第12話 ヤクソク、って何だっけ
そんな激動の日から、一週間が経った。
ルナチャイルドではなくなったソラは、散らかった部屋の掃除をようやく終わらせて、地上でどうやって生活していたのかを思い出そうとしている最中。ドアノブに手が届く。みんなを見上げなくて済む。嬉しいことには違いないのだが、六年間という長い時間で染みついたクセはなかなか取れない。例えば天井の埃を取りたいときなんかに、無意味だと分かっていても指を鳴らしてみたりする。その結果なにも起こらないことに、ソラは安堵するのだった。
そんなソラはオオカミに懐いていて、暇さえあればオオカミを呼び出しては勉強を教えるようせがんでいた。オオカミ自身もやることといったらユナのご機嫌取りしか無かったから、暇つぶし程度に相手をしていた……のだが。
「……最近の小学生はこんな難しい問題を解くのか」
「もしかして、おにーちゃん分かんないの」
「正直、分からん。図形がこんな大量に折り重なって……待ってくれ、法則の一覧をもう一回見直させてくれ」
ソラが取り組んでいたのはさる難関高校の過去問だった。ソラは未だ小学生と呼べる年齢だったが、これほどに難しい課題を選んだのはソラ自身だった。オオカミはママの許しを得てこれを買いに行ったものだったが、まさかソラだけで半分以上を解いてしまうとは思ってもみなかった。
「高校受験ってことは、おにーちゃんは普通に突破してきてるはずなんですけど。もう忘れちゃったの」
「……」
何も言い返せなくなるオオカミ。苦し紛れに出た一言はなんとも情けなく。
「……中学校の知識は、高校に入ると忘れてしまうんだ」
「使えないな」
直球のエッジが効いた罵倒を受けて、オオカミの胸は多少痛むのだった。それは単に罵倒が痛かっただけではなく、ソラとの約束を果たせないことにも繋がっている。故にオオカミは、この状況を解決できる何かや誰かを探してみて、それが案外身近なところにいることに気付く。
「そうだ、ユナなら分かるかも知れない」
「おねーちゃんが」
「成績だけなら俺よりずっといいんだ。授業態度は最悪だが……よし、ちょっと呼んでくるか」
オオカミは勢い立ち上がるが、ソラに袖を掴まれてつんのめってしまう。
「そういうとこだぞ、バカおにーちゃん」
「またデリカシーがない問題か……」
「そう」
どうしようもないオオカミの鈍感さを、ソラが首を横に振って強調する。
「いいから続き考えて。ソラは他の問題解くから」
「……分かった」
正答集に手を伸ばしたくなる気持ちを抑えながら、オオカミは難問と向き合うことになる。
目の前にある設問は、もちろんのこと。
同時に、ユナのことについても。
「ユナ……どうやったら治してやれるんだ」
†
ところは変わって、ユナの居室。
二人のルナチャイルドが、ベッドに腰掛けて並んでいる。片方はコチョウラン。もう片方は長髪にパンツスタイルの麗人。スティグマだった。
「傷、大分よくなったんね」
コチョウランが親しげに話しかけると、スティグマは恥ずかしげに顔を背けながらこう答えた。
「体の傷はいずれ癒えるわ。ただ不覚を取ったのがひどく恥ずかしくて。その痛みは多分、あいつをぶっ殺すまでは消えないでしょうね」
「あいつ……ソラちゃんを逃がすときに会ったルナチャイルドやね」
「メタモルフォーゼ」
スティグマは苦々しげにその名を思い出した。
「そう名乗ったわ。私の力を完全に理解してた。きっとアンチマテリアルとやりあってるところから、一部始終を見てたんだ。油断したわね。危うく四肢をねじ切られるところだった」
スティグマが好んで穿く、黒のスキニーパンツで隠れている足にも、同様に渦を巻く傷が刻まれている。時折、ビリリと痛む。完全に癒えるまでにはもう一週間はかかろうかといったところ。スティグマは敗北に意識を向けるのを止め、今この状況を見つめ直す。
「そういえば、あのヒーローサマはどこにいるわけ」
「ソラちゃんに勉強教えるので付きっきりやわ」
「……なんで」
「知らん。あのアホ、対して頭もよくないくせによう引き受けるわ」
コチョウランはそう言いながら、ひどく退屈そうな目をスティグマに向けてため息を吐いた。
「負けた気分やわ。あたしのところには一日に一回くらいしか会いに来ないっていうのに」
「一日一度、来るだけマシじゃないのかしらね」
「いやよ、もっとシンヤにはそばにいて欲しいもの」
スティグマはその、惚気にも似た願望を聞かされて、僅かに顔を歪める。
