ひらさかの
諸井込九郎
ひらさかの
私の酒飲み仲間に、佐藤さんという人がいる。白髪交じりの長い頭髪を後ろでまとめ、無精ひげというには長めのひげを蓄えていて、「老師」なんてあだ名でも呼ばれているらしい。謹厳実直を地で行く誠実な人で、どんなに酒が回ってもヘラヘラせず、いつも静かに、穏やかに話へ耳を傾けてくれる聞き上手な人だ。後に聞いたところによれば、佐藤さんは警官だったそうだ。以前、たまたま彼の同僚と相席したことがあるのだが、佐藤さんは職場でも寡黙かつ勤勉であり、冗談のひとつも言ったことがないという。
そんな佐藤さんが一度だけ、冗談のような話──というには少々笑えないが──を聞かせてくれたことがある。一昨年の八月の夜、飲み仲間数人で集まり、夕涼みとばかりに似非百物語みたいなことをしていたときだった。佐藤さんもその中にいて、いつものように酒をちびりちびりとやりながら聞き耳を立てていたのだが、誰かが「佐藤さんも、なにか怖い体験をしたことってありませんか?」と話を振ったのだ。当時すでに仲間内では佐藤さんが元警官というハナシが知れ渡っていたので、話を振った我々としては「一番怖いのは人間だよ」みたいな──ジャパニーズホラーではなくサイコホラーのような──話を期待してのことだった。しかし、その期待はいい意味で裏切られた。
「…まあ、そうだな…。俺が勤めてたのは県西の、
「まあ山は恐い所だ、ってな話は勿論のものとして……怖い体験な。そうだな…………そろそろ話してもいい頃か…」
思わず色めき立つ我々をよそに、佐藤さんはグラスの中身を一息に飲み干して、いよいよ本腰を入れて語りはじめた。
「平成十二年、八月中旬だった。一人の登山客が道でナップザックを拾ったってんで、署まで持ってきたんだ。道の脇の標識の下に置いてあったんだと。見つけたときは周りに人の気配もなく、念のため辺りに大声で呼びかけてみたが返事はなかったと。そのときは登っている最中だったから一度はそのままにして、帰りにもう一度確認してみることにしたらしい。が、依然、ザックはそこにあった。というわけで署まで持ってきたわけだ。」
「まあ標識の下にわざわざ置いてあったんなら、そそっかしいヤツの忘れ物だろってなことで、とりあえず保管することにしたんだがね。いくら経っても持ち主は現れない。さりとて、そのときは捜索が続いている遭難者がいるわけでもなく、アテがない。さてどうしたものかと。とりあえずナップザックの中身をあらためることにしたわけだ。」
「中には空になった弁当箱、コンビニおにぎりの包装やらスナック菓子やらの袋、酸っぱい臭いが染みついた靴下、ズボン、シャツ。それと…クシャクシャになったコンビニ袋に入った手帳があった。これだけならザックごとゴミをポイ捨てしてったようにも見えるんで、手帳の中身を調べることにしたわけ。」
「手帳の持ち主は大学生らしかった。あちこちに付箋がついていて、レポート期限だの、講義の内容だの、誰にいくら貸しただのが日にち順でしたためられていた。逐一手帳に書き込んでる割には、日付が飛んでいたり文量にムラがあったりで、持ち主がそんなに几帳面じゃないってのもわかったがね。」
「とりあえず名前と所属している大学がわかったんで連絡、返事を待つことになった。これで見つかりゃ万事解決…だが、もし連絡がつかないんなら…そういうことになる。安否確認はまだだったが、念のため手帳の中身を詳しく見ていくことにした。そうしたらまあ、登山をしたって記述は何度か出てくるんだが、どうやら最近始めたばかりの初心者さんらしい。となると、ありがちな道迷い遭難か?なんてなことを考えつつ読み進めていくところから、まあ本題に入っていくんだ。」
佐藤さんはここまでを一息のうちに話すと、胸につかえた何かを吐き出すように、深く、静かに、息を吐いた。そして、手持ち無沙汰に空のグラスを弄りながら、話を続けた。
「手帳の主…まあここでは仮にA君としておこうか。A君が入山した日付は五月のゴールデンウイークだった。夏に友人らと北アルプスに行くから、その前にあちこちの山を登っておきたかったとかで。知っての通り
