第1話 再会を願う花ー4

 流れ星のごとく彼女が去った後、このまま戻ってこないんじゃないかと不安になり、少しの間、佇んだままでいた。


 この場所で、彼女に会えなかったらどうしよう、と考えたことは何度もあった。


 その度に不安にはなったけれど、今感じている重さとは、比べられないほどに軽いものだった。


 会えたことで、こんなにも不安な気持ちが増していくなんて、変な話だ。


 そんな自分が情けなくなり、僕はベンチに座る。


 深く息を吸って、吐き出し、今自分がするべきこと──彼女との接し方について、考えることにした。


 僕が彼女と会話をするなら、過去の話は避けて通ることができない話題だ。


 何度も同じ手は通用しないし、彼女の中にあるであろう、後ろめたさをないがしろにする行為は、誠実ではない。


 できることなら、彼女の前だけでは、誠実でありたいと、僕は思う。


 そのためには……正面からぶつかってみるしかない。


 しかし、正面といっても、どう話を切り出すかも難しい。判断を誤れば、楽しかった雰囲気が一瞬にして、氷点下になってしまうかもしれない。


 僕は腕を組みながら、「うーん」と唸っていると、足音が近づいてくるのを感じて、腕を解く。


 戻ってきてくれたことに、安堵している自分自身に内心でため息を吐きながら、たこ焼きの入った袋を自分の膝の上に置く。


 結局、この短い時間では、良い答えを見つけることはできなかった。


 袋から二膳の箸とたこ焼きを取り出すと、香ばしいかつお節の匂いが鼻腔へと通り、食欲を搔き立てる。


 ちなみに、お箸が2膳あるのは、おじさんが毎年、僕が桜花と再会できる前提でお箸を入れてくれるからだ。


 まあ、去年までそのお箸1膳の出番はなく、家に持ち帰っていたけれど。


「わあ~、美味しそう! すっごく良い匂い!」

 

 振り返ると、桜花が目を輝かせていた。


「待たせちゃってごめんね!」


「ぜ、全然だよ」


 先ほどまでの僕の心を、見透かされたような気がして、ぎこちない返事になってしまった。


 彼女の手には、僕と同じミニサイズのペットボトルの緑茶が握られている。


「はる君と同じのにした」


「たこ焼きに合う飲み物は、あそこの自販だと、水かお茶くらいだもんね」


 僕は座っている位置を左に少しずらして、たこ焼きをベンチの真ん中に置く。ビニール袋が風で飛んで行っては困るので、下に敷いて。


「よいしょ」


 桜花がたこ焼きの隣に腰を下ろす。


 箸を渡そうと、手に取ろうとした時、正面を向いた彼女に目が止まった。


 桜花は今、どんな感情を抱いているんだ?

 彼女の視線の先にあるものが何かを、考えるまでもなく、僕は知っているが、見ないわけにはいかない。


 幻想的な桜の木に視線を移すとほんの僅かに、小さな声で、彼女の声が聞こえる。


「こっちから見るのは、久しぶりだな」


「え?」


 こっちから?


 別の角度から、この桜の木を見ることが多かったのだろうか?


 考えてもわからない。


「ううん、何でもない」


「そ、そっか」


 何だか引っかかるけれど、深堀されたくないことなのかもしれないので、訊かないでおくことにした。


「よし、食べよっか」


「うん!」


 彼女の表情が笑顔に戻ったことに安堵し、箸を桜花に渡す。


 すると、彼女は緑茶を膝の上に乗せ、両手で受け取り、「ありがとう」と言った。


 なんて丁寧なんだろうか、と10年前も同じことを思ったことを思い出した。


 僕は今、彼女とたこ焼きのパックひとつ分の距離に、座っている。


 ベンチひとつ分の距離だった先ほどよりも、彼女との距離が物理的に縮まり、桜花のまつげが長いことまでわかるくらいには、近くなっていた。


 子どもの頃は、何も気にせずにできていたはずの距離感が、今では照れくさく感じる。


 ふんわりと香る彼女の優しい匂いは、桜の香りと似ていて、心地よさを覚える好きな匂いだった。


 そんなことを本人に言えば、気持ち悪がられること間違いない。


 表情に出てはいないとは思うけれど、微塵も感じさせないために、たこ焼きへと視線を移し、たこ焼きのパックを開ける。


 美味しそうなかつお節とソースの匂いが、僕の邪な感情を上書きしてくれたことに感謝をしながら、お箸を割る。


 僕の心を表しているのか、箸は変な割れ方をして、不恰好な割り箸になったけれど、たこ焼きを食べる分には問題ないので特に気にはならなかった。


 もちろん、桜花の割った箸は綺麗だった。


「「いただきます」」


 いただきますの挨拶が揃い、「あ」と言った彼女と目が合うと、桜花はふふ、と上品に笑った。


 先ほどまで曇りつつあった場の雰囲気も、徐々に晴れ間が差して来た気がして、先ほどまで重かった肩が少し軽くなった。


 桜花はたこ焼きをひと口で小さな口に入れる。上品な笑い方とは対照的な豪快さがなんだかおかしくて、僕の口角が上がる。


 笑顔で口を閉じたまま咀嚼をする彼女の様子から、たこ焼きを心から美味しいと思っていることが伝わってくる。


 飲み込んだ後で、彼女は口を開く。


「美味しい! ふわっふわっで、トロトロ! それに、なんだか懐かしい味がする」


 興奮気味に言う彼女に、おじさんの作った、たこ焼きをあげて良かったと、素直に思った。


 懐かしい味、か。


 毎年食べて、味に慣れてしまっている僕では、言われなければ懐かしさを感じることはないが、おそらく桜花にとっては10年ぶりだろうから、そう感じるのはごく当たり前なことだ。


