第7話 彼氏と彼女

 ゴールデンウィークに入る前日、私は拓海と一緒に伯母の家に帰った。連休中はまた伯母の家で過ごすのだ。東海道線は混雑していて、拓海は私の背中に手を回して自分に引き寄せている。少し恥ずかしいのと、こうやって密着している心地よさの両方を感じていた。小さい頃はこんなふうにいつもくっついていた。そんな懐かしさもある。


 駅を出て、家に向かうあいだも、ずっと手を繋いでいた。それがとても自然で当たり前のように思えたからだ。きっと拓海も同じことを感じていたから、手を離さなかったのだと思う。


 連休のあいだに、久しぶりに会った義弥くん、それから智行くんと四人で箱根まで遊びに出掛けた。大涌谷は白煙が立ちこめ、目の前には壮大な景色が広がっているが、私は義弥くんとのお喋りに花が咲いていた。お互いの大学の雰囲気を話している流れで、義弥くんは大学で新しい彼女を見つけたことを知った。


「花音ちゃんは彼氏出来たの?」

「そんなにすぐに出来ないって」

「でも言い寄ってくる人は居るだろ?」

「そうだね──でもなんかちょっと違うんだよね」


 連休に入る前に同じサークルの先輩に告られたが断った。優しくて話していて楽しい人だが、彼氏となると別問題だ。そんな大げさに考えないで付き合ってみればいいじゃないと周りにも言われたが、やっぱりその気になれない。そもそも皆なぜそんなに彼氏彼女にこだわるのだろう。


「花音ちゃんはガード堅いんだなあ。もっと気楽に付き合ってみて、合わなければ別れればいいだけじゃん」

「同じこと、友達にも言われてる。フリーだと周りがうるさいのも事実なんだけどね」

 私が笑って答えると、義弥くんも笑いながら智行くんを見た。

「いっそトモと付き合っちゃえば? トモなら気心知れてるし、トモだって花音ちゃんのこと、まんざらでもないだろ?」

 拓海の顔がこわばるのが分かった。智行くんは少し頬を赤らめた。

「馬鹿なこと言うな。花音ちゃんは友達だよ」

「花音は義弥みたいに軽くないんだよ。アホか」

 智行くんと拓海がほぼ同時に口を開いたので、義弥くんは呆れ顔になった。

「なんだよ。二人してムキになって」

 それから私の耳元でこっそりささやいた。

「大事にされてるね。花音ちゃん」


 その言葉の意味が分からず戸惑う。義弥くんは含み笑いをして私から離れると、黒たまご食べようぜと、先を歩いて行った。私は誰に大事にされているの? 拓海? 智行くん? 義弥くんのように器用な人の心は分からない。

 少しだけその場に立ち尽くした私の手を取り、歩き始めたのは拓海だった。

「義弥の言ったことは気にするな」


 そう言って私を引っ張った手──それはサーファー仲間の前ではもっと大胆になる。拓海のサーフィンに付き合う日は、私は「彼女」になっているからだ。


 拓海から借りたウェットスーツを着て、私はボードに恐る恐る乗っている。もうすっかり感覚を忘れているそのボードは不安定極まりない乗り物だ。波に押されひっくり返るたび、拓海は私を波の中から救いあげてくれる。もう一歩で立てるよと、周りのサーファー仲間から声を掛けられるが、全然うまくいかない。


「ボードに寝そべってるだけでいいよぉ。立つのは無理ぃ」

 私がをあげると、拓海は笑いながら浜まで連れて行ってくれた。

「小学生の頃はもうちょっと乗れたのにな」

「あの頃より筋力も体幹もなくなっちゃったかも」

 そう言いながら砂浜に腰を下ろすと、拓海は私を後ろから抱きかかえるように腰を下ろした。まるで本当の恋人同士のように。

「でも花音とまたこんなふうに海に来られて楽しいよ」

「私も楽しいよ。でも悪いよ。せっかく来てるんだから、拓海は波待ちしておいでよ」

「いや、今日はいい」


 すぐ後ろに居る拓海の声が体に響いてくる。ぬくもりも。それはやっぱり心地良く、私を安心させる。きっと今の私は拓海がいいんだ。そう実感した。



 東京のアパートに戻る前日、拓海は何処かに出掛けていた。夕方帰ってきたが、表情が少しだけ硬く、以前見たことのある表情だと思った。あれは智行くんの家で見せた顔。智行くんの部屋で私が本を借りていたときに現れた拓海の表情だ。

 何かあったのだろうか──そう思いながら入浴を済ませ、部屋に入ろうとしたとき、「花音、ちょっと」と、拓海から呼ばれた。

 警戒しつつ明るい声で「どうしたの?」と声を掛けると、拓海は無言で手招きする。拓海は畳の上に座っていたので、私もその前に座る。

 拓海が私のパジャマの襟に手を掛けたので、身を固くすると、

「ネックレス。いつも付けててくれてるんだな」と言った。

「あ。うん。ずっと付けてるよ。気に入ってるから」

「そっか。花音の家に行っても、いつもしてくれてるから嬉しかったんだ」

 拓海はそう言いながら、私の手を握る。

「……拓海、なんかあった?」

「久しぶりに花音の手を握ったとき、懐かしいって思った。この感触が心地良かったんだよなって思い出した。花音が『一緒に居て、居心地の良い人がいい』って言ったとき、オレもそうだって思ったんだ。花音と居るのは心地いい」

