三ヶ月ほど、子供時代をいっさい語らない僕は、解離性障害だった。

 次に統合失調症型人格障害になった。ケースワーカーが週一度開いているセラピーグループへの参加を断ったからだ。

 次に、典型的な事例になるとケースワーカーが考えたおかげで、ペニスが小さくなっていき、ついに消えると同時に自分は死ぬと思い込むコロ症候群(フェビアン、一九九一年/ジャンほか、一九九二年)になった。

 次にケースワーカーの気が変わって僕はダット症候群にかかり、夢精をしたり、単に小便をしたりすると、精子が空っぽになると思いこんだ(チャッダ&アフジャ、一九九〇年)。これは、血液四〇滴で骨髄液一滴が作られ、骨髄液四〇滴から精液一滴が作られるというヒンドゥー教の古い迷信に由来する症状だ(アクタール、一九八八年)。


 ケースワーカーの診断もまた、ある意味で予言と似た効果をあげる。「カウンセリングのたび、ケースワーカーは別の問題を指摘して僕に新しい症状を与え、それを理解するための本をくれた。翌週のカウンセリングまでに僕は与えられた症状を完璧に身につけた」。引用部にカッコ書きで出典が示されているのは、元をたどればケースワーカーがテンダーに与えた精神医学の文献であり、テンダーは与えられた文献を読んではそこにある症状と同じようにふるまった。ある週のカウンセリングでケースワーカーがテンダーを診断すると、翌週にはテンダーはその診断通りの症状をあらわにする。ケースワーカーの診断は当たったのだ。エージェントのような数量にあかせた戦略とは異なるものの、エセ予言である点に変わりはない。


 ある週は放火魔だった。また別の週は性同一性障害だった。

 僕は露出症だとケースワーカーが言うから、その次の週、尻を露出してやった。


 一事が万事その調子だ。

 診断名すら変わる。第18節では先日死んだケースワーカーの持っていた精神医学辞典が登場する。「彼女が生涯をかけて学び、信じた知識を早くも否定する証拠がここにある。DSMのこの版の巻末には、その前の版からの改定点のリストがある。」曰く、


 遅漏は射精障害に変わっている。

 心因性健忘症は解離性健忘症に変わっている。

 夢不安障害は悪夢障害に変わっている。


「何が許容範囲内で、何が正常で、何が正気か、最新の定義がここにある」。「以前は正気だった人は、新しい基準に照らすと精神異常者だ。以前は精神障碍者だった人は、健康な精神の見本だ」。勿論実際の精神医学の現場がテンダーの語るほど極端に変わることはそうそうないにしても、十年が経った現在時に回想するテンダーの口ぶりは、不信というよりも、ほとんどはなからケースワーカーを信頼していないというふうである。

(脱線。ケースワーカーのことを抜きにしても、テンダーの行動は逐一彼の意志以外の何かによって決定されていた。『サバイバー』では「~によれば」という表現が執拗に繰り返される。雇用主はテンダーの手帳にびっしりと一日一日の予定を書き、その通りに仕事をするよう命じる。DSMはテンダーに演じるべき「症状」を命じる。エージェントはテンダーの行動や商業活動を完全に掌握している。クリード教団の教義では「脱出」すべきという天啓が下ればすぐさま「脱出」、自殺しなければならない。本作には様々な「予言」が登場するが、テンダーを中心に考えるなら、「予言」とは予め定められたことへの隷従だ。)

 テンダーはハウスクリーナー、掃除夫として十年間働いてきた。現代風に言えばエッセンシャルワーカーに相当する人物である。彼は雇い主の銀行家夫妻にテーブルマナーを教え、かれらを含む富裕な人々の住む家を血飛沫や弾痕にいたるまで綺麗に掃除し、かれらが整備しない広い庭をばれもしない造花で飾り付ける。

 辛辣に批判。風刺。顛覆。哄笑と言ってもいい。お望みならば。

 批評家によれば、そういうことになるだろう。

 似た傾向は前作でも見られた。『ファイト・クラブ』の「クラブ」は危険物取扱に長けた男たちを組織し、首魁タイラーは「あんたは失うものが多すぎる。おれには何もない」と言い放って、スープに小便を仕込んだプレスマン・ホテルの支配人や自動映写機の導入を機にタイラーを解雇しようとする「地方支部の支部長閣下」を前に大見得を切ってみせる。タイラーは支部長閣下に対してこう言う。「あんたや世間から見れば、俺はくずで糞で、頭がいかれてる[中略]おれがどこに住んでいようがどう感じていようが、何を食っていようが、あんたは気にもかけない。子供をちゃんと食べさせられているか、病気になったら医者に治療代を払えるのか、気にしたことなんかない」(pp. 161-2.)。

 パラニュークが『ファイト・クラブ』と『サバイバー』で中心的に描いているのは、低賃金で働くエッセンシャルワーカー、あるいは機械化により淘汰されかねない何某の技師、富裕層に幾らで雇われて理不尽な要求も呑まねばならぬ男たちである。

 くず。糞。

 オレゴン州在住の公立校出のブルーカラーの凡人。

「おれは世界の捨て駒、世の全員の廃棄物だ。」(『ファイト・クラブ』p. 159.)

 スープに小便を仕込む。

 カナッペにくしゃみをふりかける。

 ATMに穴をあけてバニラプディングを詰める。

 集団墓地からくすねてきた造花で庭を飾りつける。

 ロンドンの五つ星ホテルでマーガレット・サッチャーの飲み物に精液を仕込む。

 最後のは文庫版『ファイト・クラブ』著者あとがきにあった。310ページ参照。

 芸術家として社会を冷徹とも言える鋭い視線で分析、辛辣に批判。そう北村は書いた。しかしパラニュークの作品を語るにあたって、それだけの言葉では、よし必要条件を満たしても到底十分条件には足りない。

 哄笑、顛覆、民衆的云々という言葉が、ミハイル・バフチンの影響下に現代の文芸批評においてきわめてしばしば用いられる。しかしそんな概念的対象化で民衆という異質な他者について語る批評家は、ガチの哄笑、リアルガチの顛覆がどんなもんか、わかっていやしない。マーガレット・サッチャーの飲み物に精液を仕込むような悪辣な連中は、――生憎と日本には現在まで女性首相がいないから、例えば、帝国大学の大学者――上野千鶴子の飲み物にも確実に精液を仕込むだろう。

 バイトテロどころの騒ぎではない吐き気を催すような挙動だが、しかしそういうことになる。

「批評」的態度に対する敵意――もちろんそんなことをパラニュークが作中で書いているわけではない。しかし彼の作品はそれに「批評」的な、学問的な、いささかなりとも高踏めいた文体や態度で向かうことをためらわせるものを示唆しているし、著者あとがきでも次のようなことを書いている。『ファイト・クラブ』に対する反響について、種々の当てずっぽうめいた評価を列挙する段の中に――


 バークレーでは、あるラジオ番組のインタビュアーからこう訊かれた。「この本の著者として、現代のアメリカ人女性の置かれた状況をどうお考えでしょう?」

 ロサンゼルスでは、ナショナル・パブリック・ラジオの番組の中である大学教授が、この本は駄作だ、なぜならレイシズムの問題に触れていないからだと言った。


 ある大学教授によれば、レイシズムの問題に触れていない本は駄作だ。

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