種々のことについて
再生
批評ないし批判について
サブカルチャーもハイカルチャーもなんでも批評できる俺かっこいい、という自意識を持ち、しかしハイカルチャーが連綿と繋いできた鑑賞の方法論にもアニメーションの技術論にも手を付けるか付けないか知れないという姿勢は、世代論的な語彙を用いるならば、新人類的エートスと命名することができる。
へえニューアカデミズムですか、それがアカデミズムかそうでないかとか、その構成員各自の自意識や楽屋的状況に関する話は脇に置くとしても、1980年代のコモディティ化の進行と共に爛熟した消費社会の若者の心性はいささか日常性に傾きすぎ、その日常性において用いられる語彙(それはあくまで彼らが普段身の回りで接するという意味であって、日本人の多数にとって慣れ親しんだものであるか否かは問われない)によって非日常的語彙で説明されるべき領域にあるものを含めて説明しようとする気風が発達した。資本という単一の尺度が万物を覆い尽したらしいが、それと同じように、日常的に用いられる単一の語彙体系によって万物を覆い尽すことができる、という自意識が発達した。単一の尺度による全面的な世界解釈の正当性の主張が広く行き渡った。
この姿勢は十余年後に「対テロ戦争」――暴力の一方を正当化し、他方を悪魔化する語彙体系――に結実するのだけれどもそれもまた脇に置くとして、批評という営みが、文芸や音楽や芸術作品や社会を語るのだけれども、それら異なる主題に関する語りを統一的に把握できるような鍵としての「批評」という本質がそこにあるらしい。
そうした主張は、ひとつには「批評」性を担保する文体によって、いまひとつには(非常によろしくないことに)「批評家」の文章であるという属人的な定義によって、したがって極めて権威主義的体制と相性の良い契機によって、その根拠を得ているのではないのかと私は恐れる。
「批評」という本質的な契機を媒介にあらゆる対象を単一の文体・形式の下に語りうるという想定については、他者が不在であるとか、色々言うことはできるけれどもそれはここでは扱わない。しかしそうした態度には少なくとも複数の方法論の並立を是認する鷹揚さが欠けている。その鷹揚さは対象に合わせた複数の方法論によって正確な分析を試みることにつながる。マルクスガブリエルが『なぜ世界は存在しないのか』において「モナリザをレントゲン写真に撮っても絵画としてのその価値は測りえない」ともっぱら自然科学的視座の専制に対して美学的――「人文学的」――視座を擁護したとき、彼は自然科学的視座の専横によって美学的方法論が失われることを嘆いた。それは正当なものである。そしてこの擁護は必ずや逆もまた然りである。
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よく言われるように、既存の観念体系の制度疲労が露になってくるときには、それが現在もなお有効と我々は信じうるかという点で吟味が必要とされるから、いわゆる批判的思考力、批判の力は大いに必要とされる。後期近代のような一種の過渡期(本当か、あらゆる時代は過渡期ではないのか)においてはこれが多く用いられるということも考えられる。しかし批判なるものが批判行為を離れて一連の形式ひいては属人的契機に移行する時、観念体系の有効性の吟味という批判の目的は、今一つの体系の繰り返しの提示にとってかわられている。
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