ディストピアな僕ら

黒澤伊織

ディストピアな僕ら


 世界は、透明なピアノ線が張り巡らされて、迂闊に動けば切り刻まれる。手足に、腹に、顔に、首に、傷を負ってきた僕たちは、だから姿勢を崩さず、生きている。自由? それは誰かの空想で、夢や希望と同じもの。現実にはない、そんなものを掴もうとすれば、待っているのは痛みだけ。再び切り刻まれて、苦しんで、結局元の場所へ戻るだけなら、初めから何もしないほうが賢いだろう。


 思えば、親や学校の先生は、世間は、ずっとそう教えてくれていたのだ。こうしなければ傷つくと——例えば、勉強をして、いい成績を取り、問題を起こさず、クラスメイトとは友情というより同盟を結ぼう、他人の心なんて分からないものだから、仲間はずれにされたり、いじめを受けたり、そんなことになるかもしれない、痛い思いをするかもしれない、だから自分以外は信じずにいよう、親も後から振り返れば、毒親なのかもしれないし、先生も嘘つき、保身しか考えない人かもしれないし、いずれそう知ったとき、僕が傷つかないように。


 僕は教えをすべて守った。だから、僕の人生は安泰で、張り巡らされたピアノ線、そこに引っかかり、血飛沫、脱落していく人を横目に、笑いを噛み殺していたのだった。なぜなら大声で笑う、それはそれで危険なことで、天を仰いだその拍子に、鼻の先をスライスされてしまうから。兎にも角にも、賢く人生を送るには、じっと動かず、決して動かず、これが何より重要なのだ。


 そうして年齢を重ねたおかげで、高校へ上がる頃には、僕は完全にピアノ線を見切れるようになっていた。いや、周囲が迂闊にもそれに引っかかるせいで、透明だったそれが血に染まり、赤黒い影を落とすようになったのかもしれない。ともかく、そうして全貌を現したピアノ線は、ある日、気がつくと、僕の体ギリギリにまで張られており——それは皮膚との隙間で言えば、髪の毛一本あるかないかというところだった——改めて僕を戦慄させた。これではほんの少しの身震いが、僕を切り刻んでしまうかもしれない。そう気がついてしまえば最後、いままで同じ姿勢に耐えてきた僕の体は、すると、とんでもない変化を起こし始めた。


 意志とは裏腹に体が震え、ピアノ線に触れてしまう。赤い筋が幾つも腕に、足に、頬にできてしまう。それでも、最初は何とかそれを隠し、姿勢を保った。けれど、すぐに隠しきれないほどの傷が刻まれた。それは自分の体だというのに、いままではできていたことだというのに、原因は本当に分からない。とにかく、僕の手足は、押さえつけようとすればするほど暴れだし、そこら中を血の海にしてしまうのだ。


 そんな僕の様子を見た親や先生は、当然、眉をひそめ、どうしたことかと顔を見合わせた。とはいえ、先生の方は諦めが早く、そのうち僕に見向きもしなくなった。それもそうだろう、職業柄、何人もの生徒が切り刻まれ、バラバラになっていくのを見ているのだ。いまさら僕一人がどうなっても、何とも思わないに違いない。


 しかし、親はと言えば、どうにかして僕を元に戻そうとした。一体どうしたって言うんだ、いままでできたものが、できなくなるはずがないだろう、さあ、ちゃんとしなさい——と怒鳴りつけたかと思えば、そんなことでこれからどうするの、私たちだっていつまでもあなたを養っていけないのよ、そうなったら終わりなのよ——と泣く。その通り、僕の人生は危機に瀕していた。ここでバラバラに切り刻まれてしまえば、もうおしまい、この世界では生きていけないのだ。


 けれど、怒られようが悲しまれようが、僕の体は相変わらず言うことを聞かないままで、赤い筋は日に日に増え、治る間もなく、減ることを知らず、とうとう困り果てた親は、僕にあるものを買い与えた。それは、いま、この世界で生きられない僕が生きるための、偽りの小さな世界。ノートパソコンの中で開かれる、通信制の高校だった。


