ここに一匹の蛇がいる。彼は広告代理店勤務である。

惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

 その園がある。そして果樹園がある。ありとあらゆる果実がいつでもたわわになっている。またそこには男と女がいる。もちろん全裸だ。彼らはあはあはうふふと乳繰り合い腹が減ればそのへんの果実をむしりととっては食べ、眠くなればそのへんでごろんと丸くなり好きなだけ寝る。彼らは何も知らなかった。ゆえに幸福であった。それは違いない。

 ここに一匹の蛇がいる。彼は広告代理店勤務である。学生時代はラグビーで鳴らし、その筋骨隆々とした体躯をやや明るめの紺のスーツでピッチピチに包んでいる。ツーブロックの頭のてっぺんから革靴のつま先まで自信という二文字が脈打っている。蛇というよりゴリラやね。彼は滾る自信と筋肉でそれはもう激しく勃起した一本の陰茎であった。

 あるとき、彼はその園を珍しく一人でふらふらウフフと歩いている女の姿を認め声をかける。やあやあ綺麗なお嬢さん、えっ全裸? なに? 痴女? まあいいや、ところであすこに木がありますね、アナタあれの実を食べたことは? ない? なるほどそれは。どうして。ええ。ええ。〈彼〉が。食べるなと。食べると死ぬからと。はあ。はあ。いやいやそんなことが本当にあるんですかねえ。いえいえどうもありがとう。ではまた。ごきげんよう。

 蛇は急ぎオフィスへ戻るとしばし腕を組み、そして一計を案じる。ノートパソコンを開く。蛇はその日終電がなくなったのちも猛烈な勢いでパワーポイントをシバきあげる。


 さてあくる日、男と女があいも変わらずあはあはうふふと乳繰り合ってはそのへんの実をもしゃりもしゃり食べていると、くだんの蛇がやってくる。蛇は二人にパワポの資料を配る。そしてやおらタブレットをひろげるとその場でプレゼンを始める。

 題、「果樹園の地域ブランド化に関してご提案」。男と女がページをめくる。蛇の神秘的作図法によって綴られた怒涛のポンチ絵。デカデカと縁どられ、全てのテキストがやたらに自己主張もとい威嚇しあうMSゴシックフォントの羅列たち。

 蛇はその舌を巧みにちろちろと動かしていう。あの善悪の木。あれの実を食べてはならないと〈彼〉はいう。それはいい。だがもったいないとは思わないですか? 思わない? それはヘンです、ええ旦那? なんともったいない! 私ならそうだな、あれをどうにかして〈外〉に売って、ええ。金にしますね。ええ。あれを。〈外〉へ。売り出すのです。

「〈外〉へ?」と男が聞く。

そう、〈外〉です。この園の〈外〉。ありゃぁ良い値が付きまぜ。なんたって〈彼〉がわざわざ食べるのを禁止するほどってぇ代物だ飛び切り美味いに違いねぇ。わざわざ。そうです。食べたら死ぬなんて。一休さんじゃあ、あるめぇしねぇ。ええ。ええ。間違いなくあれは美味い。そうに違いない! いや実際は美味いかどうかはどうだっていいんです。禁止。食べるな。これを破ることより美味いことがこの世にありまっか? いや無い。これは確実に売れまっせ。しかしです、ここで肝要なのは売り出し方だ。ただ美味しい! なんて惹句じゃ今日び誰も振り向きゃしません。若い子は、特に。ええ。ええ。そこで旦那、ここはひとつ、パァーっと。派手に広告うって。ええ。ええ。広告。広告です。そりゃあもうド派手に。大々的に。キャッチコピーはそう、神が認めた禁断の果実。これで決まりでさァ。ええ。で、まずはSNSで。インフルエンサー使って。ある程度、知名度が上がってきたら、今度はCMなんてェ打っちゃって。タイアップなんかもしちゃったりして。ええ。ええ。付加価値。高価格化。ブランド化。もうがっぽがっぽ。あれですぁ、お札を刷るみてぇなもんでね。ええ。ええ。そうです。全部私に。お任せください。どうです? 隣の彼女。綺麗なおべべ着てみたくないですか? それに旦那ァ。もうすんげぇブリンブリンした高級時計も唸るほど買えまっせ。こりゃ腕が足りねぇや。ええ。ええ。

 当然、男と女はきょとんとする。ねえあなた、おべべって何かしら。さあ。でも、蛇があれだけ熱っぽく言うんだから、きっといいものなんだろう。そうかしら。そうよねぇ。あの。すみません。ところで、時計ってなんですか? はぁ。はぁ。時間が。分かる。はぁ。時間。時間?