「最初の異変は、想定ルートから外れたときだな。A君は事前に調べていたルートに載っていなかった分岐点にぶつかり困惑、前方に登山客が見えた方の道に進んだ、と書いている。函谷山の登山道は二つあって、ひとつは山頂へ進む登頂ルート、もうひとつは山腹を一周するように敷設されている遊歩道ルートだ。二つは途中で分岐してそれぞれのルートに繋がるかたちになっている。──これは函谷山に登るなら基本中の基本情報なんだ。事前に少しでも調べていたなら、絶対に目にしているはずの情報なわけ。そもそもその分岐点には標識も立ってるしな。A君自身もそのことは追記していて、確実にそのルート分岐点のことは知っていた。そのうえで、標識も立っていない、知らない分岐点…と記述している。」
「次の異変は、その道を歩いて行った先だ。道自体は上へ上へと続いていたから、その時のA君は別段心配はせずに歩いていたらしい。が、しばらく進むと身の丈を悠に越す巨石が現れたというんだ。道のど真ん中に横たわる岩を見て、流石に引き返そうか逡巡した。だが、岩の向こう側には今まで歩いてきたのと同じように整備された道が続いていたから、そのまま進んでしまったと書かれている。当然だがそんな大岩は、登頂ルートにも遊歩道ルートにもない。万が一、崖崩れか何かで転がってきた岩があったとしても、函谷山は入山者が多い山だから、道のど真ん中に放置されたままというのは考えにくい。特に通行の可否に直結するような情報は、すぐに派出所か地元の消防署に連絡が飛んで共有される。道を塞ぐ転石があったなんて話が当時、俺の耳にすら入っていない…ってのは、ちょっとどころではなく異常なんだよ。」
「ここから、だんだんA君の記述は常軌を逸したものになっていく。道中、桜に似たピンク色の花を咲かせた木が、並木道とはいかないまでも点々と立ち並ぶ様子を目撃したって話が出てくる。少なくとも函谷山の中にそういうスポットはないし、この山中にある桜はヤマザクラがほとんどだから、濃いピンクってことはない。普段我々が目にするピンク色の桜といえばソメイヨシノ、またはカワヅザクラになるだろうけど、カワヅにしては時期が遅いし、ソメイヨシノは函谷山には自生してないはずなんだよ。……後の記述でA君は、これはモモの花だったと言い切っているが、モモの木があるって話も聞いたことがない。」
「次は遠雷を耳にしたという記述。まあ山での雷はそう珍しいものでもないが…さっきも言ったように、A君はゴールデンウイーク初日に入山したって話だ。五月の連休は登山客も増えるし人手が必要になるから、とうぜん俺も駆り出されていた。が、あの年の連休はな、函谷山周辺はずっと、それこそ初日から最終日までずっとだ、快晴だったんだよ。時々くもりってことすらなくって、当時にしちゃかなり気温が上がったもんだから日射病でぶっ倒れた登山客がいたぐらいだ。それなのにA君は、遠雷に気付いて空を見遣ると今にも雨が降りそうな一面の雲に覆われていた、なんて書いてる。」
「ようやく八合目付近へ着いても、相変わらず遠雷は聞こえるし空は真っ暗だったらしい。しかも鳥の声ひとつも聞こえない。これは雨が近いなと思ったA君は、ザックからレインコートを出して羽織り、山頂へ急いだと。…ここで引き返せば………よかったのにな。本当なら函谷山の山頂には広場があって、三角点やら石碑やらベンチなんかがあるはずなんだが、A君は山頂広場の記述をしていない、そんなことに構っている場合じゃなかったからだ……山頂の景色はこう記述されていた。」
『青空でも、曇天でも、ガスの中でもなく、白でも黒でもなくただ色を喪ったような単調な空が何処までも続き、鳥の声も虫の羽音も風が渡る音さえも聞こえず、麓にあるはずの街、道路、集落や畑のような人の営みにいたっては最初から存在しなかったかのようで、平野が見えるはずの方向には、この空と同じ色の山々が視界の果てまで連なっていた』
「────曰く、このくにではかつて、死者は山へ還るものであったという。故に、よもつひらさか──黄泉の国は、地の底にあるのではなく、山の上にある。…こんな具合に、A君はもう完全に折れちまって、神話がどうの死後の世界がどうのって話を書きはじめる。道の先にいた登山客に見えたのはしこめだなんだとか、あの大岩こそちがへしのどうのこうのとか、雷鳴が八回聞こえたからどうしたこうしたとかってな。ここはもう函谷山などでない、比良坂山だ…とさ。」
「手記の最後には、山中を三日三晩歩きまわってみたがなぜか一向に下山できず、他の登山客はおろか人の気配も、動物の気配さえまるでせず、絶え間ない静寂の中で消耗する一方だったこと、唯一の音をたよりに沢沿いへ出たこと、最後の手段としてなるべく荷物を減らしてから沢下りを試みることが書いてあった。……ここでおしまい、手記の主は戻らず仕舞いだ。」
