第5話 いつもの朝、のち、夢説否定事象_3
流れる水の音を聞きながら、ぎゅっと自分を抱きしめる。
一昨日の夜から、変なことばっかりだ。廊下の影、電子ケトルの中の顔、魚のバケモノに……さっきのお風呂場の――
「……なにかに憑りつかれてるのかも」
「なにそれ」
洗い物を終えて、床にあぐらをかいた七央が首をかしげる。なにか趣味でも見つけたの? と勘違いしたらしい彼に口元にだけ笑みを浮かべて返す。特にその内容には興味もなかったのだろう。七央はまたスマホを手に取るとアプリを立ち上げる。
「でさあ。カナ姉って達也さんと結婚するの?」
う、と言葉に詰まってしまう私に幼馴染は手厳しい。とんでもない早さで指を動かしてリズムゲームの最難関ランクをプレイしながら、こちらを見もせずに言葉を続ける。
「おばさんが結婚しろってうるさいってオレにグチってたじゃん? 結婚するなら、さっさと紹介すれば良いのに」
「うん……」
早期定年を機に田舎に引っ込んだ両親の(特に母親からの)二十五を超えてからの結婚しろコールにはうんざりしている。せっつかれてどうにかなるなら、とっくにどうにかなっているし、親に紹介された相手というのもちょっと嫌だ。変なしがらみがありそうじゃないか。私は自由に恋して、私をちゃんと求めてくれる人と結婚したい。それなりの理想はあるのだ。妥協だなんてしたくない。別に年収が、とか学歴が、とか言っていない。
達也は、長いようで短かった二年やそこらの付き合いの中で、結婚だとかそういう言葉は一切口にしなかった。こちらがそれっぽいことを言おうものなら不機嫌になってしまうくらいで、まだ自由でいたいと思っていたのかもしれない。そもそも、話し合いの機会を持つことすらできなかったのだから、両親に紹介するチャンスもなかった。
私にもっと魅力があれば、達也も結婚したいって言ってくれたのかな、なんて何度思ったかわからないことを反芻する。
「まあオレは、二人は合わないと思うけど」
ちらりと視線を上げた七央は真顔で言った。
「そう言わないでよ」
「だって、王子様が理想なんでしょ? あの人、どっちかって言うと太鼓持ちタイプの内弁慶じゃん。オレ、あんま好きじゃない」
はっきり言ってくれるなあ、と苦笑してしまう。
「それは昔の話。今は私だってもっと現実的に」
「現実的に? ふぅん、まあ良いけどさ」
「もー。私散々ケチつけときながら、こういう時オレがもらってやるとかは言わないんだよね、七央は」
冗談めかして言えば、あまりに真剣な顔で見返されてしまった。なにその顔は、と見慣れない表情に動揺した私は「なんてね」とごまかそうとする。
「うちの母さん、よく冗談でカナ姉にオレのこともらってって言ってたよね」
「あったね、そんなこと。だってさ、私たち六個離れてるんだよ? 小さい頃は泣き虫の七央のこと引っ張って帰ってたからねー。今でも頼れるお姉さん、なイメージなんじゃない?」
「やめてよ、いつの話してんの。昔のことばっかり思い返してるとオバサンみたいだよ」
「うるさいなあ。って、ねえ待って? もしかして七央もらわれたい派? 婿入り希望?」
「なんでそうなるの」
ぎゃーぎゃーとお互いにからかいあっていると鍵の開く音がした。
――ああ、まただ。
こっちの都合も考えずに返してくれない合鍵で勝手に入ってくる人と言えば、もう一人しかいない。それはきっと……
「おい伽奈! お前なに男連れ込んでんだ――って、なんだ七央くんか」
「……ッス」
怖い顔で足音も荒く入ってきた元カレ達也は、そこにいるのが七央だとわかると笑顔になる。
私がしたら激怒するだろう失礼な返事をされても、そんなの全く気にしていないような顔で真隣に座った。七央は迷惑そうに距離を取ろうとするが、そのあまりに露骨すぎる態度にヒヤヒヤしてしまう。
――お願いだから変なことしないでよ。後で八つ当たりされるの私なんだから。
「なに? 七央くん遊びに来たの?」
「や、届け物ッス」
そろそろ帰る、と立ち上がる七央の手首を達也は掴んだ。
「ちょっとくらい遊んでくれてもいいだろ。俺と七央くんの仲じゃないか」
だからなんだ、という顔を一瞬浮かべた七央だったけど、しぶしぶ座り直す。二人は同じアプリゲームをやっているらしくて、早々にチーム戦をはじめた。
