魂の眠る場所5

     (三)


 上風が草木を揺らす。砂埃が舞う庭を進みながら、僕は屋敷のぐるりを見回した。見張りのような人間は見当たらない。屋敷内も明かりが灯っていないように見える。魔女もいないのではないかと思うほど閑全としていた。


 僕の後ろを付いてきていたオッサンに肩を叩かれ、顔だけを振り向かせた。


「メイちゃんとユニスは、この研究施設の中まで入ったことがあるんだよね? ここ、研究員も魔女もほとんどいないのかい?」


「多分。初めて来たときは、ここの研究員に成功作の魔女として捕まえられたけど、他に魔女はいなかった、と思う。次に来た時は先生……アテナに連れられてきたけど誰もいなかった」


「私の推測ですけど、魔女を弄んで殺してた男達、殺しては造って、また殺して造って、を繰り返してたんじゃないでしょうか」


 ユニスの声柄は嫌悪で染まっていた。魔女の強姦殺人の件は彼女にとって未だに不快なことなのだろう。僕は噤口したまま頷いて、彼女の意見に同意を示す。


 靴音はざらついたものから硬い音差しに変わる。玄関に続く石階段を上り、両開き戸に手を掛けた。分厚い木製のそれを押し開け、仄明るい屋敷の中へ踵を響かせる。


 広い玄関を見渡す。エドウィンはどこにいるだろう。確か、正面に伸びている廊下を真っ直ぐ進んだ先には広間があったはずだ。そこで僕はアテナと戦った。魔女殺人事件の際に囚われたのは、そこよりも手前の部屋だった。


 とはいえ、長い廊下を挟んで左右にはいくつも部屋がある。片っ端から見て行くしかない。


「オッサン、ユニス。エドウィンがどこにいるか分からないから、手分けして──」


「待ちなさい。ここは関係者以外立ち入り禁止よ」


 棘を孕んだ女の声に息を呑み、すぐさまナイフを抜いて振り向いた。女の金髪が陽光を受けて艶やかに波打つ。彼女は開いたままになっていた扉を潜り、高いヒールで床を鳴らした。


 先ほど庭を回視した時、彼女の姿はなかった。待ち伏せていたわけでも、見張っていたわけでもなく、出先から戻ったばかりという様相。タイミングの悪さに歯噛みしながらナイフを構える。


 僕の横で、ユニスも同じように手枷を持ち上げて、拳銃を構えていた。


「貴方が、警察の男と一緒にエドウィンを連れ去った女ですね? エドウィンはどこですか」


「やっぱり目撃者を逃がしたのは間違いだったわね。あの女、彼の仲間とも繋がってたなんて」


「質問に答えてください」


 慷慨こうがいな音吐がユニスの怒りを垣間見せる。女は紅い唇を左右に引いて愉色を湛えていた。このまま戦闘になれば三対一。彼女に勝ち目はないだろうに、なぜ嘲笑を浮かべられるのか分からない。


 女は武器を取り出す素振りも見せず、優雅に腰を揺らして歩み寄ってくる。


「そんなに焦らなくても、彼ならまだ生きてると思うわよ。だって彼、足の指を全て切り落とされても、耳を削がれても、目を抉り取られても、意識を保っていたもの。ずいぶん丈夫なのね」


 婀娜あだめいた笑声に、瞬目、息を忘れた。握りしめたナイフが、手の平から滑り落ちそうになって、咄嗟に指を丸めた。


 この女が、今、何を言ったのか。エドウィンに、何をしたのか。脳室で繰り返して、繰り返して、繰り返して。


 理解すると共に、怨嗟が喉を灼く。獣のような唸り声がせり上がってくる。それを噛み潰し、女を仇視した。まなじりを吊り上げる僕に気付いた女が、艶笑する。僕達を軽んじている容貌は不快で仕方がなかった。


 伸びる影を踏まない程度の距離で、女は足を止めた。腕組みをしたままこちらの出方を窺っている彼女。


 踏み出した紳士靴の行く手を遮るように、僕はオッサンの前に片腕を伸ばした。


「オッサン、ユニス、こいつは僕が殺しておく。エドウィンを探しに行って」


 制止する手の先でナイフを回転させる。いつでも飛び掛かれるように、女を睨み据える。


「メイちゃん、君一人に任せるのは」


「エドウィンを、早く治してあげなきゃダメだろ。それが出来るのはオッサンだけだ。こんな女、僕一人で倒せる」


 二人の影が、離れていく。彼らの靴音を掻き消したのは女のハイヒール。衣擦れの音が響く。女は針かなにかでドレスの裾を裂いて足を露わにする。太腿のベルトから抜き取った注射器を、投げるように構えた彼女の前へ、造次に躍り出た。


