第3話「おれの頭の中から、銃声と悲鳴、血の薫りが消え去ることは無かった」



其の三


 聖市は、摩天楼の聳えたつ世界的に見ても十指には入るであろう、大きな都市だ。

 その街の周囲に、ファベーラと呼ばれるスラム街がある。

 それはたんなるスラム街ではなく、土地の所有者が明確になっていないような政治的空白地帯へ、不法占拠的に住む移民たちがコミューンを形成したものであった。

 そこは法の支配下に置かれていなため、治安放棄地区ともいえるし、ならず者たちの造った自治区であるとも言えた。

 ヴェローナ・ビーチは、そうしたファベーラのうちのひとつである。

 有名で巨大なファベーラであるパライゾポリスの隣にあるため、天国に一番近い街とも呼ばれた。


 そのおとこは、ヴェローナ・ビーチの大通りの路肩へ、大きなハーレーのバイクを止める。

 バイクから降りたおとこは、悠然と通りを歩き始めた。

 ドレッドヘアーに、浅黒い肌を持つ、黒豹のように滑らかな身のこなしをしたおとこである。

 ファベーラとはいえ、大通りは人口が2万を越える街らしく、それなりの賑わいを見せていた。

 違法建築された現代芸術のオブジェか、魔法結社の儀礼小屋のようにも見える建物が立ち並ぶ中、道端には露店商が店を開き日用雑貨から肉や野菜、パンやワインにいたるまで様々なものが商われる。

