奥羽の絆 (1)

 三月に入って間もなく、総督府は京都を発った。いよいよ、薩長は会津討伐に向けて動き出したのである。

 二本松藩でも、長国に代わり五郎君を上洛させて、勤王の意を示そうという動きがあった。既に朝廷から「早く長国公を上洛させよ」との督促が来ており、京にいた江口三郎右衛門は、参与局に次のような上奏文を差し出している。

「気候も良くなってきたので、主である左京大夫(長国公)は上洛を望んでいます。だが、主は生来病弱であり、長い道中に耐えられません。左京大夫は女子しかおらず、縁戚を頼って一柳家当主の弟君の五郎君を養子に迎えられました。この春、五郎君は左京大夫と一緒に江戸より二本松に帰ってきましたが、五郎君はまだ帝にご挨拶しておりません。そのため、五郎君を京都に上洛させて、ご挨拶を賜りたく願う次第であります」

 上洛するということは、錦旗を掲げて会津討伐に加わるということである。それを言い出したのは、家老の一人である丹羽和左衛門だった。和左衛門は軍事奉行かつ五郎君の傅役であった。

 ところが、二本松藩の上洛が認められず、江戸の品川で足止めされた。「奥州は不良の輩が多いと言う。そんな者らの上洛など認められない」というのが、新政府側の言い分だった。結局、この五郎君の上洛計画は実現しなかった。上洛する際には五郎君に警固の兵を付けねばならず、その人員が割けるかという問題も、上洛障壁の一つだった。

 だが、江口の上奏からも分かるように、そもそも二本松藩は、錦旗に弓を引く意志は全くなかった。

 二本松と同様に、仙台や米沢でも勤王派の中には、錦旗に従うべしという意見もあったようである。だが、奥羽の諸藩は概ね反薩長の空気が強いというのが、各地に探索に出していた者らが集めた情報の結論であった。

 近隣諸藩である相馬、棚倉、守山も反薩長の空気が強いという。

 三月九日には、山岡鉄太郎が駿府で西郷隆盛と面会し、徳川慶喜の恭順の意を伝えた。そして江戸城は血を流すことなく薩長に明け渡された。

 ここで江戸城も薩長の手に渡ったことから、西軍はますます「官軍」として勢いづいていく。

 同日、二本松藩からは日野源太左衛門、服部久左衛門、和田右文、飯田唱を仙台に派遣した。総督一行が奥州に来るとの情報を得たので、朝廷の意向を確かめるのが、その目的である。

 

 三月二十日。奥羽鎮撫総督府の九条道孝一行一五〇〇人余りは、仙台領の松島湾寒風沢さぶさわに投錨し、奥州の地を踏みしめた。既に仙台に到着していた日野らは松島に赴き、諸卿の安否を問うた。

 二十五日には総督一行は仙台に入り、仙台藩校の養賢堂ようけんどうを本営と定め、そこで、仙台藩に会津討伐を命じた。この日をもって、仙台には会津討伐令が下されたことになる。同時に、庄内藩追討命令も隣藩諸侯に下した。

 庄内藩追討の名目は、先の慶応三年十二月二十五日に起こった、庄内藩による江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件を受けてのことである。もっとも、これは幕命を奉じてのことであるから、罪と言えるかどうかは、いささか疑わしいところであった。

 この下令に、仙台にいた日野らも総督府から呼び出しを受け、一行の間に緊張が走った。会津と国境を接する二本松も、巻き込まれる。

 日野等の懸念通り、世良は総督府名義の書状を出した。二本松も仙台を応援せよとの命令書である。


 丹羽左京大夫


 今般会津征討ニ付其方儀応援之手当精々可仕置、且鎮撫使ヒ其藩通行之節ハ城内可為本陣旨、御沙汰候事


三月二十五日  奥羽鎮撫総督府


 会津を征討するに当り、応援を申しつける。鎮撫使が二本松藩領を通行する際には、霞ヶ城を本陣とする。そのような内容だった。

「すぐに国元へ戻り、藩の意向を確かめよ」

 書状を一瞥するなり、日野は、飯田唱を二本松へ出立させた。飯田も緊張の色を隠せなかったが、戌の刻(午後八時)であるにも関わらず、早駕籠で二本松へ向かい、翌日の夜に二本松に到着した。