 男と女は何も知らなかった。ゆえに幸福であったのだ。それは違いない。


 このプレゼンが男と女の胸中に如何程残ったかについては大いに疑問が残る。しかし蛇は根っからのセールス・アーミィであった。そして長年のマゾヒズム的修練もといスポーツ経験が彼の才能を磨き上げた。蛇は雨ニモマケズ風ニモマケズ、休むことなく二人の元へと訪れ、熱心に自慢の舌をちろちろさせる。男と女は、はぁ、はぁ、へぇ、ふわぁ、ぐぅぐぅ、といった具合だった。

 そうした蛇の熱意が通じたか。いやおそらくあるいは二人にとっては別にどっちでもいいことだったのだろう。じゃあまあそこまでいうならやりましょか、ええ。ええ。といった具合に話はまとまった。


 翌朝、男と女が蛇との話なんぞすっかり忘れてふわああと伸びをし朝餉の果実に手を伸ばす。するとどうだ。その園を、どうにもこじゃれた、するりとろりとした服を着た、いかにもって感じの40代ほどの男、そのアシスタント、そして蛇が闊歩している。蛇が言う。このかたは何とかってぇ著名なクリエイティブ・ディレクターで。あの会社のロゴも。あの国家的イベントの総合プロヂュースも。ええ。全部この人がやったんですよ。はあ、そないでっか。男と女はきょとんとする。まあ、要は今回、この果樹園をブランド化するにあたってですね。ええ。ええ。そうなんです。色々と御助力いただくと。ええ。ああそうなんですか、それはどうもどうも。ではさっそく具体的なプランニングへ移りますんで。え、予算? まあまあそれはそれはのちほどじっくりワッハッハ。蛇とクリエイティブ・ディレクターは去っていく。男と女は一瞬、予算ってなんだろうとも思ったがそういえば朝餉を食べていないことを思い出す。食べる。乳繰り合う。眠る。そして忘れる。


 次に男と女が目覚める。果樹園のとある一角に掘っ立て小屋みてぇな作業場がおったてられている。中を覗くと例の果実に蛇が絡みついたロゴがあしらわれた大量の空箱がある。なにかしらこれ。さあ。なんだろう。どうにも食べられはしないようだ。不味い。ぺっぺっ。あはあはうふふ。およしなさいよ、さあさあそんな段ボールより、どれか適当な実でも食べて。ええ。ええ。そうだなそうするとしよう。あはあは。

 そこに蛇が来る。二人を見つけるなり、なにやってんの! 早く収穫はじめて! ちゃっちゃと! もう発注が来てるンだよ! と言うわけだ。その剣幕に押されて男と女、何が何やらとりあえず、もそもそと善悪の果実をむしっては、カゴへ。カゴがいっぱいになると作業場へ戻ってくる。あの。これ。取ってきましたけど。ああそう。なに突っ立ってんの。選別だよ選別。傷とか。サイズとか。で分けて。分けたら箱に詰めて。詰めたら出荷だから。ほら。手を動かして! もそもそしないで!

 蛇にうながされ、しかし労働なんざ生まれてこのかたやったことがない男と女だ。なにせ実家が太いなんてェもんじゃない、〈楽園〉だから。二人はもそもそと検品し、なあこれ、ちょっと傷がついているけど、いいよなあ。ええ。ええ。あたしならそんなのちっとも気にしないわよ。あはあは。何笑ってんの。あっ蛇の。蛇の。ハァーッ。これさぁ、ちゃんと見たの? こんなでっけぇ傷入っちゃってサァ。どんなガサツな取り方したの。あの、いえ。その。もういいよ。ほらちゃっちゃと箱詰めてサ。直にトラックがくるから。時間だから。急いでね。はあ。まあ。

 その日も暮れて、漸く最後の箱がトラックに詰め込まれる。何てェことだ。男と女は生まれて初めての疲労を覚える。こんな日はさっさと眠るに限る。二人は夕餉もとらずに横になり、ぐぅぐぅ眠る。

