連なる二人の物語

斗話

連なる二人の物語


「最高だ……」

 宮本優は、夢中で文章を読んでいた。

 勉強が特段できるわけでも、何か特技があるわけでもなく、あまつさえ身長と体重も平均値。そんな普通の中学三年生の日常に彩を与えてくれているのが、放課後の読書だった。

 優の手に握られている冊子には『桜中学校 短編小説集 九月号』と、綺麗な文字で書かれている。桜ノベルの愛称で、月に一度発刊される生徒たちによる短編集だ。

「優くん、閉館の時間だよ」

 いつの間にか司書さんが優の傍に立っている。胸のあたりまで伸びた艶やかな黒髪と、春の日差しのような柔らかい笑顔。先生、というより、綺麗なお姉さんという印象が強い。

 周りを見ると、他の生徒は皆帰宅していた。

「ご、ごめんなさい、すぐ帰ります」

 いささかサイズの大きい眼鏡と長い前髪を直しながら、優は席を立った。

「何か面白い作品はあった?」

 司書さんが桜ノベルに目を向けている。

「やっぱり柏田くんの『魔王シリーズ』が最高でした! 悪者なのにどこか憎めない魔王と、その配下たちの会話が本当に面白くて……! しかもそれを一ヶ月に一回更新し続けてるのも本当にすご……くて」

 しまった。つい夢中になってしまった。途端に饒舌になった優に、司書さんは優しく微笑んだ。優は今にも火が出そうなほど熱くなった頬を隠すように、歩き出す。

「これ、優くんの?」

 振り返ると、司書さんが一冊のノートをパラパラとめくっている。

「わぁぁぁぁぁ!」

 優は急いで司書さんからノートをひったくった。ひっそりと書き溜めていた小説が書かれたノートである。

 ――中身を見られた? 

 だとしたら恥ずかしくて死んでしまう。あぁ神様、どうか……。

「優くんも投稿してみれば?」

 祈りは通じなかったようだった。

「いや、僕は大丈夫です。柏田くんみたいに書けないし……投票も……」

「投票なんて気にしなくていいのよ。あれはただ書いてくれた子のモチベーションを上げるためにやってるだけ」

 桜ノベルには投票制度が設けられている。何か奨励があるわけではないが、生徒は気に入った作品に投票することができた。無論、柏田くんの『魔王シリーズ』は不動の一位だ。

「先生、読んでみたいな」

 容易にも、優の心はその一言で揺らいでしまった。自分の書いた物語を誰かに読んで欲しいという、深くに刻まれた気持ちは、いくら消しゴムで消しても消えないものである。

「考えてみます」

 その日の帰り道、切らしていた墨汁を買うために寄った文房具屋で原稿用紙を買った。



 時計の秒針の音が、虚しく部屋に響いている。帰宅して早々に広げた原稿用紙を睨みつづけて、既に一時間半が経過していた。一枚の原稿用紙を埋めることもできずに、くしゃくしゃに丸められた紙と、アイデアノートに斜線が増えていく。