「…当時の俺が読み終わってまず感じたのは、あまりにも話が出来過ぎているってことだ。まあ当たり前だよな、これが作り話でない可能性はどこにもない…というか、普通はそう思う。当時の俺だってそう思った。しばらくして大学から返事が来るまではな。」
「…A君は行方不明になっていて、捜索願も出ていた。家族とは進学のことで揉めていてそもそも数カ月連絡を取っておらず、友人らにはどうも山へ行くことを隠していたらしい。なんでも奥多摩へ行く計画を立てていたさなかに軽い捻挫をして、友人らに山行を止められていたんだと。だから捜索は奥多摩を中心に丹沢などで行われた。奥多摩から距離もある函谷山には、情報すら入ってこなかったんだ。…本人は意気揚々と、誰にも告げずに、とりあえず登りやすい山なら大丈夫だろうってんで函谷山に来たっていたのにな…最悪のパターンだよ。」
「とにかく俺は、遭難の可能性大ってことから大学経由で家族側にも話をつけてて、さすがにもう生きてはいないだろが、せめて遺体を家に帰してやりたくて……捜索を始めようとしたんだ。そしたら、大学側の電話担当者が若干訝しみながら言うんだよ………A君が行方不明になったのは五年前です、ってな。おかしいだろ?それなら、なんで今ごろになって、ナップザックだけが、一番人通りの多い登山道で、とつぜん見つかるんだ?」
「もちろん可能性としてはゼロじゃない。林業関係者や山菜取りの地元住民が山のどこかでA君のナップザックだけを見つけて、とりあえず人通りの多い登山道に置いていった…なんて予想もできる。でも、やっぱりおかしい。そういう人たちは山岳警備隊にも知り合いが多いから、自分で届けにきてくれるんだよ。そうでなくとも一報ぐらいは入れてくれる。だが今回はそれがない。くわえて、五年前に行方を絶っている遭難者の遺留品ときている。普段人が入らないような場所にあったのなら、五年ぐらい未発見のままってことはざらにある。だが、さっきみたいな人たちはむしろ、そういう場所で遺留品を見つけた場合真っ先に連絡をくれる。遭難者の安否もそうだが、彼らの場合は山が荒らされると困るからってのが大きいから。利害が動機になっている人の動きってのは早いからな。」
「………でもやっぱりない。ない、ない。まるでない。何処を探しても、何処に問い合わせてもそんな話が出てきやしない。むしろ調べれば調べるほど、あの日にあの場所で標識の下に置かれたナップザックを見かけたなんて話の方が嘘みたいに思えてくるほどに、目撃情報がない。…まるでナップザックだけがあの瞬間、あの空間にぽんと現れたように。当然、派出所にザックを持ってきた登山客のことも調べた。だが真っ白、前科なんかないし怪しい点もなにもない。こんな大掛かりな悪戯を仕掛けられるような人間でもない。じゃあ、いったい、このザックはどこから来て、A君はどこへ行っちまったんだ?」
「…もう、自分の脚で探しに行くしかなかった。同僚と二人、手記の内容を可能な限り洗いなおして、A君が実際に辿ったルートを探していった。」
「……………そうしたら、な」
「あったんだよ、道を塞ぐようにして転がる大岩が」
「そこに着く少し前、あの山に慣れてるはずの俺と同僚の二人がほとんど同時に道に迷ったんだ。リングワンデリングってやつかもしれない。ほんの少しの記憶と認識のずれが原因で空間の認知能力が狂っちまって、それとわからず同じ場所をぐるぐる回っちまうアレだ。まあ話にはよく聞くし、別の山だが何度か経験しかけたこともあったから、少し落ち着くことにしようってんでその場で休憩することにした。そうしたら、同僚の奴が見つけたんだよ。岩を。」
「確かに記述の通りだった。岩自体は上から下まで苔むしていて、風景に馴染んでやがる。とてもじゃないが、つい最近まろび出たシロモノには見えない。そのくせ往来があるのか、それとも誰かが掃除でもしているのか、道ははっきりと道の体を保っている。最初からそこに道があって、その上に岩が置かれた……そういうようにしか見えないんだ。さりとて、道は岩を避ける形にはなっていない。岩のなかへ続いているようにすら見える。ここを通る何者かは、すくなくとも岩の横を歩くなんてことはしていない。飛び越えているのか、それとも………。いよいよ神がかったものに思えてきて、俺と同僚はその先へは行かなかった。A君の遺体も、活動の痕跡も、遺留品も、何も見つかっていない…あのナップザックを除いて。」
