ポメラニアン先生

黒井羊太

みんなー! ポメポメー!

 パソコンのタイピング音が止む。

「ふぅ」

 脳細胞が破裂しそうな勢いで執筆は進んでいる。ようやく佳境まで到達した。

「進捗はいかがですか? ポメラニアン先生」

 私が一息入れるのを見計らったようなタイミングで、編集者のチワワが声を掛けてくる。

「あぁ、何とか進んでいるよ」

「それは良かった。温泉宿で缶詰して頂いている甲斐があるという物です」

 チワワが嫌らしく笑う。

「せっかくの温泉宿だというのに、まだ一度も入れていないがな」

「全部が終わらないと入りたくない、と仰ったのは先生じゃないですか」

「そうだったかな?」

 そうですよ、とチワワが抗議する。そうだ、確かにそんな事を言った。

 これだけ脳細胞が弾けている状況だ。温泉など入ってしまったら、緩みきって溶け出してしまう。

 それでは締め切りに間に合わない。原稿を落としてしまう。

「しかしいい宿だ。今度はゆっくり来たいものだな」

「はい」

 耳を澄ませば、さやさやと葉擦れの音がする。風が通り抜けるのが分かる。窓から見える庭木には強い光と影が絶妙なコントラストが映し出されている。静謐な空間は、肌との境界線を失い、まるで自分がそこら中に存在するかのようだ。

 いい香りがする。温泉の独特な香りに混じって、美味しそうな匂いだ。これは……豚肉だろうか。大変良い匂いだ。美味しそうだ。きっと歯ごたえも良いだろう。噛み締める程に肉汁が溢れ出し、舌に絡み付いて離れない。喉越しなどはもうたまらない。味付けは、そう、シンプルに塩でいい。やはり肉そのものの味を堪能したい。あぁ、今すぐ食べたい。美味い物が食べたい食べたい食べたい……

「先生……先生?」

「お、おぉ? どうしたね、チワワ君」

「涎、すごいですよ」

 気付けば私の足下は涎で池ができていた。

「……」

「……温泉はお預けですが、そろそろご飯にしましょうか?」

 このままでは小説にも悪影響がありそうだ。私はチワワ君に仕方なく、残念ながら! 従う事にした。わーいやったー!

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ポメラニアン先生 黒井羊太 @kurohitsuji

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