 翌朝も蛇がくる。そして大量の空箱がある。男と女は言う。あの。あの。なにか。これ、昨日もやりましたけど。そうそう。やりましたけど。あー。うん。そう。それで、これが今日の分だから。え。え。今日の。今日の。ちなみにこれ、いつまで続くんですか? これからずっとだよ。ずっと。発注がサ。来てるから。いっぱい。え。え。あの。じゃあ、そういうことで、僕ァつぎのキックオフミーティングあるからサ、あとヨロシク。ちゃんとね。ちゃんと見て詰めてね。クレームだから。え。え。あの。蛇はいずこかへと去る。男と女は目を丸くして顔を見合わせる。


 収穫。検品。箱詰め。出荷。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。じきに男と女はあはあはうふふと笑うことも無くなる。険悪になる。おい、この実、はあ? 傷だよ、ここ。困るよちゃんと見てくれよ、あら何よその実はアンタの取ってきた分だよ。どうしてこうもがさつなのかねえ。なにを。なにさ。何でぇてめェ誰の肋骨から生まれてきたと思ってんだ。なに言うか、ああそうかいだったらお好きに。あたしゃもうやめますから。なに! なにさ偉そうに、だったら好きなだけ肋骨引っこ抜いて奥さんつくんなよ。てめぇ、言わせておけば。なにさ。なんならいまあたしがアンタの肋骨全部ひっこぬいてやろうか? こいつ、もうゆるせねぇぶっ殺してやる。おやおやお二人さん威勢のいいことで。ややっ蛇の。あらっ蛇の。ところで手が止まっているけどいいのかいな? いえっこれはその、ちょっと休んでいたところでして、そうですのオホホホホ。ほぉ。休む余裕が。それは関心。あ、そうそう。あすこの。駅前のデパートあるじゃない。さっき売場担当と話してきて。成約。ああそれはなによりでさァ。うん。ありがとう。でね。これ発注。え。明日までに。え。いやしかしこれは流石に。じゃ、よろ! ちょ。あの。ん、なにか。いや、その、えー。なに。次のアポイントメントあるからサ、手短に。あーっ、その、我々は。ええ。いつまでこうして。働けばいいんですかね? なに。なに言ってるの。発注きてるんだから。もう5年先まで埋まってて。え。なにせ評判だからネ。いや。あの。それにあの。何とかってぇクリエイティブ・ディレクターの。ええ。はい。あのひと、高いンだよ。え。まあその分いい仕事をしてくれたンだけど。それに。インフルエンサー。落ち目のタレント。いやいや次は流石にサ。旬の子を押さえたから。大丈夫。ええ。ええ。CMうって。テレビだから。製作費がこンだけ。え。アンタ。お前。男と女はわなわな震える。そして恐る恐る、これはその、僕らが実を一杯詰めた箱の、どんだけ分の金額なんスかね。えー。こんくらい。え。え。こんくらい詰めて、やっとクリエイティブ・ディレクターの今年の契約分。え。え。もう5年先まで押さえたンで。専属で。え。それと必要経費。え。CMとかはケータリングとかロケ代足代とか。え。え。それが実いっぱい詰めた箱にして、うん、そう、これくらい。え。あとロゴCMその他のクリエイティブ制作費。配送費。販売店の取り分。え。そうそう私の取り分。え。とまあ、全部合わせたらサ、ぎちりぎちり実を箱詰めしたのが、そうだなあ、あっちからあっちまで、地から天までいっぱいに積みあがるくらい。こりゃあバベルの塔もびっくりだな。え。え。じゃ。アポあるからね。じゃ。え。え。


 男と女は笑わない。朝早く起きて終日働き夜は夜でよろずの事務作業に追われた。発注管理。蛇の持ってくる経費請求書の精算。エトセトラ。エトセトラ。このころの二人の食事といえば日に一度。蛇がどこぞで契約してきたとかいう業者が運んでくる、麦の混じったご飯、めざしが一匹、少々の漬物、具がわかめだけのうっすい汁であった。雪の日も夏の暑さの日も労働は続く。男と女は笑わない。笑えない。目は死に、容貌峭刻としてきた。

 このころ蛇は時々その園へやってきてはああ忙しい。死んでしまう。まったく眠る暇もない。脱皮する暇も。風呂にも入ってない。あ、これ? お昼食べる時間が惜しいから。レトルトのカレーを吸引してるのよ。時間がないから。ええ。次のCM。海外で撮るから。で音楽をTKに。ええ。ええ。そんでアジアへ売り込む。マーケットも視察してきた。大口の発注がこンだけ。そんでその旅費がこう。請求書がこれ。ヨロシク。二人はもうこのころ、え。え。とも発さず、死んだような目でぼんやりと蛇の話を聞くのみだった。