「オオカミシンヤ。ねぇ、あなた。オオカミとはずっと一緒にいたいっていうけれど、あなたのルナチャイルドとしての異能は」
「分かっとるよ。あたしにその権利はないし、シンヤをそれに付き合わせるのもヤだ。でも」
コチョウランはスティグマが差し伸べた憐憫の手を、首を横に振って拒絶した。
「シンヤは約束してくれたから。あたしの異能を治してくれるって。だったらあたしはオオカミを信じるわ。だってシンヤは約束を……少なくとも守ろうとしてくれる人だから。ハイツ・ムーンライトに来てからは、ちょっと微妙だったけど」
そう強がりながらもコチョウランの瞳には、今にも決壊寸前なほどに涙が湛えられていた。その涙は寂寞。決して叶わぬ願いを望むときの、特別に濃い悲哀の一滴。
スティグマの手が伸びて、コチョウランの頭を撫でていたのは、完全に無意識の所作だった。コチョウランははっとして体を震わせた後、スティグマにもたれかかるようにしてその身を預けた。
捻れた腕から感じる痛みと、コチョウランから感じる温もりが交互にやって来て、スティグマの頭を真っ赤に焼いた。それは頬の紅潮として現れ、心臓の高鳴りとして知覚された。
スティグマは、コチョウランに恋をしている。
もはや疑いようもない事実だった。初めて会った一週間前から、スティグマはこのコチョウランという娘に一目惚れをしてしまったのだった。その理由も自覚している。誰にも話すつもりはない。スティグマがどうしてここまでコチョウランにこだわるのか、知っているのは恐らくママだけだ。
「……天敵、か」
先週聞いてしまったママの呟きをスティグマは繰り替えす。
「天敵。なんの話」
「え、何でもない。この傷を負わせてきた相手の話よ。そう、それだけ」
「なんか隠してるのバレバレやけど……ええわ。これ以上掘り返すのは野暮ってもんやし」
「助かるわ。ありがとう」
ぎこちなく進む会話。
それに最初に耐えられなくなったのは、コチョウランの方だった。
「なぁ、腹割って話さへんか」
「へ?」
「お互いに秘密があるのはええことかも知れんけど、あたしはあんたのことがもっとよく知りたい。天敵のこと、シンヤのこと。お互いきちんと知っといた方がいいと思うんよ。どう」
コチョウランの眼差しは真剣そのものだった。それが、手を伸ばせば届く位置にあるという事実が、スティグマから正常な判断力を奪っていく。
だってこの想いは。伝えたら壊れてしまうから。
壊れてしまうけれども。大事に持っていても腐ってしまうから。
だったら、伝えてしまった方が気が楽なのかも知れなくて、そうするのだとしたらコチョウランが歩み寄ってきてくれている今が好機だ。
「……いいよ。だったら、まずはコチョウランから。なんでオオカミにそんなにこだわるの。約束っていったいなに。オオカミに、どうして欲しいの」
「分かった。一個ずつ行くわ。私とオオカミの、馴れ初めから……」
今は再開発で潰されてしまった、猫の額ほどの広さしかない小さな公園があって、ユナはその公園でブランコにこしかけていた。六年前の長い夏休み、蒸し暑さが多少和らいでくる夕方、換言すれば逢魔が時。そういう素敵な呼び名があるということを知ったとき、ユナはこの時間帯、日が沈むか沈まないかという時間に心を奪われていた。
なぜならユナ自身が、すでに魔なるものであったから。
その、「魔物(ルナチャイルド)」としての自分自身が、さらに魔なるものに出会えるとしたなら、相手は一体どんな姿をしていて、ユナのことをどうしてくれるだろう。
どうやってこの行き場のない苦しみから、救ってくれるだろうか。
ユナは夕暮れの公園で、そうやって夢想しながらブランコに座って足をぷらぷらさせている。手元には形ばかりに持たされた子ども向け携帯電話。リングを引き抜くと大きな音が鳴るそうだが、ユナはたとえ身の危険を感じても使う気など毛頭なかった。
小学五年生。女児。そんなユナに襲いかかる身の危険など、たかが知れている。
それに抗する力を、ユナは持っている。ルナチャイルド……だから、ちょっとガマンすれば、それ以上危害を加えられる可能性は限りなく低い。
だから、目の前に同い年くらいの少年が一人駆け寄ってきたくらいでは、ユナは表情一つ変えなかったのだ。
その少年が、話し始めるまでは。
「お前、なんて顔してるんだ」
「……なんや、あんた」
開口一番ユナの顔を詰ったその少年は、自転車から降りると一切のてらいなくユナに駆け寄って、尻ポケットからタオル地のハンカチを取り出して差し出した。