 その偽りの世界は、僕は現実へ戻るためのリハビリをする場所で、このノートパソコンというものは即ち、リハビリを終え、元の世界へ戻るための装置だった。そう、僕の生きる世界は一つだけ。このピアノ線の張り巡らされた、身動きの取れない世界だけだ。もっとも、身動きが取れないというのは、いまの僕が教えられたとおりにいられないからで、元の状態に戻れれば、そんなことは思いもしない、ただ普通に生きられる場所でしかない。


 だから、普通に生きたい一心で、僕は真面目にリハビリをした。装置の中はあらゆるもののレベルが低く、それがいまの僕の価値を表しているのだと、そう思えば辛かったけれど、それでもバラバラになり、塵屑となった人間とは違うのだ、僕は元に戻れるのだ、そう言い聞かせて、毎日、僕は装置の前に座り続けた。まるで幼稚園児のように、話しかけてくる先生、質問に質問で返す生徒、それに、ボイスチャットさえ使えずに、文字チャットのみで参加する生徒に我慢して。


 しかし、出来損ないの集まりに、僕が苛々するようになるのは、そう遠い日のことではなかった。この装置の中で行われる様々は、普通のことが普通にできない、例えば小学校のときにあった「なかよし学級」のような、そんなところのようだった。だとすれば、いくら体が思い通りにならないにしても、僕がいるような場所じゃない。


 苛々が頂点まで達した僕は、とうとうそれを爆発させた。もちろん、現実ではなく、装置の中で——つまり、「なかよし学級」の学級日誌のような場所、総合チャンネルと呼ばれる、生徒が自由に書き込めるオンラインチャットに、とうとう殴り書きしてやったのだ。ここにいるのはクズばっかりだ、何もできない落ちこぼればっかりだ、引きこもり予備軍だ、授業ではろくに話せもしないくせに、チャットばっかりしててうぜぇ。


 予想はしていたことだったが、書き込みはすぐに削除された。管理人の先生に、すぐに通報がいったのだろう。その翌日に面談があり、僕は装置を通して諭された。人を傷つけるような書き込みをするのは良くないことだ、個人には色々な事情がある、チャンネルの規約を守って書き込むように。


 僕は事実をそのまま書いただけだ——本音はもちろん、言わなかった。そんなことをすればリハビリは打ち切り、元の世界との繋がりさえ切れてしまう、そんなことは分かっている。だから、どんなに僕が正しくても、ここは我慢をしなければ。


 しかし、思い通りにならない僕の体は、現実の中で大いに暴れた。手足を振り回し、大声で叫び、ピアノ線は骨まで達するほどに食い込みその痛みに、僕は装置すらも壊してしまいそうになった。足元にできた生ぬるい血溜まりに、その中に装置を叩きつけたら、痛みも耐えられるのではないかと思われたのだ。


 けれど、装置は壊れず、それどころか、その弾みに別の画面を映し出した——初期設定のまま、何の面白みもない色合いをした、僕の個人チャンネル。生徒一人一人に与えられ、仲の良い友達同士でチャットするための空間。何も書き込みがないはずのそこには、いつのまにか誰かの言葉が表示されていた。macky.と、誰だか分からないようなニックネームで、たった一言、「同意」とただそれだけが。


 その二文字を目にした次の瞬間、僕がしたことは、macky.のチャンネルに飛ぶことだった。同意、それはあの書き込みに対する返事だろう、僕はそれ以外、何かを発信したことがない。だから、すぐに削除されたそれをmacky.は見て、わざわざ僕のチャンネルまでやってきて、その言葉を書き込んだ——それだけで、僕はmacky.への興味でいっぱいになったのだ。なぜ、どうして、どんな人が、僕に言葉を投げかけたのか。


 しかし、そのmacky.の個人チャンネルを見て、僕はすぐに失望した。そこで、macky.は友達と楽しそうな会話を繰り広げていて、即ち、僕の求める答えは見当たらなかったからだ。と、その瞬間、肩先に鋭い痛みが走った。驚き、僕は慎重に首をねじ曲げて、その場所に目を細める。痛みはもちろん、ピアノ線に触れたせいだ。しかし、いま、僕は動いたという自覚がなかった。それなのに、ピアノ線は僕に触れた。訝り、見ればそれはいまや、ほとんど皮膚に触れるほど、僕の肩にピンと張られていた。いや、肩だけではない。腕も、足も、頭も、首も、とにかくいままで認識していたすべてのピアノ線が、髪の毛一本の隙間もなく、僕をほとんどその場に固定するかのように皮膚まで迫っているのだ。


