かすみそう

ラビットリップ

第1話  水子供養

「あなたのパパ、結婚するんやって。どんな女の人か知らんけどね、二週間前にブログに書いてあったわ。たまたま大学時代のね、サークルの後輩から電話があって私は知ったんだけどさ、ほんとかね、と思ってさ、ブログでも確認したんだわ。本当に、結婚します、って書いてあった。驚いたね。自分でさ、結婚不適合者だ、結婚というシステムには自分は合わないと、さんざんぶつくさ言っていた人だよ。あたしとの付き合いの七年半の間で、何度か結婚の話も出たんだけど、その都度、跡形もなく、きれいにもみ消した人だった。どんな女性なんだろうね、あなたのパパの気持ちを変えた人ってねぇ。」

 楓は伏せた目で辛そうに微笑む、お地蔵さんに丁寧に水をかけながら話を続けた。

 東京・赤坂にある霊山観音赤坂別院は、都内唯一の水子供養専門寺院として、都会の喧騒と適度な距離を保ちながら、ひっそりと首都高速脇に建っている。

楓は毎年十一月七日になると、この場所を訪れている。

「今回で三回目やね、あなたに会いに来たの。もう、優也と別れて三年も経つんやね。あっという間やったねぇ。」

 楓は柄杓を静かに置くと、横に置いてあった花束を手に取り、地蔵前にそっと生ける。ここに来る時は必ず、近くのANAインターコンチネンタルホテル一階にある、日比谷花壇で花束を作ってもらう。一年に一度しか訪れない客なのに、この店の店員は楓が〝かすみそうが好きな客だ”ということをしっかりと把握しており、さりげなく毎回添えてくれる。このような姿をプロというのかもしれない、と最近思う。

         

楓と優也が交際していたのは、今から三年ほど前。二人は大学のサークルで知り合った。優也は一年浪人をしての入学だったから、楓より一歳年上ではあったが、サークルだけでなく、学部も学科も同じであったためか、二人はすぐに意気投合した。

二人とも社会人になってからも交際は続いた。社会人二年生の頃には、楓の方から、それとなく将来の話を切り出し始めてはいた。しかし優也の方は、仕事と趣味に夢中で結婚とは違う方向を見つめていた。ただ楓と別れる気持ちもなく、楓の方も優也と別れて他を探すのが面倒になっていた頃だったから、しつこく急かすこともしなかった。

お互いの将来に対する心は一つに混ざることもなく平行線のまま、大学時代からカウントして交際七年半を迎えた。

         

それは秋、紅葉前の一色足りない季節のことであった。四月から都立樋川中学校で社会教師として勤めていた楓は、突然九月末で非常勤講師契約が切れる事態に見舞われた。当初は、病休代替で一年契約という話ではあったが、夏休み明けに楓は校長室に呼ばれ、休んでいた先生の体調が回復し、現場復帰できることになったから、九月二七日で打ち切りにと一方的に告げられたのだった。

「森川先生が一生懸命頑張ってくれていたのは見ていてよく分かっています。ただ櫻井先生が復帰してくるって言うもんだからねぇ。非常勤のあなたの契約を打ち切りにするしかないんですよ。本当に申し訳ない。九月二七日金曜日の全校集会で、生徒に向けて挨拶をして下さいね。」

辰野校長は淡々と事務的に用件を伝え、視線を机上に戻した。辰野は講師を切る作業に慣熟した人だったようだ。器用に有無も言わせぬ空気を作った彼を前にして、楓は会釈をして、席を立つしかなかった。

「あぁ、森川さん。」

「はい。」

辰野は重い体を引きずるように出口に向かって歩く楓の背中に、思い出したように声をかけた。

「森川さんね、今年の東京都の教員採用試験、残念だったねぇ。まぁ森川さんの教科の社会科がさ、倍率八.六倍だからさ、落ちても仕方ないんだけどさ。今年一九一五人受けて、二七二人合格したわけじゃない。森川さんさ、惜しかったんだよ。この間、教育委員会で校長会があった時、聞いたんだけどさ、森川さん二七五番目の合格者だったんだよ。大丈夫、来年は絶対合格するよ。今から準備しておけば確実だからさ。十月からは塾でバイトでもしながら来年度に向けて勉強していなよ。」

 校長ってさ、教員採用試験において、自身の学校に勤務している講師が何番目の成績だったのかということを、採用試験後に校長会で聞くんだよ、と耳打ちしてくれたのは昨年勤務していた中学校の理科の先生だったか。その時は胡散臭い情報だなと捉えていたが、あの先輩教諭が教えてくれたことは事実だったんだな。楓が胡散臭いと感じていたのは情報よりも、あの理科教師の存在そのものだったのかもしれない。楓は吹き出してしまいたくなる衝動を気合で抑え、振り返って口元だけ笑った。

「来年、また頑張ります。」

「応援しているよ。」

辰野の声には返事をせず、頭だけ下げ、静かに校長室を後にした。

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