インソムニア

七春そよよ

träumerei

桜の独白です。


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 思い出せないことが沢山ある。

 その中で、たった一つだけ覚えている人がいる。時間と思い出の連鎖によって擦り切れ、もう随分掠れて見えなくなっている彼の顔。私の記憶の中で唯一色鮮やかに残っているのは、彼のことだけだ。他のことは、霧の向こうの海のように遠く遠くにあって、見えなくなっている。そういった思い出には、手を伸ばしても、決して届くことは無い。だけど彼に関する思い出は、驚くべきことに手に取るように思い出せるのだ。それはきっと、何度も何度も夢に見たせいだ。景色が、声が、色が、全てが目に焼き付いている。触れられた手の感触、風に揺れる髪、花の香り。彼と私を包む全てが穏やかだった。柔らかいヴェールに包み込まれているような、ふわふわの雲に巻き付かれているような、そんな夢。もう二度と現実には戻りたくないと思えるような、そんな夢。

 

 時空と世界に切り離されて、世間から離脱した空間に、私達の家はあった。そこはとても静かで、いつも涼しい風が吹いていた。ドアを開け、二段の平たい階段を登ると、一階に辿り着く。一階には、白い机といつも清潔なキッチン。ハーブティーの香り。壁の高い所に窓があって、二階には私と彼の部屋が、それぞれ一つずつあった。二階への階段を登る時に一度私が転びそうになって、それを彼が支えてくれた。それ以来、階段にはどこからともなく手摺が設置され、私は安全に登ることが出来るようになったというわけだ。

 

 彼との穏やかな日々の所々に点在する不自然な点は、いくつ挙げても足りない程多かった。私はずっと気づいていた。だが、いつも気づかないふりをしていた。彼も、私が気づくことのないよう注意を払っていたようだった。だけど秘密というものはいつか絶対に明かされてしまうもので、彼の抱える秘密と呼べるそれも、私にはバレていた。私は時折、その秘密を話題に含ませることで、優しい彼をからかった。彼は深層に隠した秘密に触れられても、慌てる素振りを一切見せなかった。彼は非常に賢かった。私に秘密が露見しないよう、細心の注意を払っていた。なので私も、いつしかそれに合わせて暮らすようになった。

 

 彼はどういうわけだか、私の好みを完全に把握していた。好きな香り、好きな味、好きな遊び、その他殆どの好みを知り尽くしていた。それら全てを支配した上で、彼は私に接した。そのため私は意見の食い違いなどを気にする必要もなく、伸び伸びと日々を過ごすことが出来たのだが、それでもやっぱり怪しむ他ない。そうして疑う私に向かって、自分は魔法使いなのだと自称しては、よく私をからかった。

 

 彼は、自分の過去について語らなかった。私の過去についても、聞かなかった。きっとそれもいつの間にやら知られていたのだろうけれど、それでも、聞かなかった。

 

 彼との初めての出会いは、今でもはっきりと覚えている。夢の中であるが故に記憶が曖昧な私の前に、彼は突然現れた。私は目覚めた時、知らないベットの上にいた。目覚め、困惑する私に彼は言った。

 

 「僕のこと、覚えてる?」

 

 当然思い出せるはずもない私は、首を振った。そうすると彼は優しく笑って、それでも構わないと言った。私はその返答を不思議に思ったのだが、その表情があまりにも優しかったので、何も言えなくなってしまったのだった。あの時、覚えていると応えたら、彼はなんと返しただろう。今となってはもう分からない疑問だけれど、私はいつも少しだけ気になっていた。

 

 眠る彼の傍に、こっそり腰掛けてみたことがある。綺麗な顔立ちに揺れる長い睫毛を眺めていた。彼の両手は柔らかい布団の上に、夢見るように置かれている。私はその細い指先に触れてみた。女の私と変わらないほど細く長い指。そっと触れると、その指がふっと動いて、私は驚いて手を離した。自分でしたことなのに、我ながらすごく恥ずかしくなってしまって、すぐに離れた。その後彼から、実はあの時起きていたんだ、と暴露され、私は更に羞恥心に駆られる羽目になったのだった。

 

 彼との思い出は数え切れないほど多い。夢の中に浮かぶ白い家の中で、一体どれほどの時間を過ごしたのだろう。かしましく騒ぎ立てる世間から切り離された静かな空間で、私達はとても幸せだった。彼と穏やかな時を過ごしている間、永遠にこうしていたいと思った。だけど、それは叶わなかった。

 

 ある時、日頃感じていた違和感が確実なものとなった。その揺るぎない事実に、私は心を千回も刺されるような痛みを覚えた。ずっと一緒にいられると思っていたのに、それが叶わない。これは全て、夢なのだという事実。ここは夢で、私は現実に還らなければいけないという事実。その全てが、私と彼の幸せな時間を、遥か遠くへ引き離した。

 私は彼を殺さなければならなくなった。

 柔らかな布団、絶対的な安心、涼しい風と微笑み、煌めく彼の瞳、涙、香り。その全てにさよならをしなければいけなくなった。私は絶望した。自分と、現実と、この世の理に絶望した。私は彼から離れたくない。なのに、どうして離されなければいけない?