 またあるとき蛇は千鳥足でやってくる。酒臭い息だ。このときばかりは男も流石に語気を強めて問い詰める。アンタいったい何やってんだと。女もそうよそうよ、と。しかし蛇の舌は一枚も二枚も上手だ。いやはや参った、今度はナショナルクライアントとのタイアップですからネ。ええ。半端な店じゃア足元見られます。ええ。で、ザギン、シースー。チャンネー。ドンペリ。ええ。ええ。いやはや私もつらい。本当につらい。毎日毎日こんなんじゃ。好きでやっていると思いますか?! ええ? 全部あなたがた二人を思ってネ。僕ァ、僕ァね。二人に幸せになってもらいたいと思って! 綺麗なおべべ着させてあげたい! ブリンブリンした時計もつけさせてあげたくて! そう心の中から思っているんだ! もうこれは滅私。滅私ですヨそりゃ! ええ。ええ。分かってくれますか。分かってくれますか。ありがとうありがとう。じゃ、明日はCM発表記者会見なんで。帝国ホテルなんで。朝早いんで。ええ。ええ。ではまた。


 男と女はもう何も言わない。笑わない。収穫。麦の混じったご飯。検品。めざしが一匹。箱詰め。少々の漬物。出荷。具がわかめだけのうっすい汁。男の腕にはブリンブリンした時計、売上が何とかってェ大台に乗ったとかいう記念に蛇がくれたものだが、実際は蛇がもっと高い時計を買うので要らなくなったものをよこしただけだ。それが巻かれている。しかし男は時間なんて気にする必要はない。意識のある限り収穫。出荷。そうでないときは事務作業。それ以外は死んだように寝ているのだから。一方、女も綺麗なおべべを着ている。ただし上下ともトップスなのだが。

 ある日のこと。男と女は黙々と箱詰めをしている。すると、女がいひひ、いひいひと笑いだす。男は手を止めて、死んだような目でじつと女を見る。いひひ、いひいひ。おい。どうした。手が止まっているぞ。だって。だって。おかしいじゃない。あたしたち、こんだけ働いてるのに。ちっとも楽しくないんだから。一体、何のために毎日箱詰めしてるのかしら。また明日も箱詰めするため? いひひ、いひいひ。それは、発注が。請求書が。それにブリンブリンした腕時計。綺麗なおべべが。いひひ。でもあなたったら、時間なんて見ないじゃない。ううむ、それもそうだ。だいたい起きているときはずっと働いているしそれ以外の時は寝ているのだから、時間なんてあってないようなものだ。いひひ。いひひ。それに綺麗なおべべつったってこんなの、なにがいいのかしら。動きづらいったらありゃしない。いひひ。いひひ。ひひひ。でも発注が。出荷が。いひひ。ひひ。ねえあなた、いっそのことこの善悪の実を食べて。全部終わりにしてしましょうよ。え。そうよそうよ、そうしましょう。きっとそのほうがラクなンだわ。お前。だってあなた、どうせ生きてたって、あたしたち、きっと、〈どぅーむず・でぃ〉まで出荷しつづけなくちゃいけないのよ。ううむ。それもそうだな。いひひ。ね。ね。そうしましょう。食べちゃいましょう。二人で。うん。そうしよう。二人で。いひひ。いひひ。

 男と女はその実を手に取る。一瞬、互いを見つめる。蛇がやってくるまえ、その園での日々が二人の脳裏を駆けめぐる。そして思い出す。なんてことはない、二人は心の底から愛し合っていたのだ。なんでこんな大事なことを。二人は同時に善悪の実を齧る。随分と長いあいだ、二人は麦の混じったご飯にちっせぇめざしに薄っぺらくこじんまりとした漬物にわかめだけのうっすい汁しか口にしてなかったから、これは実に効いた。口の中に果実の甘み、いやそれだけでは言い尽くせない複雑なコンテクストが拡がる。芳醇で瑞々しい、官能的ともいえる果肉が。存分に口の中で味わい、やがて意を決して飲み込む。そして二人をとこしえの闇が────包まない。いまや二人の目は開かれた。そして二人とも、自分たちが生きていること、そしてそのこと以外のすべてのことを知る。二人を造った〈彼〉と同じように、すべてを。いひひ。いひいひ。ひひひひひ。二人は笑う。なんと馬鹿馬鹿しい! 二人は蛇に騙されていたのだ、こんな暮らしなぞ、あの頭上の星々が全て死に絶えるまで続けても決して二人は裕福にはならず、ただただ蛇の懐をぱつんぱつんに太らせるだけなのだ。おのれ憎き蛇め、次に来たらドタマかち割ってその皮剥いで財布にしたらァ。いひ。いひひ。


