夏炉冬扇〜誰も知らないある噺家の情事〜

桑鶴七緒

第1話

都内にある演芸場。


舞台袖から客席を見渡していた。ほとんど満席の状態で、緊張感が高鳴ってくる。


「おい、今日は何の噺をするんだ?」

「青菜にします。」

「随分地味なのにしたな」

「時期的に良いかと思いまして」


出番間近になると、いつもこの調子であにさん達に突かれる。

出囃子が鳴り高座に上がり、最近の出来事を話すと笑いが起きた。受けが良い所で本題の噺に入る。


演目が終わり拍手の中、再び舞台袖から、楽屋へ戻ると、弟子が帰り支度の準備をしてくれていた。

兄さんや囃子方に挨拶をして、着物から衣服に着替えた後、演芸場の裏口から出て、自宅へ向かった。


息つく間もなく、直弟子の稽古を行なった。


数時間後、所属する芸能事務所のマネージャーから連絡が入った。情報番組内の5分ほどのコーナーでMCの仕事を引き受けている。台本が変わるという事で、これから自宅に来るという。


「ただいま…あれお疲れさま。来ていたんだね」

あねさんお疲れさまです。今、稽古が終わったので帰らせていただきます」

「気をつけてね」

「失礼します」


彼女は同じ噺家で一つ年上の梅家 いと。

私の婚約者…と言いたいところだか、ある理由で破棄し、同居人として同じマンションの一室で住んでいる。


「これから事務所に行ってくる。打ち合わせだ」

「そう。夕飯どうするの?」

「作って欲しいんだが、どうだろう?」

「良いよ。」

「じゃあ行ってくる」

「行ってらっしゃい」


マネージャーが到着するとテレビ局に向かった。共演者やスタッフとの打ち合わせが終わり会議室から出ようとした。


龍喜りゅうきさん、今日仕事ありますか?」

「次の舞台の台本読みがある」

「次回飲みに行きましょうね」

「えぇ。お疲れさまです」


再び自宅へ帰り、夕食を済ませて、舞台の台本の読み込みの稽古を呟やきながら行なった。

気がつくと深夜1時を過ぎていた。


祖父であり人間国宝の噺家として業界を牽引してきた咲楽家さくらや 笑花しょうか。その孫にあたる私は15歳で弟子入りした。

周囲の賛否両論を受けて24歳で真打ちに昇進し、悩みもがきながらここまで這い上がる様に必死で駆け抜けてきた。


何度も自殺する事も考えた。


色々な人達の出会いもあり、恵まれた環境下で全てを受け入れるという姿勢を持つことができ、今に至る。


翌朝、リビングへ行くと彼女が朝食を用意してくれていた。


「午後から収録の仕事があるの。もう少ししたら出るから」

「俺、今日は夜に寄席があるから、それまで家で台本読みしている。何か家の事で手伝える事ある?」

「あのさ、この間言っていた話、どうなったの?」

「あぁ、あれか。取り敢えず入籍する事に決まった」

「いつ?」

「来月だ」

「随分早いね」

「お袋の為だ。向こうの親御さんにも挨拶しないといけないし。仕事の合間にさっさと済ませたい」

「私まだ何も準備していないよ?」

「だったら引越し屋に全部任せて、出れば良い」

「ちょっと…新居もこれからだよ?急に言われても、私だって仕事があるし…」

「俺より時間あるだろ?その合間に不動産屋行ったらどうだ?」

「まぁ、出来なくもないけど。私、もう出掛けるから」

「あぁ。気をつけて」


***


長年の付き合いの中で、この様な事は日常茶飯事だった。しかし、今朝の彼の突発的な態度には流石に呆れた。私だって女なのに、同業者である以上に、こんな乱雑な扱いがあるのだろうか。いくらなんでも彼の考えは酷い。


私の中で1つの灯火が芽吹いた。


「おはようございます。メディア部の酒井さんいらっしゃいますか?」

「お待ちください」

「恋いとさん、どうしました?」

「この間、話していた事ですが、記事に書いて欲しいんです」

「本当に良いんですか?」

「えぇ。お願いします」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る