14、幻夜会
「モリノサカさん、ゴリラ!」
同僚の声で気がついた侃が慌てて手元を見ると、ニシローランドゴリラの群れが海中であたふたと手足を振り回し溺れているところでした。
またやってしまった。
そう心の中で舌打ちしながら、侃はすぐにホロディスプレイに向き直り、ゴリラをすくいあげます。
間一髪でした。哀れなゴリラたちはびしょ濡れのまま空中で足掻き続けていましたが、無事陸地に戻してやると、まだ混乱しながらもいそいそと茂みのなかに消えていきました。
「大丈夫? さっきはミンククジラが地中掘ってたけど」
「すいません……ぼうっとしてました」
「見てりゃわかるよ……あの、体調悪いなら一旦切り上げたら?」
「大丈夫、です」
「じゃあ……いいけどさあ……」
同僚はそれ以上責めることもなぐさめることもなく、小脇に抱えているエゾタヌキのデザイン修正に戻っていきます。
心の中でちゃんと同僚の分まで自分を責め、ののしってから、侃も作業に戻ります。
これが、ここしばらくの侃の日常でした。
この一週間は侃にとって自分の仕事に初めて感謝をし続ける日々でした。
電脳動物園の飼育員という仕事は、どんなに失敗したとしても取り返しのつかない事態になることはありません。前時代的な生身の動物を扱う動物園であったら、この一週間だけで何匹の命を無残な目に合わせていたか検討もつきませんでした。
侃はただ黙々と、仕事に没頭しようと努めます。
そうすることでしか、一週間前の、あの河原での、おれんじとの、醜態というのもはばかられる醜態を、自らの愚行を、忘れることはできませんでした。
眼前の電脳動物と電脳空間に没頭し、集中し、思考を研ぎすませます。
脳は段々と外界からの情報を遮断していき、頭のなかは動物のことでいっぱいになり、いっぱいになり、他のことは何も考えられないようになり、次第にもう何百回目になるかわからないあの日の河原での出来事とおれんじの表情を思い出し始めます。
もっとマシな別れは無かったんだろうか。
もっと言える言葉は無かったんだろうか。
もっと。
もっとなにか……。
「モリノサカさん、マグロ!」
気が付くと、キハダマグロが木の枝にはさまれびちびちと踊っているのでした。
どうしようもありませんでした。
考えまいとすればするほど、忘れようとすればするほど、あの日の記憶とおれんじの姿はよりはっきりと侃の脳裏に浮かんでくるのです。
その連続でした。
それからほどなくして、ついに侃は、あのルーティンすらも遂行できなくなってしまいました。
侃からその話を聞いた時、私は何度か改めて真偽を確認したほどですが、ともあれ紛れもない真実なのです。
河原の一件から二週間ほどたったある日、侃は役所への問い合わせをしませんでした。
その日の午後も。
その次の日も。
次の日も。
また次の日も。
侃は役所へ自分の前世について問い合わせをしませんでした。
いえ、できませんでした。
そうしようとすると、いよいようずくまってしまいたくなるほどあの日の出来事が色濃く蘇るからです。
それは河原でよぎったいつかの過去よりも、間違った前世よりも、強く鮮明に侃を揺さぶり、煩悶と苦悩の渦へと引き込もうとするのです。
これではもう、まるで……そう、
「おれんじさんのこと、本当に好きなんだね」
侃は思いのほか抵抗せず、力なく頷きます。
後悔と自責の念が渾然一体となって目の前の侃の形をかたどっているようでした。
薄暗いフロアのなか、流れ続ける重低音に合わせて周囲の人混みは踊り続けています。
その中で私と侃だけが切り離された空間にいるかのようにポツンと、椅子に座って向き合ったままです。
ステージからは音楽に合わせて無数のフェアリードローンが放たれ、空中には何人もの“歌姫“ミハエル・深海の姿が映され、見事なハーモニーを奏で始めました。
幻想的の演出の数々。それらにあわせて盛り上がり、うごめく会場。
ライブのコンセプトは『新世界創世』でしたが、侃はそのなかでこの世の終わりのように座って黙りこくったままでした。
「ねー! 襷さーん!」
私が張り上げた声はすぐに何人もの歌姫のユニゾンとハーモニーに掻き消されてしまいましたが、何度目かの呼び掛けでやっと人混みの中から襷さんが顔を出し、独特のリズムの手拍子を空中に放ちました。
途端に音楽は止み、人々の動きが止まります。
襷さんがさらに手を動かすとライブ会場は消え、我が
