第40話 認めよう、これは恋だ
「トウコ……その、もうすぐ王宮を辞めると聞いたのだが」
私が窓ガラスをせっせと磨いていると、最近は朝食の時にしか顔を合わせないジュリアンが背後から声を掛けて来た。
「あ、はい。ジュリアン様も最近は執務や視察に励まれるようになりましたし、私の役目は不要になったものですから。最後の日にご挨拶をと思いましたが、大変お世話になりました」
私は雑巾をバケツに入れると改めてお辞儀をする。
「──王宮は、働きにくいか?」
ジュリアンが私を見ながら小さく尋ねた。
「え? いえとんでもありません! ジュリアン様やニーナ様はもとより、国王陛下や副メイド長のミシェルさん、学者のベルハンさんや他の皆さんにも大変良くして頂いて、迷い人の私には本当に感謝しかありません」
私は日本では別に飛び抜けた何かがある訳でもない、どこにでもいるような一般人だった。
頭も普通、顔も普通。普通を擬人化したような存在が私である。
まあ海で猫を助けに向かってクラゲに刺されて溺死、と言うフェイクニュースのような終わり方をした女子大生なのは珍しかったかも知れないが。
未だに何故私がこの国に転生だか転移だかしたのも理由は分からない。
ただ、降って湧いたようなこの第二の人生を大切に生きて行きたい。
個人的に猫カフェをやりたいのも事実だが、もう一つ早急に王宮から離れたい理由があった。
──ずっと自分をごまかしていたが、どうやら私はジュリアンのことが好きなのだ。
ナイトを優しく撫でている手や物腰柔らかな物言い、端正な顔立ちに上品な立ち居振る舞い。最近では引きこもりから脱却して益々輝きを増している。そりゃ惚れない訳がない。
私が少しずつ引っ張り出したのだ、などと自慢するつもりなどない。元からの彼のポテンシャルが外交的になったことで表に出て来ただけなのだ。私はきっかけに過ぎない。
私は迷い人と言うだけのこの国では平民の立場だ。この立場だけはどうなるものでもない。
長く近くにいればいるほど、言葉を交わせば交わすほど離れがたくなるし、ジュリアンが政略結婚などでお嫁さんを迎える場にはいたくない。考えるだけで胸が苦しくなる。
彼にドキドキしないから恋愛ではないと思い込んでいたが、考えてみれば普通にナイトのことや燻製の話など色気のない話しかしておらず、そもそもドキドキするようなシチュエーションに自分を置いてみるなど想像もしていなかった。
ベッドに横になりながらケヴィンへの返事をどうしようかと悶々としていた時、ふとマンガなどで読んだ壁ドンだの抱き締められるシーンを自分とジュリアンに置き換えたら、顔は熱くなるし心臓はバクバクするしで、恋愛経験が圧倒的に不足している私にも流石にこれは恋なのではないか、と思わざるを得なかった。ケヴィンに置き換えてみたが、戸惑いと何か違うという気持ちだけだった。
中高生の頃の、遠くから見るだけの淡い恋心で満足していた私には、この高まる恋心を持て余してしまった。
(……見知らぬ国に来て、最初に好きになったのが王子とか、無理ゲーにも程があるわ)
報われるはずがない思いを抱いて近くで仕事をしていくのは不毛だし辛い。身分の釣り合う妻が来れば尚更である。
かと言って私に好意を持ってくれたケヴィンと結婚を前提に、とはやはり思えなかった。良く考えても親しい友人としか見られないのだ。
ケヴィンも少し荒削りだがかなり整った顔立ちで、騎士団長だから腕も立つし体も鍛え上げている。
決して私に対して声を荒げることもないし、思いやりもある優しい人だ。前世の私だったら素敵だなあ、と目をキラキラさせていたかも知れないし、告白されたらキャーキャー浮かれていたかも知れない。
ただ「彼はジュリアンではない」のだ。
私がこの思いを消化出来なければケヴィンに対して失礼だし、優しくしてくれているキャスリーンおば様にも申し訳ない。
まともに考えれば愛され望まれる恋愛や結婚が一番いいのだろう。
そう頭では分かっている。だけど分かっていてもダメなのだ。
恋愛脳とは良く言ったものだ。幸せになれるだろう相手よりも、何の希望も持てないだろう相手に恋をしてしまった私は大バカ者だろう。働き出した頃はそんな気持ちは微塵もなかったんだけどな。
気持ちがはっきりした今、ケヴィンにはきっぱりと交際を断り、王宮から離れてナイトと猫カフェをしながら、いつか新しい恋が出来るぐらいまでは何も考えず生きて行こうと思う。いつになるかは分からないけれど、まあ今の人生はご褒美みたいなものだしね。
一生独身で終わったとしても贅沢は言うまい。
「……猫カフェ、と言うのをするらしいな。私も行って良いだろうか?」
辞めた後はどうする、と言うことで猫カフェの話をすると、猫好きなジュリアンは目を輝かせた。
「ええと、ナイトもいますし来て頂きたいのはやまやまですが、王子が来店するほどの贅沢な店にはなりませんよ? あと目立つので、来られるならお忍びでいらして下さいね」
「ハイキングの時などのように平民の格好で行けば良いのだろう? ニーナも行きたいだろうからそう伝えておく。──仕事の邪魔をしてすまなかった」
少し微笑むと、相変わらず優雅な歩き方でジュリアンは去って行った。
──本当は、あまり来て欲しくはないのだけれど。
私は軽くため息を吐いた。
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