 〈彼〉がその園へやってきたのはちょうどその時だった。天地創造の大事業を終えた彼はつかの間、代休をとっていた。さてそろそろ復帰するかと、どれどれつくったその園はどんな塩梅かしらと歩いてみれば、どうにも様子がおかしい。その園の一角が開かれ、掘っ立て小屋みてェな作業場があるではないか。そういえば男と女を造ったはずだ、あれらはどこだと探してみれば、作業場の物陰から、いひいひ、ひひひと声がする。彼はそこへ近づいていく。あっ。〈彼〉の姿をみとめた二人はさっと隠れる。作業場の物陰。空箱の後ろへ。〈彼〉は当然訝しむ。お前たち、どうして隠れるのだ。だって。だって。あたしら裸なんですヨ。そうそう僕らは裸なんですヨ、いやお前はおべべを着てるンだろ。あら、でもこれどっちもトップスなのよ。いひひ。あたし今までトップスを着て、トップス履いてたんだわ。ひひひ。馬鹿だなァ。そういうあなたはブリンブリンした馬鹿みてェな腕時計が一ツだけじゃない。何いうか、こいつは値打ちもんなんだぜ、ほれみろ何とか竿だけ隠せる。いひひ、いひいひいひ。あなた全然隠れてないンわよ、玉も竿も剥き出しで。それじゃァただの変態ヨ。いひひ、いひいひ。いひひ。いやァこんな格好でどうもすんませんねェ。と、股間にブリンブリンした腕時計を巻いた男と、上下トップスを着た女がヨチヨチと歩きにくそうに姿を現す。いひひ。いひいひ。何ということだ。〈彼〉は二人が善悪の実を食べ、何を知ったかを知る。あれだけ食べてはならぬと。そういったのに。一体なぜ。なにが。

 蛇が若手YouTuberグループとともにその場へやってきたのがその時だった。あッやべッ。〈彼〉は蛇が男と女に何をしたのかを悟る。彼は恐ろしい剣幕で怒鳴り散らす。哀れその場に居合わせた若いYouTuberたちが何故か先頭で怒られる。一方、蛇はどこ吹く風で、これを動画に取ったらどンだけPVが稼げるか、頭の中で勘定している。しかし蛇のたくらみもここまで。一巻の終わり。そうなのだった。


 〈彼〉は自らに似せて造った男と女に大いに同情する。しかし決まりは決まりだ。そして土は土に。灰は灰に。男と女はその園を追放され、生きて、死ぬまで苦しむこととなる。だが二人は内心ほっとしていた。その園での出荷に終わりはないが、今の二人は働いて、苦しんで、やがて死ぬことができる。それで終わり。二人はそしてその園をはなれ、暮らし、産み育て、やがて土へと還った。

 一方世間は蛇の苛烈極まる搾取の実態、男と女の哀れな末路に怒り狂った。SNSには蛇に広告代理店にクリエイティブ・ディレクターにインフルエンサーにタレントたちに対する罵詈雑言中傷殺害予告なんでもござれ。クリエイティブ・ディレクターは画像一枚の謝罪文を公開し、ほとぼりが冷めるのを待った。インフルエンサーやタレントたちは、や、自分たちは知らなかった、我々も被害者だ、と何とか逃れようと必死必死。そしてくだんの蛇は広告代理店を追われ、やがてその人脈を恃まれてどこぞの広告制作会社の社長に迎えられたとか、そこで揉めて実質解雇みたいな形で自己都合退職したとか、オンラインサロンを開いたとか、サロン生と裁判沙汰になったとか、仮想通貨のセミナーを開いたとか、ドバイにいるとか、脱税したとか、その園での秘密を全部暴露しますこれはホンマにヤバいですとか言うてる間に遂に逮捕されたとか、あるいはドバイからの帰国時に待ち伏せていた男と女にドタマかち割られてその皮剥がれ財布にされたとか、その後の行方は杳として知れない。