「行かせるわけないでしょう? 邪魔はさせな──」


「邪魔なのはお前だ」


 振るったナイフで女の手から注射器を払い飛ばす。衝撃で外側に振れる女の腕。がら空きになった腹部に拳を打ち込む。手骨が肉に沈んで、あばらを歪めた確かな感触。踵を擦り鳴らして押し飛ばされた彼女を即座に急追する。


 ナイフを振るい、振るう。女は腹部を庇いながらも踊るように躱していく。僕の攻撃を躱しながら、衣服の内側から手品のような速さで針や注射器を抜き取る彼女。


 両手に武器が携えられているのを視認するなり身を翻す。けれど女は攻めてこない。舌哭きを漏らして踏み込んだ。


 剣尖を横に薙ぐ。躱される。予測済みだ。女の顔面めがけてナイフを擲った。回避に踏み出した足を蹴り飛ばす。倒れ込んだ彼女の胴を踏みしだこうとした。けれど踏みしめたのは床だけ。たわんだ床板は木香を散らして砕片を散らす。地を転がって逃れた彼女の笑い声が背筋に届き、腕を振るいながら後顧こうこした。


 硝子片が舞う。砕いた注射器の向こうで女は後退する。逃がしはしない。足から抜いたナイフを突き出し、弾丸のように跳んだ。ハイヒールが軽快な音を奏でる。


 視界を綾取ったのは赤。それは血でも、女のドレスでもない。蹴り上げられた絨毯が攻防に介入する。ナイフは深々と布帛に突き刺さり、引き抜く前に絡め取られた。


 ナイフごと絨毯を払った女の腕が、目の前にある。煌めいた尖鋭。注射器が真っ直ぐに僕の腕を目指す。毒でも仕込んでいるのだろうか。それが皮膚に至る前に、外筒を握りしめた。


 それでもなお、女は退かずに僕を刺そうとする。近付いて離れてを繰り返す針先を見つめたまま、どうにか女の手を押し留めた。


「まさかとは思ったけど、その紐にその力……成功作の魔女? っふふふ、拘束して檻に入れてあげないといけないわね」


「エドウィンは、お前が拘束して傷付けたのか? お前が、エドウィンに酷いことをしたのか……!」


「私じゃないわよ? でも痛め付けられて苦しんでるのはとっても可愛かったわ」


「クソババア……お前が苦しんで死ね……!」


「口の利き方がなってないわねぇ小娘」


 皮下に、異物が沈む感覚。冷や汗が滲む。針が刺さった、なんてものではない。女の手を押さえ込んでいた拳固は痛みで開かれ、その掌には注射器が沈んでいた。


「なっ、……ぁあッ!!」


 動揺で退避が遅れる。激痛を味わったと同時に地を蹴って退いた。自身の腕を見下ろす。刺さった注射器を抜こうとして、悍ましさで血の気が引いた。


 まるで、土を潜るミミズのように、注射器は掌から皮下へ潜り込んで手首から顔を出していた。腕を動かせば皮膚が裂け、内側に沈んでいる注射器の筒と自身の骨が露出する。溢れる血と引き裂かれる痛みよりも、吐き気が、僕の意識を占拠していた。


 視界を染めた女の形影にハッとする。蒼褪めている場合ではない。振り下ろされた針を避け、着地した女を蹴り飛ばす。彼女は僕の蹴りを受け流すと、そのまま距離を詰めてきた。鼻腔をくすぐる香水の蘭麝。僕を芥視する瞳が目の前にある。


「体に収まらない大きさのモノを取り込ませてあげると、みんなそうやって蒼褪めるのよ。成功作の魔女も人間と同じ反応をするのねぇ」


 数本の針を握り込んでいる女の腕。それが僕に触れる前にその手首を握り込む。力を込めて──弾けたのは、注射器を包み込んでいた僕の皮膚だ。血煙を撒き散らして注射器が床に落ちる。こじ開けられた骨の不快感と、こぼれる血肉の苦楚に苛まれても、女の腕を握り潰した。


 互いの呻き声が重なる。女の前腕部を砕く前に一閃を捉えて引き避く。後方に跳びながら迫りくる銀光に眉根を寄せた。女が放った数本の針。それを避け、避け、うち一本を掌中に収める。投げ返そうとした針は、僕の手の甲まで突き抜けた。