 ——これからは、身震いさえ許されない。


 そう思った瞬間、体のあちこちで痛みが走った。絶対に動いてはいけない、そう思うほどに、僕の体は制御を失い、血は傷からだらだらと流れた。痛い、苦しい、もう嫌だ、涙が勝手に溢れ出し、僕は初めて死にたいと、そう口にして——唐突に気がついた。


 空想上のものだと思っていた自由、それは死そのものじゃないだろうか。そう、死ねばこの世界から消えてしまうのだから、それが世界に無いものであることに変わりはない。けれど、それは空想ではなく、実在するものなのだ。現実から手を伸ばせば、掴めるかもしれないものなのだ。


 死。その魅力的な思いつきを、僕は僕のチャンネルに書き込んだ。身動きもできない僕には、伝えられる人などいない。この指先だけが、僕のチャンネルだけが、そのとき僕に与えられたすべてだったのだ。


 と、そのときだった。僕の書き込みが、するりと上へスクロールし、新たな書き込みが現れた。僕のものではない、誰かの言葉が、突然に——「天才か」。


 macky.だ。全身の毛が逆立つような感覚を、その一言が呼び起こす。なぜ、macky.がここにいるのか、たまたまこのチャンネルを見ていたというだけだろうか。いや、偶然? そんなことがあるだろうか。けれど、そうではければ、それほど頻繁に僕の反応を窺っていたということになる——。


 macky.のチャンネルで見た、楽しそうな会話は、すぐに僕の頭から吹き飛んだ。僕はこの世界を変える思いつきを、いま、macky.と共有したのだ。


 僕の指はいままでにない速度で動き出し、自分が感じていることを、考えていることを、次々と画面の文字にしていった。この世界のこと、ピアノ線のこと、血まみれである自分、リハビリへの決意、けれど見つけてしまった自由を秘めた死というもの——。macky.は、その一つ一つに頷くように、相変わらずたった一言ではありながら、僕のチャンネルに書き込んだ。「笑う」「まさに」、それから数種類の顔文字を使い分けて。


 意識的に、macky.に対して、僕は語りかけなかった。僕はただ自分の考えを羅列しているだけで、そこに勝手にmacky.がコメントしている、そんな状態でありたかったのだ。もちろん、それは諸刃の剣というやつで、僕のその態度は、macky.にも好き勝手にコメントしたり、しなかったりする権利を与えてしまうことだった。もちろん、それは不安だったけれど、そもそも僕にできることは、毎日チャンネルに書き込み、macky.のコメントを待つことだけだった。だから、コメントが来ない日には、その空白を紛らわすため、続けざまに一人、書き込みをした。そして、それでもmacky.が現れないときは、見たくはないmacky.のチャンネルを覗いたり、学生名簿からmacky.を探そうとしたりした。チャンネルで使用するニックネームと、本名は紐付けされておらず、僕はmacky.がどの生徒なのか、年上なのか、年下なのか、男なのか女なのか、もしかしたら同じクラスの誰かなのかさえ、分からずにいたのだ。


 僕の意見に「同意」してくれたのだから、macky.は僕と同じ、張り巡らされたピアノ線の中で、懸命に生きようとする人間だろう。こんなクズばかりのリハビリ装置に甘んじず、元の世界に戻ろうと足掻く同志。毎日、きちんと身支度を調え、授業でもカメラをオンにして、きちんとボイスチャットで反応して、チャットに逃げない人で、例えばこの装置の中の大多数のように、文字ではクラスの人気者みたいなノリのいい発言ばかりだけど、実際はもごもごと口ごもり、気味の悪い笑みを浮かべるだけのクズじゃない。


 調べても調べても、macky.がどのクラスの誰なのか分からないまま、しかし、あるとき、チャンスは訪れた。秋に開かれる文化祭、そこにmacky.が参加すると言ったのだ——もちろん、自分のチャンネルで、そこでいつも楽しげに話している友達と。


