第11話 聖痕という名前

「……オオカミ君。あなたにもお礼を言わなくっちゃね」

その日の晩、オオカミを自室に呼び出したママは、開口一番感極まって泣き出しそうなのを堪えているのか、目頭を押さえながらそう言った。

「ソラを連れ戻したことか」

「ええ、連れ戻してくれた。外の世界からも……そして、ルナチャイルドという呪いからも」

ママがそう言いながら遠くを見る。その優しい眼差しの先には、恐らくスカイクラッドの居室がある。オオカミが顔を出したときには、天井にへばりついていた書籍が全部落ちて大変な有様になっていたから、今はそのかたづけに奮闘しているところだろうと思われた。

床に足をつけて、地面に向かって本を積み上げる。もしかしたら、捨てるのかも知れない。今の彼女なら、本に頼らずともいつだって、どこにだって行けるのだから。

「もう、あいつは普通の女の子なんだな」

「そうね……。恐らく、あなたのおかげで」

ママの視線が、オオカミに移る。まるでガラス玉でもはめ込んだかのように大きく見える瞳。それは緑色をしていた。カラーコンタクトでも入れているのか、それとも、それすらもルナチャイルドとしての特質だというのか。

「俺のおかげ、だと」

「そう考えるのが自然でしょうね。スカイクラッドは今まで三回脱走してて、当然ルナチャイルドとしての異能は治っていないの。でも、今回はあなたが一緒にいた。だから治った。そう考えるのが自然というものでしょう」

「買いかぶりだ。医者とか、政治家とか、そういう偉い人が治せないものが、どうして俺に治せるんだ」

「そういう偉い人たちは、治そうとすらしてないからよ。ドーナイザーの話は誰かから聞かなかったかしら」

「それと俺が治したっていうのは話が別だ。俺は、何もしてない」

ママが寄せている期待が本物なのはオオカミにも分かる。しかしオオカミの否定も本心から来る物だったし、事実あの戦いにおいてオオカミは全くの無力だった。

「あんな中で、俺に何かできるものか」

今になってようやく、自分がどんな死地をくぐり抜けてきたのかをようやく自覚する。震え始めそうになる膝を、抑える。

ママはその様子を見て、優しく頷いた。

「ルナチャイルド同士の、よりにもよってソラちゃんとアンチマテリアルの果たし合いだものね……怖かったのは無理もないと思うわ」

「正直に言えば、そうだ。ルナチャイルドに触れることの恐ろしさが身をもって理解できた。だが」

顔を上げて勢い込む、オオカミ。

「それでも、ユナを放っておくわけにはいかない」

ママの方は、感極まった表情を微笑へと変えて、オオカミを受け入れようとする。同席していて、オオカミの背後でこれまでのやりとりを聞いていたスティグマは、舌打ち一つしてオオカミを睨み付けている。

「ユナの力については、あんたに聞くなと言われているから聞いていないし、これから聞くつもりもない。ただ、もし仮に俺があいつを治せるんだとしたら、話を変えてもらわなきゃいけなくなるかも知れない」

いい答えが返ってくるとは欠片も期待していない。それでもオオカミは、この不安を吐露せずにはいられなかったのだった。

「現金なことだが、ようやくあいつがルナチャイルドになったって言うことに、向き合えそうな気がするんだ。頼めないか。あいつの力は、いったい何なんだ」

「……お前、バカね」

その時、沈黙を保っていたスティグマが開口一番で罵倒を繰り出した。

「なに、その全能感。たまたまスカイクラッドが治った位で偉そうに。私たちの傷にいけしゃあしゃあと指を突っ込もうなんて。おこがましいにもほどがあるわ」

「スティグマ、なんてことを言うの」

「……ママもママよ。スカイクラッドのことで舞い上がりすぎ。変にこいつに希望を持たせないで。持ち前の義憤と正義観とやらで何されるか分かったもんじゃないわ。私たちの傷はもっと深いの。ぽっと出の男がそれを癒やすだなんて、笑わせないで」

オオカミを糺弾するスティグマの口調はいつになく苛烈だった。

「私たちに足りなかったものを、私たちが得られなかったものを、お前一人が……渡せるですって?馬鹿にするな。たった一人にそれができるなら、他の子は苦労なんかしてないわ」

愛されなかったから、ルナチャイルドになる。ソラはそう言いながらるるぶを天井で眺めていた。ルナチャイルド本人が言うのならそれはきっと本質で、そうだとすれば全てのルナチャイルドたちにそれを与えるのは無理だ。オオカミは彼女らの抱える背景を、何も知らないから。

ただ一人を除いて。

「それでも、ユナは……ユナなら、助けられるかも知れない。幼なじみだ。どうされたいかも、だいたい分かってる」

「それが驕りだって言いたいの!」

「じゃあ逆に聞くが、お前はユナの何を知ってるんだ。俺は六年間、ずっととは言わないが長い時間を一緒に過ごしてきた。ここ最近は情緒不安定だから微妙だが、あいつの言いたいことはだいたい分かる。ところがお前の方はどうだ、一昼夜共にしたくらいで、まさしく何が分かるって言うんだ。ぽっと出なのはお前の方じゃないか」