 何だか優は不甲斐ない気持ちになり、視界がぼんやりと滲んでいった。暗黒の海に放り出された船のように、文章を書けば書くほどに現在地が分からなくなる。

 結局、その日に優が生み出したのは、ゴミ箱いっぱいの丸い紙屑だけだった。



 暗黒の海に光が刺したのは、数日経った日の放課後、図書館を出ようとした時だった。

「次の原稿、これでお願いしまーす」

 司書さんに原稿の束を渡している柏田くんがそこにいた。

桜ノベルの頂点に君臨し続ける『魔王シリーズ』の作者。優にとっての神様。

神が、いま、眼の前にいる。

 短髪に力強い双眸、身長も優より十センチ以上大きい。オーラが違う。

 そそくさと帰ろうとする優に気がつき、司書さんが手をあげる。

「優くんの原稿も待ってるよ」

 司書さんの言葉で柏田くんが振り向き、目が合った。心臓が背中から突き出そうになる。

 何でこのタイミングで、と思ったが、日に日に原稿へ向かう時間が減っていた優にとって、その一言は助け舟になった。

「あ、あの、柏田先生」

 勇気を出して柏田くんに近づくと、司書さんは微笑みながら司書室へと戻っていく。

「先生だなんてやめてよ。どうしたの?」

「文章がなかなか書けなくて……その、何かコツとかがあれば教えてください!」

 勢いよく頭を下げる優に驚きながらも、柏田くんは「いいよ」と優しく笑った。

「って言っても、俺も感覚で書いてるからよく分かんないんだよね」

「そうなん、ですか……」

「とりあえず途中でやめないで、最後まで書いてみるのがいいんじゃない? それで、下手くそでもとりあえず出してみる。誰にも読まれない小説なんて、存在し無いのと同じだし。まぁ後は自分のこと書いてみるとか? 俺はできないけど」

最後に「楽しみにしてるよ」と言い、柏田くんは図書館を出て行った。

 ――楽しみにしてるよ。

 柏田くんの言葉の一つ一つが、優の身体に流れる血をたぎらせた。早く、原稿に向かいたい。優は急ぎ足で図書館を後にした。



 一ヶ月後、優の手には『桜中学校 短編小説集 十月号』が握られていた。今までのそれとは違う重みを感じる。何せ、自分の作品が載っているのである。

優は呼吸を整え、図書室へと足を踏み入れた。今日は投票結果が張り出される日だった。

 投票結果はひっそりと貸出カウンターの横に張り出されている。

「こんなこと……」

 優は投票結果用紙を何度も見返した。何度見ても、書いてある事実は変わらなかった。


一位『魔王、旅立つ!』柏田裕樹 五十八票

二位『慟哭』宮本優 四十二票


 優の作品が二位の座に君臨していたのである。今までに感じたことのない躍動を、心臓のもっと奥の方で感じた。

「宮本?」

声のする方へ振り向くと、そこに立っていったのは柏田くんだった。

「あ、わ、柏田……先生」

「だから先生だなんてやめてよ、それよりすごいね、二位じゃん」

 優しく微笑む柏田であったが。その微笑みに、優は言いようのない恐さを感じた。

「全然! たまたまだよ! 本当に!」

「見せてよ」

「え?」

「次の作品、もう書いてるんでしょ? 俺がアドバイスしてあげるよ」

「いいの!!」

 長い前髪の奥で、優の目が輝いた。憧れの柏田くんに見てもらえる。それに、アドバイスまでもらえるなんて夢のようだった。

「もちろん。今ある?」

「あ、あります!」

 鞄から原稿を取り出す。『慟哭』を書きながら、既に優はもう一つの作品をほぼ書き切っていた。根暗な主人公が、学校生活を謳歌する同級生に嫉妬し、暴走する話である。主人公のモデルは自分自身。そして、主人公が嫉妬する同級生は、柏田くんがモデルだった。