「いっ……!」


「馬鹿ね、もう少し気を付けたほうがいいわよ?」


 刺さるような握り方はしていない。先程の注射器と同じだ。触れた途端、体内に沈み込む。


 あの女は、取り込ませた、と言っていた。取り込ませる、つまり、《吸収》の魔法。けれど触れなくとも魔法を使うことが出来るのだろうか。


 僕に飛び掛かる女を瞻視する。その指先の得物を見つめる。注射器も針も、僅かな血紅色に染まっていた。推察して奥歯を軋ませた。手元を離れても魔法を使えるようにしているのは、物に付着している彼女の血液まりょくだ。


 僕の爪先にパンプスが触れる。突き出された腕を屈んで避けた。足を旋回すれば女は宙へ跳んで僕の靴を躱す。その足首を、しかと握り込んだ。


 頭上で女の吃驚が零れる。僕に降り注いだ数本の針。舌を打ってそれを甘受する。皮膚を穿たれ、腕を内側から喰い破られる。その光景から目を背けて、女の足首を勢いよく振るった。


 壁に打ち付けられて倒れた女が起き上がる前に、絨毯からナイフを拾い上げる。しぶとく立った女の方へ駆け出した。


 接近。女が武器を抜くよりも早くナイフを振るった。急所を庇った女の腕が斬撃の軌道に乗る。彼女の手首から先を切り飛ばす。振り抜いた腕を引き戻す前に、女のヒールが僕の腹部に沈んだ。


 勢いよく蹴り飛ばされるも、両足で踏み止まる。ナイフを構え直した時、女は切断された自身の手を持ち上げていた。


 女を切る為に腕を引いて構える。自身の体を庇うよりもトドメを刺した方が良い。そう判断した僕の前で、女の初動の方が早かった。けれど彼女は武器を抜いていない。たぶれ人のように血塗れの手を握って笑い、その切断面で、僕の胸を打った。


「っ……──う、ぐ!?」


 衣服を巻き込んで、女の手が胸に沈む。肋骨をこじ開けて、中に入り込む。それはさながら、意思を持った別の生物。体内で蠢いた手は内臓を掻き分けて深くまで沈んで行く。


 激痛に目を見開いて口元を押さえる。身動ぎしたら臓物と手が擦れ、喉奥から血が溢れ出した。自身の体を掻き抱いて、膝から崩れ落ちる。体の中で、女の手が肉を抉る。まるで出口でも探すように、腹部を弄り回される感覚が止まらない。


「痛、ぅ、ぐ……っ!」


「っふふふふふふ、手を切り離されたのなんて初めてだから、面白いものが見れて嬉しいわ。魔女だからその程度じゃ死なないでしょう? 私の手は今どこにあるのかしら?」


 女の声が愉しげに転がる。血反吐で濡れた床板で、影が重なっていた。眼界に彼女の金糸がおりてくる。


 痛みを噛み締めて頭上を仰いだ。振り下ろされる針。さながら鉤爪のような切っ先。燭明を真っ直ぐに浴びた尖鋭が眩しい。その拳を貫く勢いでナイフを振り上げ、天を穿てるほど全力で打ち放った。


「くたばれ……!!」


 針を携えた手がナイフを避ける。金髪が僅かに散るも鮮血ははしらない。僕を覗き込んでいた女は上体を逸らしていた。


 僕を憫笑する女へ犀利な眼勢を突きつける。針を構え直した女の笑みは、耳をろうした轟音とともに崩れた。


「は──」


 一驚を喫した女が天井を見上げる。ナイフが毀壊したのは照明の根元だ。円形の金属に取り付けられたいくつもの硝子が、重力に揺さぶられて鳴き騒ぐ。豪奢なシャンデリアは罅割れるような衝突音とともに僕達を飲み込んだ。


「っ……」


 腕に打ち付けられた金属に眉を顰める。けれど僕にとっては、それよりも体内を巡る痛みの方が苦しい。幸い円のほぼ中心にいたおかげで、シャンデリアの鎖と付け根がぶつかった程度の負傷で済んだ。


 女は逃げようとして失敗したのか、片足が金属の下敷きになっており、押し潰された脛は切断されたみたいだった。


「貴方、魔女のくせに、こんな戦い方をするなんて……」


「魔女だとか、戦い方とかどうだっていい。僕はお前を殺したいだけだ」


 立ち上がれずにいる女の傍らに、片膝をついた。憎しみと痛苦を広げている顔を睨みながら、彼女の首を握り潰した。骨が砕けていく。息骨が掠れていく。首の皮から浮かぶ骨が細粉になるまで、手の平に皮膚だけが残るまで、潰して、潰した。


