第60話 軽い気持ちと重い覚悟
エレベーターの前のちょっとした空間に設置されている椅子に座って10分が経過した。
先ほど口頭で、ここで会おうと伝えられたので、座って待っているのだが、会う時間まではきっちりと決めていなかったので、今こうして待っているというわけだ。
食事中に突然、後ろから耳元で囁かれた、「15階、エレベーター前で待ってる」と。
あまりに一瞬のことだったので、もしかしたら聞き間違えたのかもしれないと、少し不安になりつつあった。
数十秒毎に、通知が来ていないかスマホをポケットから取り出して見る。
しかし、いつ見てもなつめからの連絡が来ることはなく、エレベーターのランプが交互に点灯するのをぼうっと眺め、数分が経過した。
持ち手無沙汰で退屈な浩太朗は、とうとう座っていることに飽きて、ソファから立ち上がった。
「単語帳取りに行くか……」
何もせずに、ただ待っているというのは意味がないので、一旦部屋に戻って、時間を潰せるようなものを持ってくることにした。
「あっ、鍵……」
カードキーは龍谷が持っていたため、浩太朗は部屋の鍵を開けることができない。
部屋の中にいる龍谷に鍵を開けてもらおうと、扉をノックしようとした時、廊下の奥の方から、ものすごい勢いの足音がこちらに向かってきていることに気がついた。
浩太朗は咄嗟に音のする方向を向いた。
すると、ピンクの髪を左右に激しく揺らすなつめが走ってきていた。
電車に乗り遅れるかもしれない時並みの勢いだったので、浩太朗は思わず驚いた。
「きゃっ!」
なつめは、ブレーキをかけようとして足の回転を弱めた際、バランスを崩してしまった。
「うわっ……!」
咄嗟の判断でなつめを抱え込んだ浩太朗のおかげで、地面と激突するという事態は免れた。
「大丈夫か?」
「あ、ありがと、大丈夫。……ちょっと走りすぎた、だけだから」
なつめは、浩太朗に身を預けた状態で、浅い呼吸を繰り返している。
受け止めたはいいものの、なつめが呼吸をするたび、吐息が首元を這うので、なんとなく居心地が悪かった。
なつめの呼吸が落ち着くまで、浩太朗は動かずにじっと待つ。
次第に、呼吸する間隔が遅くなっていき、安定してきた。
「部屋に戻って休むか?」
「2人きりがいい……」
なつめは、浩太朗の胸に顔を埋めたまま返答をする。
「ずっとこうしてるのか?誰かに見られたらどうするんだよ」
「エレベーターの前にソファがあったから、そこに行こう」
「分かった」
ついさっきまでそのソファに座っていたので、すぐにその景色が浮かんできた。
エレベーター前に向かうためになつめから離れようとしたが、人体に張り付いたタコのように、なかなかなつめが浩太朗から離れない。
どうしたものかと思いながら、再度引き剥がそうと力を入れた。
すると、今度はそれ以上の力で締め付けられ、浩太朗はがっちりと捕えられてしまった。
「おい。これじゃ動けないだろ」
「あ、あと1分……!」
「はい?」
「エネルギー補給させて……」
なつめが浩太朗を抱きしめている間、浩太朗は通行人がいないか、周りをちらちらと見て警戒していた。
「よしっ!充電完了!」
なつめにとっては有意義だったかもしれないが、浩太朗にとっては何のための時間かわからない1分が経った後、なつめは浩太朗から離れた。
「じゃあ行こっか」
浩太朗は、なつめに手を引かれながら、奇妙なくらい静かな廊下を歩く。
数秒もすればそこには着き、なつめはエレベーターの前に置いてあるソファに座った。
そして、数分間お互いに一言喋らない時間が続いた。
浩太朗の視線は行き場を失い、当てもなくさまよっている。
「ご、ご飯おいしかったよね!」
なつめは、この静寂な雰囲気の中、いきなり本題を切り出すのは難易度が高いと思い、全く関係のない話題を浩太朗に振った。
「味も素材も、俺の料理とは次元が違ったな。バイト生活の身としては、到底お世話にならないような料理だ」
「お母さんから生活費諸々もらってるでしょ」
「勿体無いから使ってない。それに、いずれめぐさんに恩返ししたいから」
浩太朗は、通帳の存在を知らなかった1年間で、お金を節約する癖がつき、無駄な買い物はせず、必要最低限のものしか買わない倹約家となった。
生活費を渡されているということを突然知らされたところで、めぐの手伝いをやめるなんてことは絶対にない。
浩太朗とめぐは互いに依存している状態なので、生活費を毎月くれるめぐがいなくなれば、浩太朗が生きていけなくなり、料理も接客もこなせる浩太朗がいなくなれば、人手が足りなくなり、めぐは今まで通りに仕事を続けていけなくなる。