 拓海はそう言うと、私の顔をじっと見つめる。何も言えないでいる私を拓海は愛おしそうに、それでいて切なそうに見つめている。


「花音がこっちに出てきてから、ずっと考えていたんだ。花音が大学で彼氏を見つけるのは嫌だな。オレの全く知らない誰かに花音を取られるのは嫌だ」

 その言葉に緊張する。その次の言葉を聞くのが怖かった。でも拓海は続けた。

「トモと付き合わないか? それなら今までと変わりなく休みの日に近くに居られる。義弥が言ったときは何馬鹿なこと言ってるんだって思ったけど、全然知らない誰かに取られるくらいなら、トモのほうがいい。オレはイトコだから──」

「今日……トモくんと会っていたの?」

「ああ。花音のことどう思っているか聞いた」

「トモくんはなんて答えたの?」

 拓海はそれには答えず、切なそうに私を見た。

「多分、花音しだいだと思う。あいつはホントいいやつなんだよ。でも奥手でさ。自分からは行動を起こさないんだよ。花音なら趣味も合うからうまくいく気がするんだ。花音はトモのことどう思う? 付き合ってもいいって思う?」

 拓海の必死さが伝わってくる。拓海の気持ちも分かる。でも──

「勝手だよ、拓海。勝手に私の彼氏を決めないで」

 拓海の顔がハッとした表情に変わる。

「絶対誰かと付き合わなくちゃ駄目? 無理に誰かと付き合う必要ないよね。私は今のままでいいの。義弥くんやトモくんと遊びに行ってその時間が楽しければいいし、拓海とこうして一緒に居られることが何より嬉しい。長野から出てきて良かったって、今はそのことが嬉しいの」

「──ごめん。焦っていたよな、オレ。馬鹿みたいだ」

「今、誰かと付き合いたいとか思ってないから。大学でのことも心配しないで」

 拓海は頷くとそっと抱きしめてきた。

「しばらくこうしてていい?」

「うん」


 私も拓海に抱きつく。小さい頃と同じように抱き合っている。でもあの頃とは違う感情がお互いのなかにある。それは言わない。言ってしまったらすべてが壊れてしまう気がする。この家にも来づらくなるし、義弥くんや智行くんとも今まで通り遊べない、そんな気がする。だから──その言葉は禁句。



 連休が終わった数日後、智行くんからメールが来て、借りたい本があるから家に行きたいと書いてあった。ちょっと躊躇したが、断る理由もないのでオーケーの返事を出した。一時間後に現れた智行くんは、駅前で買ってきたとタコ焼きを差し出した。


「すげーイイ匂いしてたから釣られた」

「分かる。この匂いはそそられるよね。一緒に食べようよ」

 智行くんと二人、小さなテーブルに向かい合ってタコ焼きを頬張った。タコがあまり大きくないと、他愛もない話をしたあと、智行くんが口を開いた。

「拓海から、いろいろ聞いたろ」

「あ、ごめんね。拓海、トモくんに変なこと押しつけたでしょ」

「花音ちゃんのこと気に入ってたら、彼氏になってほしいって言われたから、お前の都合でオレを利用するなって答えたよ」

「私も似たようなことを拓海に言ったよ」

 そう答えると、智行くんは少しホッとしたような顔をして微笑んだ。

「拓海、花音ちゃんが合格して、東京に出てくるって知ったときから、すげー楽しそうだったんだ。オレたちに小さい頃の話を聞かせてくれてさ。その少し前まで彼女とうまくいってなくて愚痴ってたのが嘘みたいに浮かれて。イトコが出てくるくらいで其処まで喜ぶか? って内心思ったくらいだよ。拓海はそのイトコのことが好きなんだってことは、オレも義弥もすぐに分かったよ。花音ちゃんと初めて会った日、拓海のパーカー着てるのを見てやっぱりって思った。自分の服を彼女が着てたらドキっとするよな、なんて言ってたことあったし。花音ちゃんと話しているオレを見る目はイトコの目じゃなかったもんな」


 智行くんはそう言ってから私の顔をまっすぐに見た。

「オレは花音ちゃんのこと好きだよ。でも趣味の話をしたり、本の貸し借りをしたり。それは彼女じゃなくても出来ることで、オレは今はそれが楽しい」

「うん」

「それだけじゃ駄目になったら──」

 智行くんはそこまで言うと口を閉じた。それから棚にある本を手に取って、

「これ、借りていっていい?」と聞いてきた。

「もちろん。トモくん、ありがとね」

 軽く頷いた智行くんの笑顔はとっても優しかった。

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