第7話 悩みはいくつも転がってる_3

 そんな会話があってちょっと、いやかなり動揺してしまったけれど、お仕事はちゃんとやる。しっかりと下準備もしていたから授業は問題なく終わった。必要な書類も書いた。よし、今日はもう帰ろう、と立ち上がる。


「待ってください。カナさん、ご一緒してもいいですか?」


 ドアに手を掛けたところでアンディが大股にやってきた。


「良いけど、すぐそこまでだよね?」


 彼の家は私とは逆方向だったと記憶している。歩いて数分の、昼間のカフェがある大通りまで行ったらそこで左右に分かれる。彼は地下鉄だったはず。だから、わざわざ走ってくる必要なんてないのに。


「私、引っ越しをしたんです」

「そうなの?」

「カナさんと同じ駅から電車に乗ります。一緒に帰りませんか?」


 にこにこと柔和な微笑みを浮かべている彼だが、一歩塾の外に出ると自然と注目を集めてしまう。すれ違った人が振り返る。カメラで隠し撮りされる。突然名前を聞かれる。そんなのは日常茶飯事で、逆ナンみたいなのだってこの時間帯もう酔っている人もいたりするから珍しい出来事ではないようだ。そんなマンガのような光景が目の前でくり広げられる。彼はそのどれにも嫌な顔をすることはなく、上手く立ち回っているように見える。

 それがあまりにキラキラしているように見えて、ごく平凡な自分が隣に立っているのが忍びなくなってくる。さりげなく距離を取ると、気付いた彼に同じだけの距離を詰められる。真隣に立たれると、ほらやっぱり「誰あれ」みたいな視線が突き刺さってくる。せめてあと一人か二人いてくれたなら、視線も分散されるのに。かといって、今更「隣に来ないで」だなんて言えない。歩くだけでこれだけ人目を集めているっていうのに、もはやそれをなんとも思わなくなっている様子だ。そんな人の隣にいる人間としては、平凡な私はあまりにも釣り合わない。

 彼が何か言うわけではない。そして誰かに直に何かを言われたわけではないが、聞こえないはずの嘲りに気が重くなってくる。


「それだけ格好良かったらモデルとか出来るんじゃないの? スカウトされたことないの?」


 背も高くてスタイルも良いんだし、と気まずいのを誤魔化すために何気なく言えば


「そういうものに興味はないです」


 いつになく冷たい声を出されてヒヤリとする。

 ――これ、もしかして聞いてはいけないことだった?

 ドキドキしながら彼の顔を見上げれば、またにこりと微笑み返される。この質問で怒ってはいない……のかしら。その表情から感情はハッキリとはわからなかった。数秒の沈黙の後、アンディは自嘲めいた笑みを浮かべて目を伏せる。


「昨日も話しましたね。私は、いつも振られてしまいます、と」

「そんなこと」

「あるはずない、そう思いますか?」


 彼がすぐに振られるだなんて、そんなこと、あるはずがない。

 なんて言ってもこれだけの美形で、しかも性格だって優しい。どうしてそんなことになるのか、その状況が全く想像つかない。

 小さく頷けば、彼は少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべた。


「ならば、どうしてカナさんは今も私から離れようとするんですか?」

「え? それは、その……私が、あまりに普通で……」

「釣り合わない、と、思いますか? 私が隣にいてくださいと言っても、それでも勝手に『自分には釣り合わない』と決めつけて、今だって離れようとするじゃないですか。みんなそうでした。だから、私は本当に欲しいものが手に入ったことなんて、ないんです」


 真っ直ぐに見つめられて、私はなにも返せなかった。


 確かに私は「自分は彼の隣には不相応だ」と思っていて物理的にも距離を取ろうとしている。それが彼を傷つけているのだとしたら、それはとても申し訳ないことだ。少し意識を変える必要があるだろう。でも、それにしてもアンディの隣に立つハードルの高さは否定しようのない事実なのだけれど。

 それってどんな自慢話? と思わなくもない。自分が高スペックであると自覚している発言だ。しかしこれは本人にとっては大問題なんだろう。美形には美形にしか解らないそういう悩みもあるようだ。なんて、解ったような気になって一人頷いた。

 これ以上広げるような話でもなかったし、話題を変えてどこに越したのかと聞いてみる。その話しぶりからすると本当に私と同じ路線沿いらしい。だったら、これから行き帰りで会うこともあるかもしれない。

