黒き鏡の玉兎。
湊咍人
堕ち憑く
「こんな場所に客とは、珍しいこともあるものだ」
私の全身を覆いつくしそうな
「私は──という」
それは、黒鏡と名乗った。
空中に浮遊する、真っ黒な鏡。なるほど、何の捻りもない名前だが、個人を識別する記号である名前としては、この上なく適当であろう。
錆びているのか?私の問いに対し、奴は不服気に反論した。
「錆ではない、斐旻貶──言語化できぬが、私が鏡を覆っているのだ。この鏡は、ある意味では私の体なのだ」
どうやら、奴は尋常な生物ではないらしい。無機物の表面に膜を張り、重力を無視し言語を解する粘菌状の生物、実に非科学的で興味を引く題材だ。論文にすれば、門外漢を名乗る教授から鋭い素人質問が飛んできそうだ。
「この状態は、見た目以上に力を使うのだ。そこで1つ、取引がある」
「何、単純な話だ。お前の体を数日間貸してほしいのだ」
眼前を漂う正体不明の生物───もはや生物と呼んでいいのかすら不明だが───の提案を、私は躊躇なく飲んだ。
元より行く場所も帰る場所もなく、彷徨っていた身だ。それに加え、所謂「世間知らず」である私は、生きていく術を知識としてしか知らない。野垂れ死ぬくらいならいっそ、一縷の望みに賭けるのも悪くはないだろう。
「双方に利のある話だ、短い間ではあるが協力者として仲良くしようじゃないか」
仲良く、よく言ったものだ。上っ面───顔に該当する部位はどこだろうか───だけの、全くもって感情を感じさせない台詞に絆されたわけではないが、提案に異を唱えることはしない。繰り返すだけ惨めではあるが、私に唯一残された選択肢であることは確かなのだから。
「では、行こうか」
◇
片田舎。
これ以上に適切な表現は思いつかない。
生きていくうえで不便を感じることは少ないが、それ以上を求めることは過ぎた望みであると納得させられる程度の町。
都会ほどに効率化が図られた機能性を持たず、田舎ほどに横の繋がりが形成されてもいない。適度な無関心と妥協で醸造された、現代の縮図のような街だ。
そんな街を巡り始めてから、3日が過ぎた。
「あれが、この時代における寺子屋か」
違う、とも言い難い。そも現代国家という概念が存在していたのかどうかすら定かでない時代の価値観を持つ者に、公立小学校の仕組みについて説明するのは億劫が過ぎる。
「この建造物の材質は何だ?見たところ漆喰ではないようだが」
大方、セメントに何らかの繊維でも混ぜ込んでいるのだろう。その上からどんな塗装を施してあるのかは定かでないが、煤でも吹き付けられたかのように薄汚れた今では誤差と言っても過言ではないだろう。
銀杏の大樹が伸ばした根により隆起したアスファルト。
生い茂る雑草ですら生気を失ったビオトープ。
忙しなく走り回る生徒を睥睨する二宮金次郎。
そして───
私は、確信に至った。
「そうか、お前は───強いな」
ああ、分かっているとも、優しい神よ。
私は。
「いつから気付いていた」
最初からだ。それとも、私の同類はこの程度の違和感にも気付かないほど愚鈍なのか?そんなはずはないだろう。
私の全身を覆いつくすほどの叢があった。───最大でも大人の膝丈程度までしか成長しない植物だった。
私の体ほどもある大岩が土台となり柱を支えていた。───巨大建築ではありえない、束石に合わせ削っただけの柱だった。
私は何という名前を持っていた?どこで生まれ、暮らしていた?何も思い出せないのに、私を見下ろす子供たちの姿がぼんやりと頭を埋め尽くしていた。
分かっている。知っている。理解している。把握している。
思ったように歩けない。どれが食べられる物なのか分からない。何が天敵でどこから襲ってくるのか分からない。恐慌と焦燥に背を焼かれながらも、訳も分からずあなたの元へ這いずり向かったのだ。
あなたと会話することすらできない、この体が忌まわしかった。
ただ跳ぶことすら叶わず、不格好に跳ね回りながら
私は、兎だ。
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