黒き鏡の玉兎。

頭野 融

黒き鏡の玉兎。

 月の欠片を拾った夜を僕は思い出していた。いや、もう十年前のことだし今考えれば馬鹿馬鹿しいことだと思う。月の欠片なんて落ちてるわけないのに。それでも、僕はあのとき、夕立に追われて走った河原に光っていた黒い石を、柄にもなく月の欠片だと思ったんだ。小4のときから僕は醒めていたと親は言った。友達がサッカー選手になるとか、パティシエになるとか言っていたころ、「会社員になる」と言っていたらしいし、枕元にこっそりプレゼントを置きに来た両親に気づいてしまったときも「サンタはいないって分かってるから大丈夫」と弟に聞こえないように小声で言ったらしい。



 河原のグラウンドになっている部分でライトに照らされながら、小学生が野球をしている。レフトー、ライトーという掛け声が聞こえるから練習なのだろう。父親といっしょに補助輪なしの練習をしている少し年下の女の子とすれ違う。少年は本を読みながら歩く。青丸のシールは図書室の【小説】の印。放課後の塾も早く終わり遠回りをしていた。少年は雨の匂いを感じ取ったが、ちょうど章の区切りまであと1ページ。目は必死に文字を追っていて彼の後ろから近づいて来た黒い雲には気づいていなかった。


ザ、

ザ、

ザー。


 あ、雨。冷たいと思う前に本に灰色の染みができた。なんか大粒だしヤバいかも。咄嗟に本を閉じて抱える。身体を曲げて背中で本を守る。正確に言えば濡れるのはランドセルだけど。もう、これは走るしかない。ひたすら走るしかない。走っても走っても雨は降ってる。雨雲が後ろから追ってきてるんじゃないかと思ったけど、後ろを振り向く暇は無かった。なんか、雨が追ってくるみたいなの国語で習ったかも。

 はあ、はあ。そろそろ疲れた。でも、もうちょっとで高架下。あそこで一旦、雨宿りができるはず。あと百メートルくらい。がんばろう――。


キラ


 ん。なんか今、光った。ガラス瓶か何かだろう。そんなものに構っている暇はない、と僕の頭は言っていたけれど、僕の足は走るのをやめていて手は草をかき分けていた。僕の手を雨粒がびっしょりと濡らしたとき手先が水ではない冷たさを感じた。静かな冷たさ。元気な幼稚園児がお昼寝をしている「静か」じゃない。朝5時に起きて白湯を飲んで老人が一日を始めるような「静か」。手触りはつるつるしていて、光を反射するのも納得という感じだった。僕はその石を握りしめたまま高架下に駆け込んで、本の表紙と裏表紙をハンカチで拭いてランドセルにしまった。手に残ったのは黒い石だけで、空模様を確認するために見上げると月が白く光っていた。月は黄色いものだと思っていたから驚いた。そのあともう一度、手の中の石を見ると、澄んだ白い光を発していた。手を引っ込めると石は黒光りする石に戻った。



 そうだ、あの瞬間、僕はこの石を月の石、いや月の欠片だと思ったんだった。そのあと、興奮気味に弟に月の欠片だよと説明したものの、弟はお月さまはあれだよ、と夜空を指さされて終わった。その様子を見た父親は、お前って意外にロマンチストなんだなと笑っていた気がする。実家の学習机の飾り棚の特等席で、この石はホコリを被っていた。考えてみれば上京したあと実家に帰って来たのはこの夏が初めてで、その間は誰も掃除をしていないわけだ。それなら、と思って僕は机や周りの本棚、壁や床をきれいに掃除することにした。弟は廊下を挟んだ向こう側の部屋で受験勉強でもしているのだろうか。


 掃除の途中で晩ご飯に呼ばれたから、掃除が終わったのは日付の変わる直前だった。ガチャガチャで手に入れたストラップとか修学旅行のお土産の置物とか、そういうものは全部、引き出しにしまい込んだのだけれど、月の石だけはそうする気になれなくて未だ特等席に置いている。


ゴロ、

ゴロゴロゴロ。


 あ、雷。窓から外を見ると気づかなかったけれど、雨も降っているみたい。だけど不思議と月はきれいに見えた。なにかロマンチックなものを僕は感じて、置いたばかりの月の石を手に取って光にかざした。石は、ぱぁあと光った。部屋の電気を消すとその輝きはより顕著になった。角度を変えて白い光を楽しんでいるとポスターを剥がしたばかりの広い壁に兎の模様が浮かび上がった。特徴的な耳と杵を振りかぶったその様子はどう見ても兎だった。そういえば、僕は一度、この形を見たことがある。あの夕立の中、僕の手のひらに小さな兎が現れたんだ。だから、あのとき僕はこれを月の欠片だと思ったんだ。

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黒き鏡の玉兎。 頭野 融 @toru-kashirano

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