第5話 前編
次に会う女性を待っていた。
今回の人は遠方から来ると伺っていた。
暫くすると、店頭の出入り口が開いたので、振り返った。
「恋いとさん、ですよね?」
「はい。里英さんですか?」
「はい。はじめましてこんにちは」
「本当に北海道から来てくれたの?」
「えぇ。以前から貴方にお会いしたかったんです。ただし、名前は偽名で。」
「分かったわ。何か飲みます?」
「コーヒーで」
第一印象としては、素朴で大人しく優しそうな雰囲気だった。
正直、彼女の風貌からは、彼から誘われて陥った人だとは思えれなかった。
***
特急列車で道央へ向かう車内の中、音楽を聴きながら窓の景色を眺めていた。
3時間後、駅に到着し、ホテルでチェックインを済ませ、部屋でその時を待っていた。
夕刻になり、会場へ向かうと既にロビーには客で賑わっていた。座席に座り、照明が薄暗くなると、前座で直弟子の噺が始まった。
狸の札。
愛らしく語る狸の仕草が可愛らしく見えた。
次に龍喜師匠の番になり、高座に上がると観客の歓声が響き渡った。
長短、猫の災難と演目が続き、中入りとして、師匠が幼少期から習ってきたピアノを披露した。
シューマン作曲、リスト編曲の献呈。
優美な旋律に場内が穏やかに包まれた。
最後は紺屋高尾。実話を元にした古典落語の一席だ。
全ての演目が終わり、ロビーで観客との握手会が行なわれた。私も列に並び、いよいよ対面の時が来た。
サインと握手、写真まで応じてくれた。
ホテルへ戻り、その喜びを噛み締めながら、浴室で湯に浸った。
何となくテレビを見ていると、室内の電話が鳴ったので出てみると、相手は龍喜師匠からだった。
何故掛けてきたか理由を聞くと、渡した手紙を読んだらしく、同じホテルに滞在している事を知り、フロントの人に部屋の番号を聞いたと言う。
彼はまだ時間があるから、折角なので直接会って話がしたいと言ってきた。初めは戸惑っていたが、勇気を出して、彼の部屋に向かった。
ドアの前に立つと同時に、中から彼が笑顔で迎えてくれた。
「凄い、偶然ですよね。こんな風に会えるなんて思いもしなかったです。」
「僕も驚いたよ。手紙に"どうしても私達の間に何かがあるんじゃないか"って書いてあった時、直感で今日出会えた事が必然と起こる事だったと感じたんだ」
「私、作曲の仕事に就きたくて上京する事にしたんです」
「いつ来るの?」
「来年です。着々と準備をしている最中です」
「夢、叶うと良いね」
「もし叶ったら、師匠と仕事がしたい夢があるんです。私の作ったピアノ曲を弾いて欲しいんです」
「もし出来たら僕にも聴かせて」
「はい。あの、もし良かったら…お友達になってくれませんか?」
ベッドのメモ紙に何かを書いて渡されると、携帯電話の番号とアドレスを教えてくれた。
「君が素直で人当たりが良さそうだから。これからも、宜しくね」
「はい!ありがとうございます。」
すると、龍喜師匠は私の座るベッドの横に座って、手を握りしめてきた。顔を見つめながら、唇にキスをしてきた。
「良いんですか?」
「こうして見ると…里英さんが魅力的に見える。」
彼は身体を抱き締めてきて、私は硬直してしまった。時間が経つにつれて温かな気持ちになり、彼と何度かキスを交わした。
「このまましないか?抱いても良いかい?」
私はある事が過ぎり
「恋いとさんを裏切る事はしたくない」
そう告げると彼は
「また会おう。東京で待っているよ」
「はい」
部屋を出る前に立ったまま、何度かキスを交わして、その温もりに酔いしれながら、私は部屋に戻った。
1年後約束通り、私は上京した。
ある日、渋谷の複合施設の入るデパートに行った。エレベーターで目的の上階へ向かい、降りて一角のところに差し掛かると、見覚えのある人物が視界に入った。
2度目の偶然だった。
「龍喜師匠…?」
「あぁ。久しぶりだね。来ていたんだ。驚いたよ」
「私もです。今日は何をしに来ていたんですか?」
「今月から新居を借りて稽古場を構えた。そこで使うカーテンを探しに来ていたんだ。里英さん、この後用事ある?」
「いえ、大丈夫ですが…?」
「ランチに行こうよ。カーテン選んでからでも良いかな?」
1時間後、近くのパスタのお店に入り、注文をして食事をしながら龍喜師匠の話を聞いていた。店を出てから街を暫く歩いていた。
「夜に仕事があるから、このまま行くよ。メール待っている。また会おうね。」
そう言って彼は急ぎ足でその場を後にした。
その後、連絡をしては何度か会う事が出来たが、彼はいつも以上に忙しい日々に追われていた。
5ヶ月後のある日、低い位置で
「最近どう?」
「何か上手く行かない事ばかりで、色々悩みます」
「例えば?」
「仕事の人間関係もありますし、音楽スクールで周りの人達についていくのが大変で。私なりに頑張っているんですが、なかなか思い通りに行かないんです」
「気が付かないうちに成長している事もあるさ。里英だってまだ上京してきたばかりだ。もう少し頑張ってみようよ」
師匠は私に会えて嬉しいのか、ワインが進んでいた。
「私、今の自分までしか出来ません。限度があります」
正直に放ってしまった。
すると、彼は顔色を変えて店員にコーラを注文した。
「あのな、自分にここまでしか出来ないなんて言うルールを作るな。俺はそういうのが大嫌いだ。」
「師匠、あの…私、そんな風に言ったつもりじゃないんですが…」
「限度を作るなら、それを打ち破るくらいの人間になれ。そうでないと一発で蹴落とされる。落語の世界も同じだ」
「師匠…」
「いいか。自分にはここまでしか出来ないなどと、二度と俺の前で言うな!」
師匠の説教の様な話が暫く続き、私は俯きながら、自分のやるせなさに落胆していた。
しかし、彼は最後まで逃げずに話を聞いていた私の姿勢を褒めてくれた。
店の外に出ると、スコールの様な雨が降っていた。傘を差そうとした時、彼は私にキスをしてきた。
「最後まで逃げずに話を聞いてくれてありがとう」
「私も嫌な事ばかり話してごめんなさい。」「謝るな。自分を信じなさい」
師匠の傘に入り、雨の降る中、小走りで駅へと向かっていた。肩に手を掛けて、時々立ち止まっては、お互いにキスを交わした。
スクランブル交差点の信号を待っている最中も、人目を避ける様に、傘の中で舌を入れながら唇を重ねて合わせて情に更けていた。
「誰かに見つかって、仕事無くなったらどうするの?」
「また新しく増やせば良い。気にするな」
駅のハチ公口前に辿り着くと、彼は優しく微笑んで家路へと向かっていった。
私は電車に乗り、自宅のある駅に着いた頃には雨が止んでいた。
自宅に着いて、店で師匠から貰った洋菓子を眺めて、彼の励ましの言葉を思い返していた。
雨上がりの温かい彼の温もりは冷めやまなかった。
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