 ドレッドヘアーのおとこは、獲物を探す肉食獣の忍びやかな、けれど素早い足取りで、裏通りに入ってゆく。


 裏通りを少し奥にいけば、ファベーラとしての本性を、ヴェローナビーチは露呈する。

 建物の影となり薄暗い路地で商う露店商の商品は、出事の怪しげな武器であったり、麻薬の香りのする煙草であった。

 剣呑な顔つきのおとこたちが行き交う路地裏を、ドレッドヘアーのおとこは自分の庭を歩くように進んでいく。

 凶悪な顔つきのおとこたちも、ドレッドヘアーのおとこの顔を見ると、怯えたように目を伏せる。

 しかし、そのおとこはそんなことを気にも止めずに、より物騒で荒廃した路地の奥へと歩を進めた。


 そのサイケデリックに壁を派手に塗られた店の前に置かれた椅子に、ひとりのおとこが腰かけている。

 その整った顔立ちのおとこは読んでいた本から顔をあげ、ドレッドヘアーのおとこを見つけると軽く会釈した。


「よう、マキューシオ」


 マキューシオと呼ばれたおとこは、椅子に座ったおとこに野性的な笑みを見せて答える。


「よお、ベンヴォーリオ」


 マキューシオが、派手に塗られた扉を落ち着かなげに見るのを、ベンヴォーリオと呼ばれたおとこは薄く笑みを浮かべて眺めていた。


「マキューシオ、おまえの恋人、ロミオなら中にいるよ」


 マキューシオは、野獣のように精悍な顔に、少しはにかんだ笑みを浮かべる。


「恋人ね、だったらいいけどな」


 ベンヴォーリオは、少しため息をつく。

 マキューシオは、それを見咎めて舌打ちすると、ベンヴォーリオが読んでいた本をとりあげた。


「何を読んでんだよ、おまえは」


 その表紙には「野生のアノマリー」と書かれている。

 ベンヴォーリオは薄く笑みを浮かべたまま、言った。


「首相暗殺を企て失敗したおとこが、獄中で書いた絶望と希望の本だよ」


 マキューシオは、苦笑する。


「相変わらずだな、ベンヴォーリオ。なんでおまえは、ロミオと一緒に中に入らない」


 ベンヴォーリオは、呆れたように肩を竦める。


「御守り役が、一緒にトリップしてしまう訳にはいくまい」


「まあ、そうだが」


 マキューシオは、ベンヴォーリオに本を返すと扉に手をかけた。

 それを開き、店の中へと入る。

 そこは、とても薄暗い。

 洞窟の中に、迷い込んだようでもある。

 ボディラインを強調したナイトドレスを着たおんなが、マキューシオを出迎えた。

 マキューシオは、首を振って案内を断る。

 おんなはマキューシオの顔を知っていたらしく、頷くと退いてマキューシオを奥へ通した。


 その店のなかは、黄昏の世界のように暗い。

 広々とした部屋を、いくつもの幕によって仕切っている。

 その仕切られたスペースの中に、客が横たわっていた。

 ドラッグに酔い、横たわる姿は死体のようでもある。

 そうしてみると、その場所は死体置き場のようだと、マキューシオは思った。

 彼は、猫科の肉食獣のようにどこか黄色く底光する瞳で、店の中を見回す。

 マキューシオは、狼のように夜目がきくようだ。


 彼は、闇の中から死んだように瞳を閉じて横たわるロミオを見いだすと、獲物を見付けた黒豹の動きでそちらへと向かう。

 マキューシオは、ロミオの側に静かに膝をつく。

 ロミオは、意識が飛んでしまっているようで、火のついた麻薬入り煙草を手にしたまま、横たわっている。

 マキューシオは、優しげな笑みを浮かべると、夢見心地の表情でロミオに唇をよせた。

 唇が触れそうになったその瞬間に、ロミオは目を閉じたまま口をひらく。


「よお、マキューシオ。我が友よ」


 マキューシオは、少し悪戯を見つけられた子供のような笑みを浮かべ、ロミオから唇を離す。


「ロミオ、目を閉じているのに、よく判るな」


 ロミオは目をひらき、美しい笑みを浮かべる。

 大輪の花のようなその笑みをみて、マキューシオは少し照れたような笑みを浮かべて言った。


「おれが入ってくるのを、見てたのか?」


 ロミオは、まだ眠っているような表情のまま、答える。


「ハシシュをやると、物凄く感覚が鋭敏になる。すると音や匂いであたりの状態が判ってくる。目を開いているときと、おなじようにな」


 マキューシオは、ため息をつく。


「ロミオは、おまえは忘却のためにここへ来たんだろ。意識を鋭くするためじゃあないだろうに」


 ロミオは少し肩を竦め、答えない。


「ロザラインとは、どうなんだ」


「ふられたよ」


 ロミオは野に咲く薔薇のように美しい笑顔を浮かべたまま、言った。


「おれたちは幾度も熱い肌を溶け合わすように、身体を交えた。全てを焼き尽くすような快楽を、ふたりで味わった。そのはずなのに」


 ロミオは、少し歌うような口調で続ける。


「おれの頭の中から、銃声と悲鳴、血の薫りが消え去ることは無かったんだ。そして」


 ロミオは、闇のなかで黒曜石のように輝く瞳で、マキューシオを見る。

 マキューシオは、見つめられて身体の奥が震えるのを感じた。


「ロザラインは、そのことに気がついた。ときおりおれのこころが恋人から離れ、虐殺の荒野をさ迷っていることに」


 マキューシオは、無理矢理笑った。


「まあ、おんななんてそんなもんさ。魂と快楽を食らいつくしても決して満足することはない。むしろ、食えば食うほどに飢えていくんだ。おんなたちは」


 ロミオは、少し怪訝な顔をする。


「そんなものなのか?」


 マキューシオは、深く頷く。


「そんなものだ。忘れちまえよ、ロザラインなんておんなは」


「どうやって」


 ロミオの少し戸惑った問いに、マキューシオは真顔で答える。


「おれの愛を、受けてみればいい。忘れさせてやろう」


 ロミオは、首をふる。


「残念だがおれは」


 マキューシオは、大きく笑う。


「今のは、冗談だ。忘れろ、ロミオ」


 マキューシオは、一枚の封筒をロミオに向かって投げる。

 ロミオはそれを、受け取った。

 その中身には、夜を背景に天使と踊る骸骨の描かれたカードが入っている。


「こいつは」


「ダンスパーティの招待状だ。おんなを忘れるには、もっといいおんなを抱くことだ」


 ロミオは、少し呆れ顔でマキューシオを見る。


「このカードには、キャピュレットの紋章が入ってる。あのファミリー主催のパーティなら、おれが行っても門前払いだ」


 マキューシオは、ちっちっと舌を鳴らして、指を左右に動かす。


「仮装ダンスパーティだぜ。仮面をつけていきゃあ、わかりゃあしないさ」


「そんなものかな」


 少し戸惑っていうロミオに、満面の笑みでマキューシオは答える。


「そんなものだよ」



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