子供を愛する最も簡単な方法

黒澤伊織

子供を愛する最も簡単な方法

「優愛ちゃんママ……」


 なぜ、咄嗟にそんな言葉が口をついて出たのか分からない。けれど、その可愛らしい小さな犬を抱き、公園のドッグランから出てきた女性に、美咲は無意識に声を上げていた。だというのに、その次の瞬間、驚き、自らの口を押さえた。優愛ちゃん? ママ? それはどこの誰のことだっただろうか、と。


 しかし、そのときはただそれだけで、相手の女性も美咲の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、軽くこちらに会釈すると、すたすたと通り過ぎていってしまう。


「ママ、早く歩いてよ」


 保育園を出てから、ずっと不機嫌だった陽菜子が手をきつく引いたこともあり、美咲がその奇妙な出来事を再び思い出したのは、夜、布団に入ってからだった。夕食作りに、陽菜子のお風呂、明日の用意、寝かしつけ、洗濯に食器洗い、バタバタと家事をこなしながら、幼い陽菜子の機嫌を取り続け、自分の時間は寝るまで皆無なのだから、それは当然の成り行きとも言えただろう。頼みの夫の帰宅は夜遅く、育児に参加する気はあっても、会社が帰してくれないの一点張りで、それはそれで仕方がないと、とうの昔に諦めている。それで眠りに落ちる寸前に、あれは何だったのだろうと思い出し、その思いを抱えたまま、夢の中へ落ちていくことになったのだ。


 優愛ちゃんママ。美咲は、その響きに覚えがあった。そんな風に呼ぶのだから、子供主体の知り合いには違いないとも、そう思う。しかし、問題は、陽菜子の仲良しに「優愛ちゃん」という子がいないことだった。いや、それは今時珍しい名前でもなく、名簿を探せば見つかるのかもしれないが、それは「優愛ちゃんママ」——そんな呼び方が口に馴染んでいる事実と辻褄が合わない。


 ぐるぐる巡る疑問の中で、あの犬を抱いた女性の顔が、脳裏に何度も行き過ぎる。それはよく見知った顔であるような、けれど、まったく知らない他人のような——。


「ねえ、ヒナちゃんのお友達に『優愛ちゃん』って子、いたっけ?」


 女性の顔ばかりがちらつき、眠りの浅かった翌朝、美咲は陽菜子にそう尋ねてみる。陽菜子の好きなパンケーキを出しながら、何気ない風を装って。


「お顔がない」


 しかし、陽菜子は不機嫌そうに皿を指した。


「ママ、お顔がないってば」


「はいはい」


 美咲は慌ててキッチンの棚を見る。パンケーキにはバターとメープルシロップがかかっているが、もう一つ、うっかりしていて忘れてしまった。


「ママ、早く!」


 陽菜子の声が部屋中に響く。その声に追われるように、美咲は急いでチョコシロップを手に取った。ここで陽菜子を叱ろうものなら、騒ぎはもっとひどくなる。あらん限りの声で叫び、床をドンドンと踏みしめ、またマンションの他の住人から苦情が来るに決まっている。いや、それだけならばまだいい。一度など、誰かが美咲のことを——。


 込み上げる嫌な記憶を振り払い、美咲は陽菜子のパンケーキにチョコシロップをかけた。大きな目と、にっこり笑った口を描くように。


「まあ、それでいいよ」


 叫ぶのを止めた陽菜子は、しかし不満げな顔のまま、そんなことを言う。それからフォークでつんつんと、パンケーキを突き、


「ママって、絵下手だよね」


「そう? ごめんね」


「だって、萌音ちゃんのママが描いたの、すっごい可愛かったもん」


「そうだね、可愛かったよね」


 胸に痛みを覚えながら、美咲はそう笑顔を作り、逃げるようにキッチンへ戻る。


 萌音ちゃんママは、陽菜子のお友達のママで、いつかの集まりの際、パンケーキにチョコシロップで顔を描いたママだった。そして、それが気に入った陽菜子はそれ以来、このチョコシロップがなければ許してくれない。


 とはいえ、美咲自身は、あまり甘いものばかり食べさせたくはないし、朝はごはんとお味噌汁とお魚や卵、そんなものが体に良いだろうと思っていた。けれど、萌音ちゃんは朝からそのパンケーキを食べる、ずるい、いやだ、ママ嫌い、と泣かれれば、美咲はパンケーキを焼くしかなかった。陽菜子が機嫌良く朝食を食べてくれれば、それでいいじゃないかと、そう自分に言い聞かせながら。