現在、お金に心配する必要がなくなった浩太朗は、いつやめても金銭的には困ることはなく、人手の問題もなつめが解決してくれるので、やめたとしても問題はない。
しかし、お互いに心配性で、相手にとって自分は不可欠な存在であると思っているため、やめるという考えには至らない。
「こうたろうとめぐさんが出会ったのっていつ?」
「家を出てから、初めてスーパーに買い物しにいった日の夜、今でもはっきり覚えてる。多分死ぬまで忘れないだろうな」
命の恩人であるめぐとのファーストコンタクト、忘れるはずがない。
衝撃すぎたというのもあるが、その日がそれだけ浩太朗にとって重要だったのだ。
「まあ、この話は気が向いたら話すかも」
「えぇー、そこまで言ったなら最後まで話そう?」
浩太朗は大きなため息をついて立ち上がった。
「2人きりで話がしたいって言って呼び出したのはなつめの方だろ。俺と会って話したいことがあったんじゃねえのか。何もないなら俺は部屋に戻るぞ」
既に数十分と待たされていいるので、これ以上待つのは辛抱できなかった。
「待って!」
「なんだ、話す気になったのか?」
「え、っと……、何から話せば……」
なつめは、過去にこういった体験がないので、どう話を切り出したらいいかがわからなかった。
「簡潔に、重要なことだけ」
「それじゃダメなの!」
なつめの鋭くて甲高い声が、早く帰りたいだなんて軽はずみな考えを持っていた浩太朗の耳を貫く。
「急に大きい声だすな……、よ……」
浩太朗は、反射的になつめの顔を見て、そこで初めて、なつめとの温度差に気付かされた。
「わたしの想いは、3行でまとめられるような簡潔で薄っぺらいものじゃない!その辺に転がってる好きなんかと一緒にしないでっ!」
なつめは文字通り、浩太朗を釘付けにし、動くことも、息を吸うことさえ許さなかった。
感情的になって、理性を失いつつあるなつめを、浩太朗は止めることができない。
「こうたろうは胸を張ってわたしのことが1番好きだって言える!?言えないでしょ?だって他の女の子と遊んでるんだから!」
「遊んでないって」
「嘘つかないで!今日だって、神宮寺さんと一緒にご飯を食べに行く約束を取り付けようとしてたでしょ!」
なつめがトークルームを削除していたので、返信をし忘れており、浩太朗は、それを今ようやく思い出した。
「それは……」
浩太朗は、何か理由があって返信をしていなかったことを覚えているのだが、その理由が何だったのかをすぐには思い出せず、言葉に詰まってしまった。
すると、何も言わない浩太朗に対して、なつめが詰め寄って行く。
「ほら何も言い返せないじゃない!」
なつめは、浩太朗の胸ぐらを力強く掴んで、浩太朗を壁に押し付けた。
「あの時の言葉は、わたしを助けるためだけの嘘だったの……?嘘なら嘘って言ってよ……!」
なつめの両手から力が抜け、なつめはそのまま地面に崩れ落ちた。
しばらくの間、その場所には、なつめの細くて悲痛な泣き声だけが響いた。
浩太朗は右手で顔面を覆った。
言いたいことが上手くまとめることができず、必死に言葉を捻り出そうとする。
「違う……、嘘なんかじゃない」
「それをどう証明できるっていうの……?」
「できるわけがないって!心が通じ合ってないんだから!所詮、俺たちは、他人にすぎないんだよ……!」
浩太朗は、なつめに対して初めて、憎しみがこもった声で怒鳴った。
「やっぱり言えないじゃない……」
「そんなことできないって言ってんだろ!」
なつめが浩太朗の言葉を信用することができないのならば、浩太朗の心の声を知ることも推測することもできない。
打ちかけのメッセージボックスをなつめが見てしまった以上、納得のいく説明ができなければなつめが浩太朗の言葉に耳を傾けることはないだろう。
「ごめん……、わたし部屋に戻る」
「ああ、勝手にしてくれ……」
双方、言いたいことが別にあるはずなのに、言葉にすることができない自分が憎くてたまらない。
なつめが部屋に帰ろうとして、立ち上がろうと手に力を入れた瞬間、その瞬間を待っていたかのように、タイミングよくエレベーターの到着音が鳴った。
なつめは床を見ていて、浩太朗はエレベーターに背を向けていたので、エレベーターから誰が降りてきたのかわからなかったが、会話する声がしないのと、足音の数から、降りてきたのは1人であると推測する。
浩太朗は、その足音が遠ざかってきたらこの場を離れようと思っていたが、その足音はエレベーターから降りてすぐのところで止まった。
「あれ、もしかして修羅場だったかな?」
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