オオカミがいい放った最後の一言に、スティグマがみるみるうちに、その顔を羞恥と怒りで真っ赤に染めあげる。

「言わせておけば。じゃあさらに聞くわ。男のあなたに何が分かるっていうの」

「お前こそ。他人のお前に俺とユナが交わした約束が理解できるものか」

「お前だけが特別だなんて、それも驕りだって言っているのよ」

スティグマが総毛立ってオオカミに歩み寄るが、オオカミも負けてはいない。スティグマの怒りに燃えた瞳を真っ直ぐに睨み返して言い放つ。

「やるのか、やるなら俺は……間違いなく負ける。だがその瞬間がお前の負けだ。ユナが、曲がりなりにも求めている俺を殺した瞬間が、お前の最期だ!」

「やめて、止めなさい、二人とも」

もはや三歩の距離に至っていた二人、視線から火花が飛び散りそうになったその時に、ママの巨大な手のひらが二人を遮った。

「止めないで!」

「やらせてみればいい!」

「馬鹿をおっしゃい。私のお家の中で暴力は絶対に許さないわ。オオカミ君、コチョウランちゃんのお部屋に行きなさいな」

「ママ!どうして?」

「オオカミ君の言うとおりだから。コチョウランちゃんに必要なのは、出会って丸一日も経ってない同性のトモダチより、長年連れ添った幼なじみの方なの。聞き分けてスティグマ。この場であなたに、これ以上冷たくしたくないの」

ママの手のひらは依然としてオオカミとスティグマの間に立ちはだかっている。勃発しかけた内輪もめを止めてくれたママをオオカミが見やると、彼女は鋭い目つきで「早く行け」と促している。

「……済まない、恩に着る」

駆け抜ける足音。扉が開き、閉まる。

残されたのは、ママと、失意に顔を覆うスティグマのただ二人。


「恨んでいい、ママ」

「私のことならいくらでも恨みなさい。長い付き合いですもの、そのくらいのことをしたってことは分かってるわ」

「分かってるなら!」

「でもね、スティグマ。女の子同士にだって、通るべき道順があるのよ。それは男も女も関係ないの」

ママのカーペットから生えた両手が、スティグマを抱きしめようとする。しかしスティグマはその抱擁を振り払って拒み、オオカミとは反対側の扉を蹴り開いてその先にある無尽の廊下へと消えた。

ママ一人になったベッドルームは、静寂に包まれる。

「……ほんのおとといまでは、このくらい静かな方がよかったのだけれどね」

スティグマが去って行った方を見、オオカミが話しているだろう方を見、そしてママは自分自身の手のひらを見た。

細く、痩せさらばえた、決して美しいとは思えない手だった。それでもこの手は誇りだった。ありとあらゆるルナチャイルドを愛した結果だから。

しかしいま、スティグマの前にコチョウランが現れた。現れてしまった。

「可哀想に、スティグマ」

ママは本心から嘆く。彼女の不運を。彼女が抱える宿業の深さを。


「あなたの、いるかもわからなかった天敵に巡り会うなんてね」



オオカミは駆け込んだ先に、ユナが震えて待っているものだと信じていた。だから飛び込んで「ユナ」と彼女の名前を呼ぶと同時に枕が投げつけられるとは思いもしていなかったから、避けることなどできはしなかった。

「バカシンヤ……!」

「なによりも先に謝ろうと思っていたんだが……すまん」

枕が床に落ちないよう受け止めて、オオカミは、堂々と言う。

「聞こうやない。なにを謝ってくれるん」

「お前以外のヒーローになって、すまなかった」

オオカミが躊躇うことなく言えたのは、それが本心からの言葉だったから。

「お前との約束を破ることになった。二度目だ。俺はお前のヒーローであり続けられなかった」

翻ってユナの方は、即座に返ってきた歯の浮くような台詞に面食らって、顔を真っ赤にしてしまう。顔を埋めるべき枕は、今し方投げつけてしまったから、そのままオオカミと対面せざるを得ない。

「……い、言いたいことはそれだけ」

「言葉を尽くしてほしければできる限りのことはする」

「ええよ、気色悪い」

ユナは火照った顔を両手で覆って、その奥から絞り出すように声を挙げた。

「最後にあたしのそばにいてくれたらええの。帰ってくるのは、信じとったから」

「光栄だな」

「何があったん。聞かせて、立ち話もアレやん、こっち来てよ……」

「分かったよ」

オオカミは肩をすくめながら、ユナが座り込んでいるベッドの正面に腰掛ける。オオカミの体重を受け止めて良く沈み込むマットレスだった。オオカミがいた部屋のものよりも上等かも知れない。ユナを悪く扱うつもりはここの誰にもなく、そのことにはユナも気付いていたのだろう。

