蝉時雨
六月半ばになったが、奥羽諸藩は未だ白河を取り戻せずにいた。半左衛門は相変わらず毎日登城しており、剛介も演習のため一日中青田ヶ原や仏ヶ原に出かけることが多く、紫久は、日中ため息を殺しながら家で夫や剛介の帰りを待つ日々である。
そんなある日の夕餉の席で、半左衛門は困ったように切り出した。
「手持ちが少々心許なくなってきた」
勘定奉行の職についていながら情けないとも思うが、元々七十石の身分である。藩の中では下位の官僚であり、それほど俸給が多いわけではなかった。剛介たちは木村道場を始め、砲術に専念するようにとのお達しがあったので、半左衛門の書術の講習も、めっきり回数が減った。その分だけ、役料が少なくなって家計が苦しくなってきたのである。
紫久は、そのような夫の苦悩を思いやると、しばし考えた。
「分かりました」
何でもないことのように、さらりと答えた。
「明日、小浜の里を訪ねてきます」
「すまぬ」
半左衛門は小さく頭を下げた。紫久の実家は諏訪神社の禰宜の家柄に系譜を連ねる。その祖は遠く九州からやってきた菊池氏であるといい、藤原の姓にもつながっていた。
「母上、私もお供していいですか?明日は休みの日なのです」
剛介は、母に尋ねた。基本的には毎日道場に通っているが、明日は六の日であった。二本松では、六の日は公休の日と定められている。女の足で二里も歩くのは辛かろう。それに紫久の里は、たまに紫久が顔を出すと何かしら持たせてくれる。その荷物持ちがいた方が良いに違いない。
「良いのですか?」
紫久は微笑んだ。木村道場で鍛えられ、息子は心持ち一回り大人びたような気がする。もっとも、背丈はまだ紫久の背丈を少し越えたくらいではあるが。
「父上」
剛介は半左衛門を見た。
「よろしい。道中、母上をしっかりお守りするのだぞ」
「はい」
半左衛門も微笑んだ。
翌日、暑くならないうちにと、紫久と剛介は朝餉を食べ終えるとすぐに二本松を発った。小浜に向かうのは、久しぶりである。途中、蝉がわんわんと鳴いており、水田には既に青い穂が見え始めていた。時折、大きな蜻蛉がついと鼻先をかすめていく。
一刻ほども歩くと、やがて「小浜の四つ辻」と呼ばれる通りに、白壁が見えてきた。ここまで来ると、紫久の本家の神社は間もなくである。
辻を曲がってしばらく行くと、見覚えのある社が見えてきた。
「ごめんくださいまし」
実家だというのに、ほとほとと紫久は杉戸を叩いた。
「紫久ではないか」
中から聞き覚えのある声が聞こえ、伯父がぬっと顔を出した。
「剛介も一緒なのか」
「お久しぶりでございます、兄様」
「よう参られた。まずは上がられよ」
社務所を兼ねた自宅の玄関に通され、紫久と剛介は草履を脱いだ。上がり框に用意された盥に足を入れると、ひんやりと水が肌に染みていくようである。差し出された手ぬぐいで足を拭い、居間に座り、佇まいを直す。
「剛介。母は伯父上と話があります。まずはお祖父様に挨拶していらっしゃい」
少し厳しい顔で、紫久は剛介に命じた。武士の妻たるもの、子供の前で金策の話はしたくなかったのだろう。
剛介は言われるままに、隠居部屋の祖父の方へ歩いていった。
「おお、剛介か」
薄暗い室の奥から、祖父の声が聞こえた。手招きされるままに、剛介は祖父に近寄った。
実は、剛介はこの祖父が少々苦手だった。父も厳しい人だが、身分の別け隔てなく接するので、どこか親しみやすさがある。一方、紫久の父は厳格そのもので、神官という職も相まってか、何となく近寄りがたい雰囲気を醸していた。
「最近はどうだ」
祖父は厳しい顔を崩さぬまま、剛介に訊ねた。何と答えていいか困ったが、剛介はありのままに答えることにした。
藩の命令で、最近は砲術を習い、白河の軍勢のための弾を一日三〇〇発も作っていると説明すると、祖父はほう、と感心したような声を漏らした。
「それだけではありません。銃も撃てるようになりました」
「火縄か」