「達也、あのね」
さっきの七央の話を伝えようと隣から口を出す。
「あ? 邪魔するなよ」
私にはどこまでも不機嫌そうに答えた達也を、七央が横目で見る。クッと下唇を突き出したところを見ると、やっぱり気に入らないようだ。話をするのを諦めてお茶でも淹れようとキッチンに行ってケトルに手を伸ばそうとして、一瞬躊躇う。
一昨日の夜は、この中に小さな顔が見えた気がしてビックリして落としてしまったけど、壊れていないだろうか。あれから、なんとなく使うのを避けていた。
――大丈夫、あれは見間違いだったんだから、なにもない。今は一人じゃなくて、七央も達也もいるんだから、大丈夫。
昨日は七央がやってくれたから、自分で開けるのはあの出来事以降はじめてだ。大丈夫とに言い聞かせてえいやっとフタを開け、なるべく腕をつっぱって身体から離して恐る恐る中を確認する。
――……良かった。なにもない。
安心しながらケトルを水で満たす。三人分のルイボスティーをマグカップに注いで戻ると、ちょうど一戦終わった所のようだった。
「いやー、やっぱ七央君いるとアッという間だな! さすがはあのナオ。友達だなんて俺も鼻が高いわ~」
七央の視線が達也とは友達なんかじゃじゃないと訴えているが、見られている当人は気が付かない。
「そうだ。今日の夜って暇?」
「あ、あー……夜、今日は……ちょっと」
歯切れが悪い七央に助け舟を出そうと口を挟む。
「今日は深夜バイトの日なの? コンビニでバイトしてるんだよね」
そんな私の言葉に、七央はもにょもにょと答えた。
「あー、んー……コンビニは、もうやめた」
「え! 聞いてない!」
自分のことを棚に上げて机に手をついて身を乗り出す。
「言ってないもん」
「じゃあ今はニート?」
なんでそうなるの、とムッとした七央にだったら今はなにしているのかと尋ねれば喫茶店で働いているのだという。喫茶店? てことは、ラフな格好じゃなくて制服とかあるってこと? ちょっと想像してみたけど似合わない。となると逆に見に行きたい。
「その喫茶店って夜はバーっぽいのやってたりする? お勧めのお料理ってなにがあるの?」
「わかんない」
「わかんないって、自分のバイト先だよね?」
やっぱり七央は歯切れが悪い。バイト先の名物料理くらい知ってるべきじゃないかと思うんだけど、これはなにか私には言いにくいような種類のカフェなんだろうか。例えば――
「少年メイドカフェ……とか?」
ぼそっと呟けば
「違うから。普通のお店」
速攻でツッコミが入る。どんなところか言いにくいって、もしかしてそういうバイトだから? なんて思っただけなのに、アホなことを言わないでと馬鹿にしたような顔をされる。制服に特徴のある喫茶店だったら、すぐにでもバイトの予定を聞き出して見に行きたいと思ったのに、ユニフォームも普通のシャツに黒のパンツらしくてつまらない。
七央は重めの前髪で目元が隠れがちだし猫背だからそうは見えないんだけど、見た目が悪いわけじゃない。どっちかって言うと可愛い顔をしている方だと思う。最近ちゃんと顔を見た覚えはないけど。
髪を切って、背筋伸ばしてそれなりの格好をすればモテるタイプだ。少なくともルックスで平均値を下回ることはないだろう。普段ダボダボのパーカーだとかを着てるせいで、髪形や姿勢と合わせてどうにもパッとした感じがないのがもったいない。
「今晩はすいません。むりッス」
「そっか、うん。じゃあまた――」
「金曜。一緒にやりましょう」
まさか七央から誘われるとは思っていなかったのだろう。達也はポカンと口を開けた。
「迷惑ッスか?」
「いや! いや全然いいよ。やろう! 何時から? あ、俺は金曜もこれくらいの時間に帰ってこられるから、ゲーム集中してやるならメシと仮眠しなきゃいけないな。十七時以降だったらいつでも大丈夫」
「じゃあ、都合良い時に連絡ください。オレもその日は基本ずっと空いてるんで」
「マジで?!」
上機嫌になる達也に、七央はあいまいな笑顔を作った。
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