「それで、何があったん」

「俺が見たのは……アンチマテリアルとの死闘だけだ」

「……あいつ、どうなったん」

「死んだ、と思う。成層圏に落ちて生き残れるとは思えない」

「勝ったんやな」

「ああ」

「……シンヤ!」

歓声と共に、ユナが飛びついてくるのをオオカミは最小限の動きで躱す。危うくベッドから転げ落ちそうになったユナは、恨みがましくオオカミを睨み付ける。

「ええやん、このくらい。あたしたちの宿敵を倒したんよ」

「そうだ。だがそれと約束とは話が別だ。それに……」

オオカミは思い出す。宿敵であったアンチマテリアルが、最期に浮かべた安らかな表情を見たときに生じた、自身の心の動きを。そして思う。スカイクラッドが、ソラとして快癒したという事実を。

「……単純には憎めない。もっと、うまくやれたかも知れない」

「そーれーはーっ」

思案に暮れていたオオカミは、ユナからの第二波を避けられなかった。頬に人差し指を突き立てられ、ねじられる。ユナを顧みると、思いのほか真面目な顔をしていた。

「アンチマテリアルとしたんか、約束」

「……いいや」

「じゃあ、シンヤが思い悩むことじゃない。違うん」

「それはそうだ。だが」

「あたし以外の女と、約束もしてないことで悩むっていうんね」

ユナが頬をほじくる力が、まるで穴でも開けんばかりに強まっていく。

「そういうことなんか、シンヤ?なぁ、なぁ」

「それは、違う。俺が悩んでるのは……お前にも関わることだからだ」

「あたしに?」

オオカミは、この思いつきをユナに話すべきかどうかママに相談するつもりでいたのだった。しかしスティグマの乱入によってそれは叶わなかった。

ユナは、どうして欲しいのだろうか。仮に自分を縛めている枷が五分五分で断ち切れるとして、それを聞いたときにユナは希望に縋るだろうか、絶望を見つめてしまうだろうか。

……そんなことは、聞いてみなければ分からない。


「スカイクラッド……ソラが、ルナチャイルドから快復した。どうやら俺に何らかの要因があるらしい」

「……え」


果たしてユナは、ほじくっていた指を止めて唖然としている。

「だから、悩んでいた。もしかしたら、俺はユナのことも救えるのかも知れない。俺が……というのもおこがましい話ではあるが、その可能性は十分にある……らしい。俺がまだハイツ・ムーンライトにおいてもらえている理由の一つだ。俺はその要因を探ろうと思う」

乗りかかった船、毒を食らわば皿まで。もう何を隠す必要もない。オオカミは思惑の全てを話した。

「だから、ユナ。ちょっとだけ待っていてくれないか。お前を苦しめるルナチャイルドという特性は、必ず俺が治してみせる。そうしたらこんなところで逃げ隠れしてなくても済む。だからちょっとだけ、俺に三回分のミスを挽回するチャンスをくれないか」

オオカミは言葉を選ぶということが非常に苦手な人間だった。だから逆説的に言えば、ユナに向かって朴訥に言ったことはすべて本心から来る物だった。

コチョウラン……ユナもそれは分かっている。だからたとえそれがどんなに的外れでも、どんなにとち狂ったことを言っていても、無碍にはできない。とはいえオオカミがした必死の決意表明が、ユナにはあまり響かなかったのも事実だった。

「……アホ」

故に最初に飛び出したのは、その二文字。

「ええんよ、別に治らんでも。だって治ろうが治るまいが、あたしがしたいことはたぶんできひんもの」

「それはなんだ。俺にできることか」

「そうやって一途にいけずなことを訊く……教えへんよ。ゼッタイ」

ユナはそう言って、顔をぷいと背けるのだった。俯くオオカミの当惑を余所に、そして自らの望みからも目を背けて。

「そうか……分かった。すまない」

「ええよ、こうやって一緒にいてくれたらそれで。シンヤがそういう人だってのは、もう十分に分かってるから」

ユナはそう言いながら、内心ではズタズタになった心の欠片を必死に拾い集めて、涙がこぼれないように蓋をしていた。

彼女の望みはある。しかしルナチャイルドとしての異能がそれを許さない。

しかし禁忌を犯さなければ、ユナは恐らく愛されない。

葛藤にくれていたユナは、目の前にいるオオカミが握りしめた拳にも、食いしばった歯にも気づけなかった。従って、もう一人砕けそうな心を必死に支えている女が、扉の向こうで聞き耳を立てていたことなど気づく由もなかった。

スティグマ。まるでずっと強い力でつねり上げられているかのような捻れ模様が、腕に浮かんでは消えて、その度にスティグマは呻く。しかし苦痛を与えているのは、その傷だけに留まらない。

「……コチョウラン」

湿ったため息に乗せたのは、諦念と、それを上回る執念。


「あなたも……そっち側に行くっていうのね。私をおいて……」

捻れた腕で体を強く抱いて、うずくまる。

腕ではない。

胸の痛みに耐えかねて。

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