家のリビングが現れました。
「……ダメだった? 侃さん」
「ごめんね、ありがと」
襷さんが、いやいや、と手を振ったので一瞬ライブが再開しかけましたが、慌ててもう一度手拍子を鳴らすと、それもおさまりました。
もちろん侃は、それにもびくともせず、落ち込んだままです。無言の屍となったまま、うなだれています。
そんな侃の体たらくを見かけて、元気が無いようならいい案があるよと招いた張本人である襷さんは悔しそうに唸ります。
「そっかあ、ダメかあ……。あたしなんかはさあ、ミハエル・深海の“幻夜会“ですぐに元気になるんだけどなー。このライブは二年前の硯原ドームなんだけど、いま観ても一番臨場感あって……」
「襷さん、ありがとね……ちょっと」
はいはいはい、と肩をすくめて、襷さんは空中に浮かんだスピーカーとプロジェクターたちを片付けていきます。
私は改めて侃に向き直り、話します。
「侃、あんたがね、おれんじさんのことをそんなに好きだって思えているなら……もうそれでいいんじゃない?」
「いい? いいってどういう……」
「悩む必要はない、でしょ」
「そう簡単な話じゃないんだよ、盥」
頷きかけたところを、侃は踏みとどまります。
そうして、自分自身の言葉を確かめるように、
「ないよな……ないだろう?」
私はその言葉を否定するべく大きく首を横に振ってみせました。
「簡単な話なんだよ、侃」
今さら侃のなにかを変えられるとは思いませんでしたが、それでもそうするしかありませんでした。
「簡単でいいんだよ。侃はいつも自分で自分を難しくしすぎてる」
「僕は……盥とは違うから、そんな風には考えられない」
「じゃあ、じゃあさ、侃自身の気持ちってどうなの? 好きなんでしょ? 役所に前世を問い合わせることより大事な何かが見つかったんなら、それは」
「そうじゃなくて、渡良瀬さ……あの人と付き合うってことは、そのまま前世の相性を信じてしまっていいのかってことで」
「だから、それはいっぺん忘れなよ。前世とか無視して彼女のこと、どうなの?」
「それは、たぶん……好きだよ」
「だったら、ね?」
「…………だけど、前世のつながりは」
咄嗟に体が動きました。
思わず侃の頬を張りそうになった私の手は、しかしすんでのところで軌道修正し、猫だましをするにとどまりました。
「あんたは……」
私の突然の拍手に侃はくらくらと目をしばたかせます。
拍手に反応して再び始まってしまったARライブに、少し離れた襷さんが、ひゃあ、と驚く声が聞こえました。
「馬鹿か……っ?」
自分でも何をそんなにムキになっているのかわからないままでした。
それでも指先が震えるほどに、私は昂っていました。
言ってやらねばならない。目の前の男に。
何を言うべきかは未だわからないけど、それでも、何かを言ってやらねばということだけはわかっていました。
「前世前世前世前世前世っ! いつもそう! そんな意地の張り方して、ずっとそうやって、無理をして生きていくの!? 生きていかなきゃいけないの? そんな苦行を、一生!? なんの罰なの、なんの戒めなの、そうやって無理矢理目をつぶったって何も得られやしないのに!」
そんな風に支離滅裂な衝動に私を駆り立てたのが、私の怒りだったのか、おれんじの悲しみだったのか、侃の自責の念だったのか、それはわかりません。
わからないけれど、でも。
侃はまだ猫だましにあったままぼうっとして、私の話を聞いています。その手ごたえのなさがさらに私を加速させ、止まりません。
「たしかに私たちは最初っから少しだけ……人より少しだけ幸せから遠いところにいたよ。だから手に入れた幸せを大事にしたいって、それはわかるよ。わかるけど、でも……いや、だからこそ! 施設にいたときも出てからも、私は自分がもっと幸せになれる方へもっと幸せになれる方へって選んできた! 選ぼうとしてきた! それはいけないこと? 誰だって今よりもちょっとだけ幸せになりたいんじゃないの? それは当然じゃないの? 目の前にあるものに手を伸ばせば幸せになれるってわかってるのにそうしないのはさ、それは……それは……っ」
「馬鹿だよねえ」
ぐちゃぐちゃと、どうしようもなくなった私の言葉をひきとったのは襷さんでした。
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