憎き雨(2)


 剛介が北条谷から帰宅する頃には、既に夕日が山の端にかかっていた。

 講師陣が皆戦に出てしまっているので、敬学館の授業がほとんど失くなってしまったのが、剛介は少し寂しかった。

 四畳半の自室に戻り、教科書の一つである「孟子」をぱらぱらとめくる。そこで、ふと、目に止まった一節があった。


  孟子曰、春秋無義戦、彼善於此、即之有矣、

  征者上伐下也、敵國不相征也、

 

 意味は何となく分かった。

 『春秋』には、正義の戦争というものは記録されていない。ある国が敵国より良い場合は勿論ある。不正の者を征するのは、上級の者が下級の者を討伐することであり、同格の国は互いに不正を征することはできないからである。

 概ねそのような意味であった。

 では、薩長が「錦の御旗」を掲げて、我々を賊扱いするのは何なのだろう。元々、帝に刃を向けて賊軍と認識されたのは、長州ではないか。会津はそのときに、帝をお守りしたと聞いている。会津と薩長は同格ではないか。

 そんなことをつらつらと考えていると、すっと襖が動いた。振り向くと、作左衛門が立っていた。

「書を読んでおったか。母上が、夕餉の支度が出来たと申しておったぞ」

 口元に微かに笑みを浮かべている。そのまま、剛介の本へ歩み寄ると、しげしげと本を覗き込んだ。

 息子が読んでいたのは、『孟子』のようだった。

「父上。薩長が我らを賊軍扱いしているのは、何故なのでしょう」

 剛介は、父に訊ねた。

 作左衛門は、困ったように笑った。

「さあな。幼帝を誑かして、禁門の変や、京での怨みを晴らさんとして正義を語っている、という者もいる」

「では、我らは下の者ではないのですね?」

「そうだな。殿もそのようにお考えだからこそ、会津と命運を共にすると仰っしゃられたのだろう」

「ですが、先の白河の戦では西軍に負けました」

 兵の数では圧倒的に勝っていながらも、東軍は大敗した。その事実が、剛介はどうにも納得できなかった。

 剛介の手前、半左衛門はうまく答えられなかった。城中で、「仙台兵は早々に逃げ出した」「会津の指揮もまずかった」など、城下に残された者たちが噂しているのを、半左衛門は黙って聞いていた。

「だが、丹波さまたちはまだ白河を諦めておられぬだろう。各藩の陣割りも決まり、今は各藩の軍監らが間日会議を開いていると、達が伝えてきた」

 兄の達は、高根隊に編入されていた。

「兄上は、お元気でしょうか」

 ぽつりと、呟いてみる。九つも年が離れているため、兄弟喧嘩のようなものも滅多にしたことのない、物静かな兄だったが、いざいなくなってみると、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような心地だった。

 作左衛門は、剛介の質問に答えることができなかった。一日の戦闘には、二本松は間に合わなかった。だが、会津や仙台の兵は不甲斐ない戦いぶりだったという。両藩にとって、白河は所詮他所の土地にしか感じられていないのではないか。特に仙台藩は、碌に戦わずして逃げた兵も少なくなかったという。大藩でありながら、何たる様か。

「二本松の地は、二本松の者で守らねばならぬ」

 重々しく、半左衛門は述べた。

 再び、部屋の外から足音がした。

「お夕飯ができております」

 剛介を呼びにいったはずの夫も戻ってこないので、多少苛立っていたのだろう。紫久が二人を呼びに来たのだ。剛介と半左衛門は居間に足を向けた。

 

 ***

 五月二十五日、二本松兵は泉崎に陣を張った。一部の隊は更に先へ進み、会津と合流して本沼に進んだ。ここで西軍の斥候隊と衝突した。

 翌二十六日には、東軍は相議の上で払暁より白河の総攻撃を開始。奥州街道以北は仙台兵が攻め、東南は仙台・会津・棚倉及び二本松隊が西軍に対峙した。二本松隊は関和久に陣を敷いた。東軍の参加方は、次の通りである。