 文化祭は小規模ながら、絵や工作などの展示品や、生徒がプログラミングしたゲームを行うなど、オンラインのみならず、現実にある校舎でも開催されるものだった。無論、校舎と言っても、通う生徒もいないそれは、ただのビルの一室だったが、逆にその規模の開催ならば、macky.と会える確率は高いということだ。


 僕の心臓は高鳴った。何としてでも、文化祭に行かなければならない。そして、macky.に会わなければならない。いや、僕の正体を明かすつもりは毛頭ないけれど、そんなことをすれば血塗れになるのは明らかだから。


 その日から、僕はさらに慎重にmacky.の情報を漁りまくった。どうやらmacky.は友達の展示スペースに絵を出展するらしいということ、他の展示も楽しみにしているということ、文化祭に参加するのは初めてだということ、そして一番僕の知りたかった情報——二日間ある日程のうち、二日目の午後に行くつもりであるということ。


 その日が来るまで、僕は懸命になりを潜め、体に少しの傷もできないように心がけた。オンライン授業で外見は整えていたものの、外出するのはほとんど一年ぶりで、当日、知り合いに会わないだろうか、うまく校舎までたどり着けるだろうか、そんなことを考えると、すぐに体のどこかに痛みが走り、その部分に血が滲んだ。けれど、macky.に会いたい、いや、その姿を一目見たいという気持ちは変わらず、その日まで僕はすべての不安を押さえつけ、耐え続けた。なぜ、macky.に会いたいのか、そんなことは考えなかった。一方的に姿を見るだけで、一体僕たちの何が変わるのか、変わらないのかさえ、僕に考える余裕はなかったのだ。


 そして、とうとうやってきた当日、僕はピアノ線に触れぬよう、それだけに気をつけながら、駅へと向かった。人混みに紛れ、見たこともない校舎を目指した。久々に乗った電車は暖房も冷房も効いておらず、ただ人の放つ熱でむっとしている。その空気に耐えるよう、ただ手の中のスマホに目を落とすと、総合チャンネルで、あるいは個人のチャンネルで、文化祭は盛り上がり、生徒たちは皆、楽しんでいるようだった。オンラインでも見ることのできる展示も多くあり、macky.の絵も、見ようと思えばそこで見られるはずだ。けれど、僕の目的はmacky.の絵ではなく、あくまでmacky.自身だ。スマホに表示された生徒証を提示し、ようやく辿り着いた、僕は文化祭の受付を通り過ぎる。会場の隅でほっと息をつき、ゆっくりと周囲を見渡す。


 やはり、現実に出てくる勇気もないのか、来ている生徒は思うより少ない。しかも、大多数が二、三人のグループになっており、僕のように一人で来た人間はいないように見える。僕は様々な展示を見るふりをしながら、その実、必死でmacky.を探した。現実慣れしていないような、奇妙に浮かれた生徒の中に、心には僕と同じような意志を秘めた、唯一の同志の姿を。


「まっきー……」


 小さく声が聞こえたのはそのときだった。瞬間、僕は硬直し、それからピアノ線に触れぬよう、恐る恐るそちらを向いた。その名を呼んだのは女子だ。そして呼ばれたのも——恐らく、女子だ。長い髪と大きなマスクで、顔を隠した女の子。


 と、その子の視線が上を向き、一枚の絵を指し示した。何かのキャラクターなのか、赤い髪の二人組が書かれた、上手いとも言えないアニメ絵だ。むしろ、僕が軽蔑している類いの絵。しかし、僕の目に飛び込んできたのは、アニメ絵ではなく、その下に記された名前だった——macky.。


 あれがmacky.だ。胸から飛び出してしまいそうな心臓を押さえ、気づかれないよう、僕はその子を凝視した。macky.の周囲には男女数人の輪ができていて、恐らくいつもチャンネルで会話している友人だろう、チャンネルの雰囲気そのまま、スマホで写真を撮ったり、おどけたり、楽しそうに話をしている。けれど、当のmacky.はじっと俯いたまま、手の中でスマホを操作している。


 何をしているのだろう——僕は訝り、それから、はっとして自分のスマホを取り出した。急いでmacky.のチャンネルを開き、書き込みをチェックする。すると、思った通りだった。そこにはmacky.だけの書き込みが、連続で「いいよ」「やだ」「行く」「うーん」、顔文字付きで並んでいたのだ。すぐ隣に友人がいるというのに、まるでチャンネルを通じて話しているとでもいうように——。