 頭部がだらりと落ちて、重さに負けた首の皮がちぎれていく。女の死体から手を離すと、深呼吸をした。


 鋭い爪の先を、自身の腹部に向ける。そうして深く貫いた。


「うっ……」


 自分の内臓に指を沈めた。痛みを辿って、中にあった女の手を掴んだ。その手を体内から取り除いてすぐ、手首の切断面に喰いついた。


 女の肉をしゃぶって血を吸い上げる。命を吸収して激痛が和らいでいく。けれども全然足りない。女の頭部を拾い上げて、首から溢れる血に口付ける。


 自ら開いた腹部の傷は塞がった。内臓の痛みもない。全身の傷も消えたのを感じて、女の頭部を口元から離した。


 顔を上げると、いつの間に戻ってきたのか、ユニスが蒼白の顔で僕を見つめていた。


「ユニス! エドウィンは!?」


「そ、それよりメイさん、な、な、なにしてるんですか……」


「えっ、前にも見せたことなかったっけ……? 他人の血肉を摂取すると《吸収》の魔法で傷を治せるんだ」


「見た、ような、気もしますけど! 冷静な今こうして見るとすごい光景で!」


「──メイ、無事みたいだな」


 背の高い二つの人影が、ユニスの頭の向こうで揺れる。どこかほっとしたような顔をしているエドウィンと、相変わらず破顔しているオッサンが歩いてきていた。


 探し求めていた人の瓊姿けいしに、上瞼が大きく持ち上がっていく。慌てて駆け出し、彼の目の前に踊り入る。僅かに戸惑っている彼の、頭の先から爪先までを眺め、爪先から顔まで視点を戻して、傷が癒えた様子に愁眉を開いた。


「っエドウィンもよかった……! 心配したんだよ!」


「悪い……昨日から心配させてばかりだな」


「ううん、いいんだ。何かあっても、何もなくても、心配しちゃうくらいエドウィンのことが大切なだけだから」


 改めて彼をまじまじ見つめる。爪先は靴を履いている為わからないが、オッサンがちゃんと傷を治したのだろう。服装に点々と血が滲んでいるものの、傷らしい傷は見当たらなかった。


 観察していたら、小さな歎声が零された。


「だからって、お前まで無茶はするな」


 端正な顔が、困ったように顰められている。彼の無事に安堵して、気が抜けていたせいで頭が回らない。彼を困らせたかったわけではないのに、余計なことをしてしまったのだろうかと、自身の行動を思い返して反省点を探した。


「えっと、ごめん、なさい……?」


「どうして謝るんだ。責めてるわけじゃない。そうじゃなくて……」


「メイさんもエドウィンも、私より人付き合い下手くそじゃないですか? エドウィンが、メイさんのことが心配だから早く駆けつけたかった、ってちゃんと全部言わないから伝わらないんですよ」


 足元に伸びる自身の影と苦い顔で向き合っていたが、ユニスの言葉を咀嚼して、理解するや否や雀躍じゃくやくして首を持ち上げた。


 エドウィンは僕と目が合うと、何かを言おうとして、結局何も言わずに閉口し、首肯だけを返してくる。心配してもらえるという事実が、胸臆を暖かな熱で染めてくれた。


「へへへ……うれしいな」


「君達、もう一人心配してくれてるレディがいるんだから、早く酒場に戻ろう」


 オッサンに肩を引かれ、危うく転びかける。半ば彼に引きずられる形で屋敷の出口へ向かうこととなった。


 ふと、エドウィンを仰ぎ見ると、彼が首を傾げて険しい顔をしている。なにか気になるところでもあっただろうか、と黙考してから、オッサンの言っていた『レディ』が誰を指しているのか伝わっていないのだと思い至った。


 カレンさんのことを伝えなければと、僕は彼の袖を引っ張った。


「カレンさんが、エドウィンが危ないかもって教えてくれたんだ。酒場で待ってるから、お礼言わないとだね」


「カレンが? ……そうか」


 頷いた彼の袖が指先から離れていく。屋敷の外に出ると、エドウィンは羽織っていたコートを僕の肩にかけた。寒そうに見えたのだろうか。渡すだけ渡して、彼はオッサンの隣に並ぶと、真剣な顔で何かを話していた。聞き取れた単語は『妹』と『墓』。きっとそれは、彼にとって大事な話だ。


 軽く目を伏せて、エドウィンがかけてくれたコートのボタンを留める。花のような清香が鼻先を掠めた。彼がいつも纏っている香りだ。造り物のような強い匂いではないから、香水の類ではない。これほど心を落ち着かせてくれる佳芳は、調香師でも作れないだろう。


 そこに気疎けうとい腥臭が混ざった。血の匂いを辿り、自分の体を見下ろした。


 エドウィンに借りたコートで隠れてはいるものの、垣間見える襟も、腹部も、戦闘の影響で血塗れだ。なぜコートをかけられたのか今更気付いて、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。

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