 

 合戦坂口攻撃 八個小隊(金山=旧表郷村に布陣)


 仙台一個小隊 隊長 石川宮内

 会津二個小隊 隊長 木村兵庫

 相馬二個小隊 隊長 泉田豊後

 棚倉三個小隊 隊長 平田弾右衛門


 桜町口攻撃 十個小隊

 仙台二個小隊 隊長 佐伯勇三郎、木澤徳松

 棚倉三個小隊 隊長 恒屋甚兵衛

 会津二個小隊 隊長 今泉伝之助、猪口伝吾

 二本松三個小隊隊長 高根三右衛門、土屋甚右衛門、斎藤喜兵衛

 ※仙台、会津の兵は細倉に、二本松、棚倉隊は田島に布陣。


 桜岡口攻撃 五個小隊

 二本松三個小隊 隊長 成田助九郎、内藤隼人

 仙台一個小隊  隊長 氏名未詳


 桜町口攻撃の二本松隊は、前日の夜潜行して搦目山に布陣し、辰の半刻(午前九時ころ)、西軍の陣営鹿島に向かって発砲した。続けて、桜岡、大和田攻撃の部隊も山王山の麓に進み、鹿島を攻める。砲隊は、敵陣を猛撃し、今にも陣地を占領しようというところであった。

 だがそのとき、俄かに激しい雨が降り出し、火薬が湿り、思うように撃てない。加えて、各隊が退却しているとの知らせがもたらされた。退き始めたのは、またしても合戦坂にいた仙台藩兵と、棚倉藩の部隊である。その知らせが来た桜町口の二本松陣にも動揺が走り、諸藩の兵らが浮足立った。

 一度陣形が崩れると、立て直すのは容易ではない。止むを得ず、二本松隊も引き上げようとし始めた。またしても、雨に祟られた形である。

 雨に弱い東軍を嘲笑うかのように、西軍は激しく攻めてくる。時刻は未の半刻(午後三時)であった。

 桜口でも、仙台藩兵が泡を食って逃げ出そうとしていた。

「このまま、おめおめと引き下がれるかッ」

 小隊長の内藤隼人が檄を飛ばし、小隊を率いてなお敵陣に立ち向かおうとした。隼人が抜刀し、先頭に立って走り出そうとする。

 その瞬間、雨霰と銃弾が隼人を目掛けて発射された。隼人が弾かれるように、倒れた。

「隼人様!」

 慌てて駆け寄った付き人の万次郎も、頭を撃たれた。

 部下たちが匍匐してやっと二人の体を後方に運んだが、隼人は胸部から血を流し、万次郎は即死していた。

「隼人撃たれる」の知らせを受けた丹羽丹波が隼人の下へ駆けつけたときには、既に隼人も絶命していた。だが、なおも敵は激しく攻撃を仕掛けてくる。止むを得ず、丹波は隼人と万次郎の遺体と共に、阿武隈川上流の田島村まで退却せざるを得なかった。

 夕刻になって、やはり西軍に押されて撤退してきた桜町口の部隊も、田島村に到着した。その中には、高根三右衛門の姿もあった。

「隼人殿!」

 変わり果てた姿の隼人の体に縋って、三右衛門は慟哭した。内藤隼人と高根三右衛門は、二人共、城代内藤四郎兵衛の縁者である。四郎兵衛の弟の三右衛門は高根家に養子に入ったが、兄の子である隼人とは、年が離れているにも関わらず、うまが合った。隼人と万次郎の遺体は、ただちに早駕籠で運ばれ、その日の深夜のうちに二本松の内藤家に届けられた。


 この戦いでは東軍は兵数1万と触れ回って大挙して西軍を包囲したが、勝てなかった。

 士気の低さと軍器の粗悪さが原因で、もはや西軍の敵ではなかった。奥州街道口(白河北方口)の軍がまず退き、諸軍もそれに続けて退却した。

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