 

 私は二択を迫られた。人魚姫の物語の様に三択目の選択を選ぶことは出来ない。私にあるのは、たった二つの現実だけだ。彼を殺すか、自分を殺すか。実のところ私は、彼のためなら死ねると本気で考えていた。寧ろ、彼の為に命を落とせることは誇らしいだろうと望んですらいたのだ。けれど、それも叶わなかった。現実に取り残されたもう一人の私が言うのだ。

 

 「彼を殺して」

 

 その言葉は絶対的で、現実の塊のようだった。その言葉が、彼女の本心ではないことくらい分かっていた。けれどそんなことはさほど重要な問題ではなく、重要視すべきだったのは彼のことだ。優しい彼を殺さなければならない。その事実だけが、私の頭を永久に縛り付けていた。

 

 やがて私は、彼を殺した。

 彼がいつも所持していたナイフを奪い取ったのだ。とどめを刺される寸前だというのに、彼は全てを見透かしたような目で「君のことが大好きだよ」と言った。

 私はナイフを彼の心臓に突き立てた。流れ落ちる血の上に、私の涙がぱたぱたと落ちた。予想し得なかった言葉に、私の全神経が揺さぶられた。彼は最後まで優しかった。いつもの笑顔で、いつもの穏やかな声で笑っていた。

 彼は確実に狂っていた。わたしも彼に狂わされていた。そうして噛み合っていた筈の歯車が、ゆっくりと軋み始めた。なぜ私は彼を殺してしまったのだろう。私は激しく後悔し、そして懺悔した。

 

 やがて私は現実へと引き戻された。

 夢はいつか覚めるもの。それは揺るぎない事実だ。私が認めようが認めまいが、夢はいずれ覚める。どれだけ後悔しても、この世に醒めない夢など存在しないのだった。

 

 私達の夢は、現実によって壊された。

 

 やがて、見て見ぬ振りをしていた現実が一気に押し寄せてきた。彼を失い、生きる希望を亡くしている私に向かって、大人達は罵詈雑言を浴びせた。いつまで寝ぼけているのかと。

 当の私は、いつまでも寝ぼけていたかった。彼とあの空間の感覚を失うことは、何がなんでも避けたかったのだ。 私は夢見るように虚空を眺めた。けれど、彼が再び視界をちらつくことは、もう二度と無いのだった。

 いなくても、見えなくても、聴こえなくても、それでも記憶は蘇る。目を閉じれば思い出すことはできる。香りも温もりも、感覚こそ無いけれど、私は彼をまだ、忘れてはいないのだから。

 彼の声が好きだった。少しだけ高くて、ほんのりやわらかくて、いつだって優しい。高らかな歌声も、笑みを含んだ囁く声も、全部が好きだった。

 そんな彼の声が聴こえることは、もう永遠に無く、その事実は変わらず、夢には戻れない。

 永遠に彼の夢に囚われていたかったのに。夢なんて、永久に覚めなければよかったのに。彼ではなく、私が刺されればよかったのに。そんな後悔は、絶え間なく押し寄せる。刺し込んだナイフの感触はいつまでも消えてくれない。こんな、鉛のように重たい心臓を抱えて、私はこれから彼のいない世界を、一生さまよっていなければいけないのだ。この感触を、両手に残したまま。

 けれども、この感触が死んでも消えなければいい、とも思う。これは私の罰なのだから。彼が残してくれた、唯一の痛みなのだから。形見のようなものなのだから。彼に関する記憶は、何もかもが大切に思えてしまうのだから。彼は私の、全てなのだから。

 緩やかな音楽に乗って、私の意識は夢に滑り落ちてゆく。彼のいない、空っぽな夢の中へ。明け方の肌寒い空気と、窓から差し込む柔らかな朝日に包まれて、私は眠る。

 

 彼と再び巡り会う、その日を夢見て。

 

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