 城に詰めていた丹羽一学と丹羽新十郎は、飯田がもたらした総督府の書状を一瞥した。

「会津を討てと……」

 丹波も、動揺が隠せない。

「あまりにも理不尽な」

 一学の額には、青筋が立っていた。仙台が会津討伐の尖兵とされたのは、奥州随一の大藩だからだろう。だが、仙台がどのように出るか。仙台藩の首脳陣は、三好清房(監物)、真田喜平太に代表される恭順派と、坂英力、但木土佐らに代表される佐幕派が対立していた。だが、今のところは、どうやら恭順派が優勢のようである。

「一学、新十郎。まずは米沢の意向を探ってほしい」

 丹波は二人に、米沢へ向かうように指示した。拝命した一学と新十郎は、二十八日、二本松を出立。米沢へ向かう途中、崎田伝右衛門と遭遇した。

 聞くところによると、仙台で諸藩の老臣が集まり会議が開かれるという。この知らせを聞き、崎田を加えた三人は、馬を仙台へ向けた。

 四月四日、仙台からは坂英力・真田喜平太が、二本松からは丹羽新十郎、米沢からは大瀧新蔵、佐藤大八らが仙台に集い、話し合いが行われた。

 この会談において、新十郎は仙台藩で行われた薩長の乱暴ぶりを耳にした。

 例えば、三月二十六日に、仙台榴ヶ岡において、副総督の澤、参謀の醍醐、下参謀の世良を招いて開かれた花見の酒宴の席でのこと。世良は、その席で次のような歌を謡った。


  陸奥みちのくに桜かりして思ふかな

  花ちらぬ間にいくさせばやと


 暗に、仙台藩に対して「桜の花が散らないうちに、さっさと会津を討伐せよ」との意にも取れる歌である。

 同日、やはり下参謀の大山格之助は、東名浜で公然と分捕りを行った。江戸商売の船に搭載していた貨物を処分するため、会計方を従えて桃生郡東名浜へ出張したところ、その処分方法は極めて乱暴であったと伝えられている。

 英力からその言葉を聞いた新十郎は、眉をひそめた。仙台は伊達政宗公を祖とする大藩である。その足元において、仙台藩に対し公然と侮辱したも同然だった。

 粗暴な振舞は、世良や大山だけではない。その部下の薩長の兵士らも、街衢を横行し、酒をかぶって士人を凌辱。または、隊を組んで市井しせいに乱暴する。王師おうしであるという理由で、仙台藩の有司もこれを咎められない。あるいは、良家の婦女を捕らえて、身の回りの世話をさせ、辱めを与える。

「それを誇りとする者さえいるらしい」

 英力は、憤然やるかたなしという態度であった。先のような無礼を働く位であるから、世良も大山も部下を諫めることはしないのだ。

「奥州武士の面目というものがござろう。参謀の輩の陵虐に対し、黙って従うおつもりか」

 聞いている一学、新十郎ですら、腹立たしい。

「そもそも、庄内藩追討のごときは、理由が甚だ曖昧であろう。会津公の誠忠も、天下公知の事実であろうに」

「いっそ、養賢堂にいる薩長のやからを虐殺したらいかがかな」

 新十郎の言葉は、冗談にせよ、過激だ。一学は、思わず苦笑を浮かべかけ、慌てて口元を引き締めた。

 だが、英力らは頭を振った。

「もし総督府に対して、反抗がましい挙動があれば、藩の将来はどうなるか」

「結局は、薩長二藩が私怨を果たそうとしているのでありましょう?」

 新十郎は、一学の様子を窺った。一学も、目には怒りの色を浮かべている。だが、仙台側はあくまでも慎重であった。

「薩長二藩の尻馬に乗って何の怨みもない会津と戦い、二つとない命を失うことは実に馬鹿の骨頂と言うべきであろう。然れども、総督府と諍い重譴を蒙る如きは、智者の為すべきことではない」

 真田喜平太の意図は読めない。強いて言えば、会津攻撃に対する消極派か。

「とかく、世の中は事なきに限る。表面はあくまで総督府の命令を遵奉するが如く見せかけ、その中に何とか良き工夫を案出しようではないか」

 英力も、あくまでも慎重な態度を崩さなかった。

 結局この日、三藩の代表者による話し合いは、「仙台に対する会津征討及び、その応援を旨とする米沢・二本松への朝旨は、もとより道理に従べきと言えども、会津に対する討伐は上策ではない。いたずらに干戈かんかを動かして百姓を苦しめるよりは、隣藩の交誼を以て会津藩を説得し、謝罪恭順させようではないか。会津藩が謝罪の実効を挙げれば、朝廷もまた深くその罪を問わないだろう」という結論に落ち着いた。

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