祖父はフンと鼻を鳴らした。どこかで、鉄砲は足軽など身分の低い者や農民が使う道具だと小馬鹿にしているのだろう。銃太郎先生が大好きな剛介は、居心地が悪くなりもぞもぞと体を揺すった。
「だが、お国のためだからな。仕方あるまい」
どうやら、祖父は感情としてはあまり鉄砲を好ましく思っていないようである。だが現実問題として銃の必要性は、渋々ながら認めているようだった。神社は人が集まるところでもある。きっと、商人などから白河の城がなかなか取り戻せていないことも、祖父の耳に入っているのかもしれない。
「剣はどうなっている」
「それも、きちんと稽古を続けています。ですが最近は砲術が面白いです」
「なるほどな」
そして、ふと思いついたように腰を上げた。
「おいで。どの程度剣の腕が上達したか見てやろう」
え?と剛介は耳を疑った。禰宜である祖父が剣を嗜んでいるとは思わなかったのである。
祖父は隣の部屋から木刀を二振り持ってくると、一本を剛介に手渡し、境内に誘った。
「どこからでもかかってこい」
剛介は腰を落とし、祖父の隙を狙い定めた。じりじりと焼け付くような日差しの下、祖父も構えを崩さない。
「やあっ!」
思い切って一歩足を踏み込み、刺突の姿勢を取った。だが、剛介の刺突を祖父は軽々といなして、自らの剣で剛介の手に握られていた木刀を一撃で叩き落とした。完全に剛介は一本取られた。
もう一本。
再度撃ちかかっていったが、剛介はついに祖父から一本も取ることができなかった。
「……参りました。お祖父様はお強いのですね」
再び、二人は祖父の部屋に戻って向かい合った。
「そうだな。若い頃は荒くれ者を叩きのめしたこともあったな」
相変わらず表情を崩さない祖父だったが、剣を交えたことで、剛介はこの謹厳居士の権化のような祖父に、ほんの少し親しみを覚えた。
「それはそうと、剛介。お前の刀はもう作ってもらったのか?」
剛介は、悲しげに首を振った。それもそのはずで、財政的な問題もあるが、そもそも藩の子弟は番入りを果たす頃に刀を打ってもらうのが習わしだった。十四歳の剛介では、まだまだ太刀を持たせてもらえず、稽古用の剣を握るのがせいぜいだったのである。
「それはいかぬな。万が一、城下に賊が侵入した場合、父上はその場におらぬかもしれぬ。お前が母者を守れ」
「はい!」
だが、力強い言葉とは裏腹に、祖父の心中は複雑だった。
剛介たちまで弾作りに駆り出されているというのは、よほど戦況が悪いのだろう。壮年の者たちは大方前線に出払っている。剛介ら子供たちも、ひょっとすると刀を握る日が近いかもしれない。
無邪気に目を輝かせる剛介を、祖父は黙って見つめていた。
***
二本松までの帰路の途中、紫久は黙って剛介と並んで歩いた。思いがけず色々なものを持たせてもらった小浜の里には感謝の念しかなかった。だが、長男の達は須賀川に行ったきりで、なかなか戻ってくる気配がない。夫の半左衛門も、ほぼ毎日朝早くから登城し、近頃は軍議にも呼ばれることがあるとの話を、剛介が寝静まってから聞かされていた。丹波様が主力部隊を連れて行ってしまったから、残された人材が少ないのだろう、と紫久は考えていた。
「母上。どうされたのですか」
伯父はやや渋ったものの、いくばくかの金子を持たせてくれたらしい。それだけでなく、味噌や野菜も持たせてくれた。にも関わらず、沈鬱な面持ちで俯きながら道を歩く母が、剛介は気になった。
「剛介。お前は本当に戰場に立ちたいと思いますか?」
紫久はぽつりと、剛介に訊ねた。
「いいえ、母上」
思いがけない息子の返答だった。
「その是非を問うべきではありません。殿が行けと命じたら、何処へでも行くだけです」
そう言うと、剛介はきっと前を見据えた。
逞しさを増しつつある息子の姿に、紫久はそっと目尻を拭った。
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