佐藤さんは片手に弄っていたグラスをテーブルに置いて、ウイスキーを注いだ。それをほんの少しだけ口に含んで、喉仏を震わせる。さっきまでそこにあったつかえを、今度こそ腑の内に落とし込んでしまいたい、そんな風に見えた。
「………まあ、現実的な落としどころをつけられないこともないさ。今まで都度に確認してきた異変──つまり、あるはずのない分岐点、知らない転石、存在しないモモの花、聞こえるはずのない雷鳴、異界と化した山頂──これらはすべて、A君が主観で得た情報を、客観性を得ないまま数日経ってから手記に書き起こしたものだ。人間の記憶なんてものはあまり当てにはならない。特にこの場合、彼は心身ともにまいっちまってる状態だったわけだしな。付け加えるならこの手記は、発見した誰かに見せるつもりで書いている文章のはずだ。意識的か無意識的かはさておき、多少なりとも誇張や歪曲をしていたって不思議じゃない。それなら、あるいは………そう」
「あるはずのない分岐は、やはり登頂ルートと遊歩道ルートの分岐だったと自分でも気づいていたが、正当化のために念を押して否定したのかもしれない。または…当時は俺も忘れていたが遊歩道ルートを進んだ先に県境をまたいで続く古い山道への分岐があるんだ。そちらへ入り込んでしまった可能性だって十分にあるじゃないか。いかんせん、県を跨いでしまうと情報のやり取りが疎かになるのは、縦割り行政の悪しき伝統だ。転石が道を塞いでいたって、こちら側に情報が入ってこないこともままある。今じゃ全く往来のない、藪に埋もれた古道でしかつながっていないような地域なら、なおさら伝えておく必然性がない。そうなると、別の山ならモモだろうがソメイヨシノだろうが植わっていたってなにもおかしくはないし、遠雷の説明だってつく。山頂からの景色も、そこが別の山と気付かないまま、それを函谷山頂からの眺望として認識してしまったことで、記憶と現実の食い違いから錯乱状態に陥ったと考えるのが妥当ってなわけだ。」
「……はは、俺だってわかっちゃいるよ。こんな説明は俺自身がこのことを受け入れるために、強引に点と点を結び付けた机上の空論だ。A君が黄泉の国へ迷い込んだと信じているのと同じこと……そう、これは最初から机上の空論なんだ。手記の真偽も、よもつひらさかも、A君の遭難さえも。確かなのは、あの日、あの標識の下に、どこかから見つけ出してきたナップザックを置いた、誰かがいたということだけ……。この話は、これで終わりさ。」
その場にいた誰もが「え、終わり?」と思ったにちがいない。少なくとも私はそう思った。「もっと人手を増やしてその道順を辿っていれば」「もっと科学的な知見から証拠を洗いなおしてみたら」なんて惜しむ声をあげる人もいた。でも佐藤さんはとっくに警察官を辞めていたし、問題の手帳だってすでに遺族の元へ返されているだろう。そもそもの話、あの佐藤さんがこんな話を語って聞かせたという時点で、もはやこの事件は我々にはどうすることもできない次元へと置き去られて久しい、ということなのだろう。佐藤さんはという人は、そういう説得力のある人だった。
大いに場を涼ませてくれた佐藤さんは、彼にしては珍しく、かなり酔いが回っていたように見えた。だからなのか、皆が駄弁りに興ずるなかで私にこんなことを聞かせてくれた。
「………A君なぁ、俺が思うに、死後の世界になんか行ってないと思うんだよ。いや、この世ではない変な場所へ迷い込んじゃったっていうのは、俺もそう思うんだけどね。…山で死ぬとさ、人は見つけてほしがるんだよ。変な偶然が重なって、ひょっこり遭難者の遺体が見つかることって多いんだ。それはたぶん、見つけてもらわないとどこにも逝けないからだと思うんだよね。それなのに、A君は生きたままあの世に行ってしまった。そんなの、ちゃんと逝きたい人たちからしたって、A君からしたって、不公平だよ。………それがわざわざ見つかりやすい場所にナップザックだけを返したり、A君が思い描く黄泉の国を演出して見せたりとか、よこしまな感じさえするぐらいだ。最期にヒトが辿りつくべき場所ではなく、もっとずっと歪な………。」
──────彼は山の中で何に魅入られ、何処へ行ってしまったのだろう。
ひらさかの 諸井込九郎 @KurouShoikomi
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