「目ぇ真っ赤だぞ。なんでそんなになるまで泣いてんだよ」
「泣いて……?」
驚きのままユナが頬に手をやると、確かにそこは涙に湿っていた。
それに触れたまま固まってしまったユナを見て、少年は不審に思ったのか僅かに退いた。しかし気を取り直したのかすぐに、ユナの手を握るとハンカチを押しつけるようにして握らせた。
「使えよ。持ってないからそんなにグズグズな顔なんだろ」
「……いらんよ。あたしはこのままでいたいの。泣いてるんだとしたら、泣いたままでいたいんよ。放っておいて」
「変なしゃべり方。学校どこだ?同じクラスじゃないよな」
面倒な物が引っかかってしまったものだ、とユナはため息を吐く。
「だったらなんなん。あんたにあたしの何が関係あるっていうんね」
「あるよ。お前は俺の前で泣いていた。だから声かけたんだ。転んだ、ワケじゃないよな。学校でいじめられたのか?親にしかられたのか?」
「だから、だったらなんなん。あたしが泣いているのが、なんであんたに関係あるんね」
「それがたとえ誰であれ、人を悲しませるヤツを許すな」
少年は……後にオオカミと名乗ることになる少年は、大きく胸を張ってそう言い切った。
「あいつらと、約束したんだ。だから泣いてるお前のことは放っておけない。教えてくれたら力になれる。だれに、なにをされたんだ」
「だから!だったらなんなん!」
子ども向け携帯電話のアラームを鳴らすピンに指を引っかけながら、ユナは激高する。
「じゃあ言うてみいよ。お前に何が出来るっていうんよ。父親に、父親さんに」
「父親、さん?」
「父親さんに犯された挙げ句に!そいつを……消し去ったあたしに、何が出来るのか言うてみいよ!」
ユナ……コチョウランとしての、最初の獲物がそうだった。父親役であるが故に抵抗すら頭に浮かばず、故に苦痛だけを与えられて彼は勝手に犠牲者になった。
ユナはその時初めて、自らがコチョウランという魔物であることを知ったのだった。それ故の絶叫だった。
オオカミはその剣幕に圧されて、しばし言葉を発することができずにいたが、やがて気勢を取り戻して口を開いた。最悪の形で。
「……犯された?ってなんだ」
「知らんのかい……もう話にならんわ」
ユナは……コチョウランは躊躇いなく、アラームのピンを引き抜いた。けたたましく耳障りな音が周囲に鳴り響き、住宅街の中ということもあってか窓を開ける音がちらほらと聞こえてくる。
「ほら、逃げんと。あんた変態扱いよ」
薄ら笑いを浮かべるユナは、まだ涙が頬を伝っていることに気付いていただろうか。朧気な記憶の中で、それは些末な事柄として消えてしまっている。
しかしオオカミの態度は、鮮明に覚えている。この耳を覆うような電子音の中、オオカミはしっかりとユナを見据えて立っていた。
「要するに父親がいなくなったんだな」
「そうや」
「でも、それ自体が哀しいんじゃないんだ」
「……そうや」
「だったら」
オオカミは、音とユナの態度が作る壁を容易く乗り越えて、ユナに向けて手のひらを差し出した。
「……約束する。俺が守ってやる。二度と泣かずに済むように」
「はぁ。なに言うとるんあんた」
「そうしろって約束なんだ。っていうのもあるし、かわいそうな子は見ていて気の毒だ。俺が守るか、助けてやる。必ず」
「どうやって」
「それはこれから考える。だから、ひとまず友達になってくれ。そうじゃないと話が進まないだろ」
どうやら約束を守るという一本の筋は通っているが、あまりに強引で剛情。その上論理は無茶苦茶ときている。
「新手のナンパかいな」
「ナンパってなんだ」
「ええわ、疲れる……」
ユナは大きなため息を吐くと、アラームのピンを元通りに収めた。閑静な住宅街に、元通りの静寂が訪れる。残ったのはユナがしゃくり上げる声と、心臓の高鳴りだけ。
たとえどんなアホでも構わない。
どんなに細い糸でも構わない。
この状況から救ってくれるかも知れないなら。ユナはそれに縋らざるを得なかった。
「ユナよ。名前は」
差し出された手を握り返して問うた。その答えが、あまりにできすぎていたので、ユナは笑ってしまったのだが。
「オオカミだ。オオカミシンヤ」
「……オオカミ少年やないか」
飛んだ相手に助けを求めたものだ。その時はそう思った。
向こう六年間を、共に過ごすまでは。
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