 それにしても、引っ越すだなんて話は一切していなかったような気がするのだけど、なんでこのタイミングで? という疑問がわく。半年ほど前からあそこに勤めだしたアンディだが、その時にも引っ越してきたばかりだと言ってなかっただろうか。


「たまたま不動産屋の前を通りかかった時、前の家よりも塾に近くて広い部屋が出ていました」

「それだけ?」

「ええ、いい条件の物件でしたから」


 あまりにもさらっと言うので、もしかしたら単純に引っ越しの好きな人なのかしら。そういう人は、部屋を変えることに特に意味はないのだろう。それにしても、一年未満はスパンが短すぎる。

 ホームまで一緒なのかと思っていたら、アンディは隣に立って他愛もない話を続けてくる。


「もしかして、こっち側なの?」

「はい。私の家の最寄り駅は――」


 彼が口にした駅名は私と同じだった。思いがけない偶然に目が丸くなる。


「カナさんも同じ駅なんですか? それならば、これからは一緒に帰ることができますね」


 嬉しそうなアンディに、私は微妙な顔を返すしかない。

 ――本気で一緒に帰るつもり?

 当然のように言われたそれが不思議でならない。学生じゃあるまいし、そもそもがお友達でもなし、ただの同僚同士が一緒に帰る必要なんて全くないだろう。それに同性ならともかく、異性といつも一緒だなんて変な噂になるんじゃないだろうか。アンディってば、私と浮いた噂が出るかもしれないと想像していないのか、それとも出たところで気にしないのか、そういうことを平然と言う。

 ――私なんかを噂の相手にされるって迷惑じゃないの? それとも、あまりに無頓着な性格なだけ?

 こちらの住所など細かい部分は知らなかったのだろうから、その物件選びに作為的なものはないようだ。偶然なのだろうとは思うがしかし複雑な気分になる。

 今カレではないから、達也に見られたらウザ絡みはされるだろう。でも責めることは許さない。付き合っていた時分、彼が私に少しでも異性の影が見えると怒り出していたのは恋人の疑わし気な行動に対する嫉妬などではない。あれはただの所有欲だ。自分のものを他の人が触るのが許せない。そんな子供じみたワガママだ。それに気付いたのはいつだったか。怒られるのも理不尽な言いがかりをつけられるのにも疲弊してしまって、彼の言うとおりになっていた気質は、別れてもまだ変わっていないようだ。


 塾の最寄り駅から四つ。改札を出て、私は左に向かう。アンディはまだ隣を歩いている。

 これ、どこまで一緒なんだろう。


「あの、アンディの家ってどの辺?」

「夜も遅いですから、お家まで送っていきますよ」

「へ? あ、こっち側じゃないの?」


 にこ、と笑い返してくる顔には下心みたいなものは見えない。それになにも私なんかを相手にする必要もないモテっぷりなんだから、変な意味なんてないのだろう。だけど彼の紳士的な態度に慣れなくて居心地が悪い。早く一人になりたいなんて思ってしまう。


「いいよ、大丈夫。いつも一人で帰ってる道だし。それに」


 プライバシーというものもある。申し訳ないけどただの同僚に積極的に家を教えるつもりなどない。オブラートに包みつつも断固拒否すると、ちょっとだけ悲しそうな顔をして「わかりました」とアンディは手を振った。


「明るい道を通って帰ってくださいね」

「うん、わかってる。ありがとう。じゃあ、また明日ね」

「はい、また明日……おやすみなさい」


 手を振り返すと、アンディはすぐに背中を向けた。

 彼に言われた通りいつもの明るい道を選ぶ……つもりだった。なのに、ふと気になって脇道にそれる。少しだけ、昨日のあの出来事があった場所が気になったのだ。

 この辺り、と曲がり角手前の壁を見る。しかしそこに石が埋まっていたような穴はない。じゃあ地面は? とその先をのぞいて観察してみるが、なんの変哲もないきれいにならされたアスファルトの道が続いているだけだ。


「……夢、なわけないんだけど」


 現に、自分の髪は切れていた。髪を撫でれば、確かに短くなっている部分がある。それなのに、どうして壁や地面に昨日の跡が残っていないの?


「どういうこと?」

「なーにしてんの?」

「っ!!」


 ひとりごとに応えるように突然耳元に囁かれた声に驚いて飛び上がる。振り返ると、そこには派手な男が立っていた。


「ハァイ。二日連続で会えるなんて。ねえ、これってやっぱり運命じゃないかと思うんだけどさあ。君はどう思う?」


 にんまりと自分の唇を指しながら、その男――ザックは小首をかしげて見せた。

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