「見てもらえるの嬉しいんですけど、ちょっと暗いというか、何というか……」

「いいよ何でも」

 柏田くんが原稿を奪い取る。

 そして、さも当然のようにそれを破いた。

 優は突然の出来事に声を失う。

「お前の作品、キモいよ」

 柏田くんは真っ二つになった原稿を、さらに破いた。四分の一サイズになった原稿を優に押し付けると、柏田くんが微笑む。

「どうせやめるんだから、他のことに時間使いなよ。勉強とかさ」

 柏田くんは吐き捨てるように言うと、図書室を出ていった。

 優が覚えた感情は、悲しみとも怒りとも形容できなかった。心臓が見えない手でぎゅっと握られたように痛む。

 そのまま暫く、優は小さくなった原稿を抱えて呆然と立っていた。

「優くん?」

 司書さんの声でハッと我に帰る。

「『慟哭』、読んだよ。中学生とは思えない詩的な文で……先生感動しちゃった」

「あ、ありがとうございます……」

「何それ」

「……これは……ゴミです」

「でもそれ、原稿」

「さようなら!」

 遮るように言い、図書室を後にする。出口付近に設置されたゴミ箱にそれを捨てた時、目頭に何かが込み上げてきた。優はぎゅっと目をつぶり、足を進めた。



 桜ノベル、いや、『魔王シリーズ』は、凡庸な生活を照らす光だった。あの文章に何度心が躍り、救われたことか。

僕もいつか、誰かの希望になる文章を書きたい。柏田くんのようになりたい。そう思ってしまったのが間違いだったんだ。

 ――お前の作品、キモいよ。

 こんなにも苦しい思いをするなら、いっそただの読者に戻りたい。全て塗りつぶして、やり直したい。

 気づけば優は、墨汁を持って柏田くんのロッカーへ向かっていた。墨汁を持つ右手が微かに震えている。ダメなことだと分かっていても、優は止まることができなかった。正直、自分は今悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、優には分からなかった。ただどうしようもなく体の内側から溢れ出る黒い何かを、柏田くんにぶつけなければいけないと思った。

 ――教科書もノートも真っ黒に塗り潰してやる。

 ロッカーを開けると、そこには大量のノートが積まれていた。そして、どのノートも既に文章で真っ黒だった。ふと一番最初のノートが気になり、それを取り出す。水色だったであろう表紙をめくると、他のノート同様にびっしりと文章が書かれている。が、そのほとんどに赤いペンで斜線が引かれていた。中にはページごと破ったのであろう箇所もいくつか見受けられた。優の原稿を破いた柏田くんの姿がフラッシュバックする。

「優くん?」

 夢中になっていて人の気配に気づかなかった。慌ててノートと墨汁を隠して振り返ると、そこに立っていたのは司書さんだった。

「こ、これは、その……」

「いいよ、何も言わなくて。柏田くんにひどいことされたんでしょ」

 優は黙ったまま、ゆっくりうなずいた。

 司書さんは「やっぱり」と言うと、遠い過去でも思い出すかのように、窓の外の夕日を眺めた。

「柏田くんは一年生の時からずっと、桜ノベルに投稿してたの。でも誰にも投票されなくて、三年生になってやっと認められるようになったのよ」

「一年生の時から……」

 休まず書き続けていたのか。

「優くんが現れて、しかもあっという間に二位まで登りつめて、本当に悔しかったんだと思うよ。だから、少しだけ彼を許してあげて」

 司書さんはいつもの笑顔を浮かべながら、紙の束を差し出した。

「せっかく書いたんだから、投稿してみなよ」

 それは、柏田くんに破かれた原稿だった。裏から丁寧にテープで止められ、元のサイズに戻っていた。

「……ありがとうございます」

 紙の束を受け取ると、優は静かに涙を流した。涙が止まるまでの数分、司書さんはただ優しく頭を撫でてくれた。手のひらの温もりと夕日の橙色が、優しく優を包み込んだ。



 それから一ヶ月、振り返れば一瞬だった。

 柏田くんに原稿を破かれた日、優はテープで止められた原稿を新しい用紙に写し始めた。一度書いた作品と改めて向き合うと、文章の拙さにため息が出る。けれど、一度書いたからこそ、表現すべき主人公の感情や、逆に不必要な描写が浮き彫りになっていく。結末という灯台の光を捉えた船は、もう迷わない。

 友人に恵まれ、部活動に汗を流す。そんな煌びやかな学校生活を送る同級生に嫉妬し、その感情をナイフを握ることで発散する主人公の話。結末は、

 ――同級生のピンチを、ナイフで主人公が救い、かけがえのない友人になる。

 というものに書き換えた。当初は、同級生を刺してどこまでも逃げていく、というオチだったが、それではあまりに報われない。それでは主人公が、僕が、同級生が、柏田くんが、報われない。「二人は拳を合わせた」という一文で締めくくった文章に願いを込め、締切時間ギリギリで小説を提出した。