 と、そこへ別の人がハート付きで「まっきーの声が聞きたいなぁ」と書き込んで、同時に「大丈夫だから」「そろそろじゃないっすか?」と現実の声がそれに重なった。しかし、目の前のmacky.は顔を上げることもなく、代わりに「やだやだ恥ずかしい」という書き込みが、やはり顔文字付きで、スマホの画面に現れる。


 macky.はしゃべれないのだ——僕の胸には、奇妙な感情がわき上がった。macky.は声が出せない。どういう理由かは分からないが、少なくとも肉体的でなく、感情的な理由で。だから、いまもチャンネルに言葉を書き込み、声を出さずに友人と話している。そして、その友人も書き込みでしゃべったり、声でしゃべったり、傍から見れば不思議な会話を繰り広げている。同意——僕の書き込みにそうコメントしたくせに、macky.はろくに話せもしないくせにチャットばかりの、もう現実には戻れないクズだったのだ。


 俯き、無言のまま、友人の輪に囲まれるmacky.をしばらく見つめ、僕は帰途に着くべく、駅へ向かった。苛々とも違う、失望とも違う、何か別の感情が、いつもよりも早く、僕の足を動かしている。改札を抜け、ホームへの階段を降りる。乗るべき電車は発車してしまったばかりで、僕は柱にもたれ、macky.のチャンネルを閉じ、僕のチャンネルへと飛んだ。そこに現れた空白に、「馬鹿だ」、いつものように無意識を装って、macky.へ向けたわけでなく、独り言のようにそう書き込む。「馬鹿だ」「こんなことして、何になるんだ」「今日も一日、無駄だった」。


 続けざまの書き込みは、しかし何者かによって遮られた。誰かなんて、名前を見なくても分かっている。他でもない、macky.だ。いつものように、「同意」「ほんそれ」「まったくだ」。


 通過電車がホームを過ぎて、その鉄臭い風に僕は顔を上げた。込み上げるものを飲み下すように息を吸い込み、周囲に目を向けると、ホームにいる人々のほとんどが俯いて、手の中のスマホを見つめていることに気づいた。さっきのmacky.と同じように、あるいは彼女を囲んでいた友人たちと同じように、画面の中に言葉を打ち込み、どこか別の画面へと表示させ、それを皆、繰り返しているのだ。


 その人混みの中に、ほんの一瞬、僕はmacky.がいたような気がして、その俯いた横顔をを探す。しかし、見つけることはできず、もう一度スマホの画面へ目を落とす。おどけたような顔文字を、macky.が新たに書き込んでいる。顔を隠し、声も出さずに、ただ無表情で、それなのに感情溢れる顔文字を。


 僕は少し躊躇ってから、顔文字の画面を下へ下へとスクロールして、僕にふさわしい表情を探した。まるで、初対面の誰かに向けて、表情を作り、適切な言葉を探すように。おはよう、こんにちは、初めまして、ずっと会いたいと思ってたんだ——。


 ようやく選んだその顔文字を、決定ボタンで送信すると、すぐに驚いた風の顔文字がmacky.から返ってくる。それが面白くて、もう一度、僕は表情を探す。送り、そして返信を待つ。そんなことを繰り返すうちに、僕はmacky.の息づかいを感じる。この人混みの中で、僕とmacky.は隣同士、無言で笑い合っているような。


 再び、風が通り過ぎ、僕の乗るべき電車が停まる。その間にも、僕たちは意味もなく顔文字を送り合う。はしゃいでる顔、怒ってる顔、知らんぷりの顔、くつろいでいるような顔、照れたように笑う顔——。


 そうして家に着く頃、僕は世界の変化にふと気づく。僕の周りに張り巡らされたピアノ線、その僕を傷つけるための鋼の糸が、皮膚から髪の毛一本分、いや、僕の体から数センチも遠のいていることに。「ありがと」、何のタイミングか、macky.からの言葉が届く。「ありがと」、同じ言葉を躊躇わず、僕はmacky.の画面へ送り届けた。

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