 そして幾十世紀が過ぎた。


 あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんとおばあさんはあれから幾度も生まれ、土になり、また生まれたので、もうその園にいたときのことなんざすっかり忘れ去っているように見えました。

 その二人は今、ちいさな果樹園を細々と営んでいる。味はすこぶる良好。しかし二人とも儲けようとか、そういうのとは一切無縁だったから、地元の人びとのその一握りだけが知る幻の果実としてひっそりと知られていたのである。

 そこへ彼だ。彼は広告代理店勤務である。学生時代はラグビーで鳴らし、その筋骨隆々とした体躯をやや明るめの紺のスーツでピッチピチに包んでいる。ツーブロックの頭のてっぺんから革靴のつま先まで自信という二文字が脈打ち、激しく勃起した一本の陰茎そのものであった。陰茎ゴリラやね。一応賢明なる読者諸君へ言っておくと世の中たいていの場合は彼のような自信が海綿体をぎちぎちに満たしているタイプのほうが成功する。それは違いない。

 話を戻そう。彼はどこで聞いたのか、天性の勘なのか、あるいはかつてこの二人を誑かしたころの記憶が潜在意識に薄っすら残っていたか、どこからかその園の噂を聞き、一計案じ、その鞄にとっておきのポンチ絵とドキツイMSゴシックをしこたま仕込んだパワポ資料を詰めて東京からはるばる二人の果樹園へやって来たのだった。

 彼は浅黒い肌にそれはもうバキバキに漂白した歯をぎらつかせ、どうもどうもこんにちは。わたくし、東京で何とかっていう広告代理店に勤めております。ええ。ええ。実はここの果樹園のことを人伝に聞きまして。ええ。ええ。それはもう大層な味だと。素晴らしいと。それで今日はこういったご提案がありまして。この男は自信に満ち溢れていたし、根っからのセールス・アーミィであった。長年のマゾヒズム的修練もといスポーツ経験が彼のその才能を磨き上げた。実際に彼はこのあと雨ニモマケズ風ニモマケズ、休むことなく二人の元へと訪れ、熱心に自慢の舌をちろちろさせて、確実に、この果樹園を、この案件をモノにするつもりだった。そうしたらクリエイティブ・ディレクターにはあの人、インフルエンサーとタレントはあれとあれをアテンドして、CMは海外で撮影、曲はTKに書かせて……彼の頭の中にはこの後に訪れるであろう薔薇色の未来しかなかったし、その妄想のなかでがっぽがっぽと売上をあげる自分の姿でもう殆ど絶頂しかかっていたので、目の前でニコニコと話を聞いている、人のよさそうなおじいさんとおばあさんの顔がみるみる険しく、やがていまにも人を殺しそうな容貌に変化しているのを見逃してしまた。

 帰えぇれぇええええ! おじいさんは果実をもぎりとるや否や、思いきり彼の顔面めがけて投げつける。至近距離での命中に痛ぇ痛ぇと彼が飛びのく。しかし所詮はジジイの投げるもの、全身がゴリラの彼にはさしたるダメージもなかったはずだ。それでもおじいさんの迫力に流石の彼もたじろぐ。何だこれは?! 一体、俺が何をしたって言うんだ。そして気づく。そういえば、ババアのほうはどうした? そのババアだ。何やら先がべらぼうにとがった棒のようなものを持って、きぃええええええ! と叫んで走ってくるではないか。再び、何だこれは?! 

 おじいさんの投げる果実が彼の顔面にぶちあたる。おばあさんは先がべらぼうにとがった棒のようなもので彼をつつく。つつく。きぃええ、きぃええ、いひひ、いひひひ。クソッ。こいつら駄目だ、くるってやがる! 彼はほうぼうのていでその場から走り去る。その速いこと速いこと。流石はラガーマンだ。あるいは見る者によっては、その姿は地面を腹ばいに、その胴を左右にうねらせて地面をすべるようにして去っていったようでもあった。まるで蛇のように。

 そしてその園に、彼がつくったパワポの資料が散乱し、それは果樹園の木々の間を吹き抜ける風でいずこかへと飛ばされていく。彼の姿が消えた後も、おじいさんとおばあさんは暫く、その笑い声にも似た猿叫をやめることはなかった。いひひ。いひいひ。ひひひ。

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