 ゆっくりとした足取りで図書室へ入る。今日は、『桜中学校 短編小説集小説集 十一月号』の投票結果が出る日である。

 貸出カウンターには司書さんが立っていた。

「こんにちは」

 優が声をかけると、司書さんは無言で手招きをした。

「すごいじゃん」

 投票結果のことだと、すぐに分かった。優は足を進める。


一位『さらば、魔王』柏田裕樹 五十票

一位『群青』宮本優 五十票


 投票結果の用紙には、そう記されていた。

 ――同率一位。

嬉しさよりも先に、文字で黒く埋め尽くされた柏田くんのノートが頭に浮かぶ。柏田くんは今どんな気持ちでいるのだろうか。僕は今どんな気持ちになるのが正しいのだろうか。

「そこに柏田くんがいるよ」

 司書さんはカウンター裏の司書室を指差した。一気に鼓動が速くなり、呼吸も浅くなる。

「お話ししてきな。私に話してくれたみたいにさ」

 踏み出せずにいる優の背中を、優しく司書さんが押した。



司書室に入ると、柏田くんが机に突っ伏していた。

 優の気配に気づき、顔を上げた柏田くんの目は、真っ赤に腫れていた。

「何だよ」

 ――お前の作品、キモいよ。

 ――本当に悔しかったんだと思うよ。だから、少しだけ許してあげて。

 柏田くんや司書さんの言葉が頭で反芻する。怒りや悲しみ、色々な感情が込み上げるが、心から言いたいことは一つだった。

「……『さらば、魔王』、本当に面白かった! 今までは出来事中心だったけど、今回の作品は、なんていうか、魔王の心情が深堀りされてて……感動しました!」

「何だよそれ」

 絞るように吐き出した後、柏田くんの目からは溢れるように涙がこぼれ落ちていった。

「何で褒めるんだよ。心理描写はお前の作品を、参考に……お前にお手本を見せてやるために足しただけだから」

 泣きじゃくりながら柏田くんが呟く。優の目頭も、段々と熱を帯び始めた。

「やっぱり……柏田先生は僕の憧れだ」

 ついには優の目からも涙がこぼれ落ちた。二人分の嗚咽が司書室に響く。

 暫くして口を開いたのは、柏田くんの方だった。

「……お前の作品、キモいんだよ。何であんな文章書けるんだよ。『慟哭』も、『群青』も、ほんと、頭どうなってるんだよ。あんなのがいきなり書けるなんて、天才だよ……」

 最後の一言を取り消すかのように、再び机に突っ伏す。

「天才なんかじゃないよ、僕も一年生の時からずっと文章書いてた……ペースは遅いけど」

 柏田くんが勢いよく顔を上げた。

「……まじで」

「まじで」

 気づけば二人とも泣き止んでいた。優は何だかむず痒い気持ちになり、小さく笑った。釣られて柏田くんも小さく笑う。

「でも柏田くんみたいに面白いストーリー考えられないし」

「俺だって、宮本みたいな心理描写は書けない」

「じゃあさ」

 それは司書さんの声だった。いつの間にか司書室の入口に立っている。

「二人で書いてみれば?」

 優と柏田は、ゆっくりと目を合わせた。

 


 図書室の貸出カウンターの前に、優と柏田は立っていた。

「勝った方がジュース奢りな」

「いいよ」

 司書さんが二人の前に紙を差し出す。紙の上部には『桜中学校 短編小説集 十二月号 投票結果』と書かれている。肝心の投票結果の部分は、別の用紙で隠されていた。

 ゆっくりと、司書さんが紙をずらしていく。


二位『虚空』宮本優 十五票


「はい、俺の勝ち!」

「あれ、でも二位?」

 司書さんが悪戯っぽく微笑みながら、さらに紙をずらす。


二位『魔王、再生!』柏田裕樹 十五票


「同点かよ!」

「奢りはなしだね。そもそも比べるものでもないし」

「まぁ、そっか。それより一位は……」

 二人が投票結果に視線を戻すと、ゆっくりと紙が持ち上げられた。


一位『二人の勇者』柏田裕樹・宮本優 七十八票


「すごい! 前より十二票増えてる!」

「別に嬉しくない」

「本当は?」

「めっちゃ嬉しい」

 優と柏田は拳を合わせた。

「次は何書く?」

「冬休み全部使ってさ、長編、書いてみようよ。そんで公募に出して、二人で小説家デビューしよう!」

 二人で小説家デビュー。その響きに、優の心は高鳴った。

「最高だ」

 もう一度、二人は拳を合わせた。

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