 そんなことを考えながら、桜花の満足気な笑顔を確認し、僕もたこ焼きを口に運ぶ。


 柔らかな生地をかみ砕くと、ほんのり温かいとろとろの中身が出てきて、かつお節とおじさん特製秘伝ソース、そして、マヨネーズが混ざり、口の中に旨味が広まっていく。


 程よい弾力のたこを噛めばさらに旨味が増し、飲み込むと、混ざり合ったエキスが喉元を通り、幸せな気分にさせてくれる。


 本当、何回食べても、このたこ焼きはうまい。


 温かい状態で食べるのは久しぶりで、余計に美味しいと感じた。


「でも、懐かしいのに、新しい感じもするから不思議」


「ああ、言われてみたら、そうかもしれない。材料とか大体わかるから、味を楽しめる数が増えたのかな?」


「確かに! 小さい頃は、材料とか特に考えないで食べるもんね」


「うん。それこそ、カレーなんて食材の味とか余計に意識するの難しいよね。玉ネギとか、入ってなくても違いわからないと思う。並べられたら、多少わかるのかもしれないけど」


「それ、私も自信ないよ〜。並べられても当てられないかも……」


 2人で笑い合う。


 思えば、子どもの頃に味を楽しむという感覚はなかった気がする。美味しいというのは、味の好みであって、甘い、辛い、しょっぱい、濃い、薄いぐらいの少ない味覚からカテゴライズされてできたものに過ぎないような気がする。


コクとか、まろやかさとか、そういった細かな味の違いがわかるようにある程度年齢を重ねる必要があるのかもしれない。


 けれど、突き詰めてしまえば、年齢を重ねようと、美味しいと感じる要素は、子供の頃と案外変わらないのかもしれない。


 拘りという小さなものが、その少ないカテゴリーを細分化させる秘伝のスパイスなのだろう。


 そんなどうでもいいことを考えながら、僕はまたひとつたこ焼きを口に運んだ。


 お互いにたこ焼きを食べ終え、手と手を合わせ、「ごちそうさま」を2人で言った後、桜花が口を開く。


「本当に美味しかった。ありがとうね!」


「どういたしまして。喜んでもらえて良かったよ」


 本当に満足している様子が伝わってきて、心から嬉しくなる。


「あ! お金!」


 そう言って、彼女はポシェットに手を伸ばす。


 その手が辿り着く前に僕は口を開く。


「いやいや、大丈夫」


「え、でも……」


「ほ、本当に大丈夫だから」


 2、3回同じようなラリーを続けた後で、彼女はしぶしぶといった形で、ようやく折れてくれた。






 たこ焼きのパックや割り箸をビニールに入れ、持ち手の部分を結ぶ。


 そのビニール袋を左手で持ちながら、彼女はベンチから立ち上がる。


「ねえ、はる君。この後、どうしよっか?」


 それは、この後もまだ彼女と時間をともにできることを意味していて、僕はその言葉が素直に嬉しかった。


 本当は僕から言おうと思っていたけれど、長時間いられるとも限らないし、すぐ帰るつもりだったかもしれない。


 などと、自分から切り出さなくていい言い訳を、永遠に頭の中で繰り返続ける意気地のない男だった。


「はる君は、今日1日大丈夫?」


「あ、ああ、うん。他に予定もないし、平気。桜花は?」


「私は……22時ぐらいにここへ戻ってくれば、平気だと思う」


「そっか、なら時間の心配はあまりしなくて良さそうだね。僕が毎年行ってる場所があるんだけど、桜花が行きたいところとか、あればそっちを優先したいんだけど……」


「行くところって?」


「ああ、えっと、この近くに下町があって、そこにある喫茶店に行ってるんだ」


 毎年、本が読めなくなるほど暗くなる少し前までここにいた後、喫茶店に向かっているので、お昼の時間には足を運んだことがないのだが、もしかしたら、桜花の気持ちを曇らせてしまうかもしれないので、言わないことにした。


「あんまり見て回ったことがないから、何があったかは朧げなんだけど、雰囲気が好きなんだ。和の感じとか」


「そっか。はる君が好きなところ、私も行きたい」


 彼女は少し俯き気味にか細い声で言った。俯いたことによって、目元が前髪で少し隠れ、その間から見えた彼女の頬は、気のせいかもしれないけれど、少し赤くなっていたように感じた。


「連れてってくれる、かな?」


 後ろで手を組みながら、桜花は微笑む。彼女のきめ細かな黒髪が春風に揺れ、後ろにある柔らかな光を放つ桜も音を立てる。


 その光景に僕の死んだような瞳が大きく開き、心なしか光を取り戻したような気がした。


「も、もちろん。お店はたくさんあるけど、そんなに時間もかからないと思うから」


 そう言って、僕はベンチから立ち上がり、下町へと向かうために歩き出した。


 途中、桜花が持ったゴミ袋を回収しようと交渉をしたが、2、3回ほどのラリーの末、今度は僕が折れるような形で、引き下がった。

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