 優愛ちゃんママ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅


 と、そのとき、再びあの女性の顔が頭に浮かんだ。しかし、今度は顔だけではない、それは保育園での光景、美咲が誰か他のママと話していて、その脇を足早に通り過ぎていく親子の姿に、その誰かが言ったのだ——大変そうねえ、優愛ちゃんママ、と。


 ということは、あの人はやはり保育園の知り合いだったのだ。暗闇に差した光を見たように、美咲は確信を強めていく。しかし——続けて、こうも思う。いま、優愛ちゃんという子が陽菜子の友達におらず、保育園でも見かけないことも確かなのだ。ならば、優愛ちゃんはどこへ行ったのだろう。転園したのか、それとも——。


「ママ、早くして。遅れちゃう!」


 半分は食べずに遊んでいたのだろう、机の上の汚い皿をそのままに、陽菜子が玄関で騒いでいる。


「先に歯磨きして、着替えなくちゃ」


 美咲は言うが、陽菜子はドスドスと床を蹴り、乱暴にタンスを開けて、こう叫ぶ。


「ママ、靴下ない!」


「あるでしょ、ママ、着ていくものは全部出しておいたよ」


 思わず、美咲がそう答えると、


「これ、可愛くない」


 陽菜子が怒る。


「可愛いよ、大丈夫」


「違う、可愛くないんだよ!」


 買うときには可愛いと言っていても、すぐにこれだ。けれど、これもいつものことだと、美咲は自分に言い聞かせながら、別の靴下を出してくる。


「じゃあ、これはどう?」


 買い置きのそれを見せると、


「早くはかせろ!」


 陽菜子が叫ぶ。


 乱暴な口調は、お友達の口まねなのか、それは人にものを頼む態度じゃないよ——美咲はそう言いたくなるが、それもじっと我慢して、陽菜子の投げ出した足に靴下をはかせる。「早く!」


 と、そのとき蹴り上げた陽菜子の足が、美咲の顔を直撃する。


「痛っ」


 声を上げた美咲を、しかし、陽菜子は声を上げて笑った。


「ママって、馬鹿みたーい」


「…………」


 情けなさに引きずり込まれながら、それでも美咲は何も言わない。前はこんな子じゃなかったのに、もっと優しい子だったのにと、心の隅でそう思うことは思うにしても。


「おはよう、今日も元気ね、陽菜子ちゃん」


 しかし、家では不機嫌な陽菜子も、保育園へ着けばご機嫌で、お気に入りの保育士にまとわりつき、美咲には出したことのない甘え声で話し始める。いや、これは保育士だけではない。陽菜子は他の子のママが大好きで、特に萌音ちゃんママは大のお気に入り、例のパンケーキも、可愛いキャラ弁も、洋服も、萌音ちゃんママのやるようにしてほしいとせがまれる。それどころか、一度、萌音ちゃんの家へ行ったときには、「ここのうちの子になりたい、帰りたくない」と泣かれてしまい、美咲の方が泣きたくなったほどだ。


「あ、これ、昨日の陽菜子ちゃんの忘れ物です」


 楽しげな陽菜子を、ぼうっと見つめていた美咲に、先生の一人が声をかける。ありがとうございます、美咲は礼を言って差し出された袋を受け取り——ふと顔を上げ、あの疑問を口にした。


「あの、優愛ちゃんなんですけど……」


「ゆあちゃん?」


 先生が聞き返す。


「はい、あの、お友達にそんな子、いなかったですか?」


 美咲が尋ねると、その先生は不思議そうに、


「もしかしたら、ゆめちゃんのことですか? それなら、一個下のクラスに——」


「違うんです」


 否定は少し大きな声になり、教室内の先生たちが、美咲をちらと振り返る。


「いえ、あの、違うんです」


 美咲は取り繕うように、


「陽菜子から名前を聞いたんで、どんな子だったっけって思っただけなんです。あの、以前はいたけど、転園しちゃったとか、そういうことって……」


「いいえ? ないと思いますけど……」


 そう答える先生の目の奥が、心を見透かそうとでもいうように、きゅっと縮まる。疑うように、細められる。美咲が恐れる人の目に——このママ、大丈夫なのかしら、育児に不安があるんじゃないだろうかと、言わんばかりに。


「すみません、ならいいんです」


 疑いを払拭するように、美咲は無理矢理、笑顔を作ると、保育園を後にした。早く家に帰って、陽菜子が散らかし、汚したものの後始末をして、それからすぐに出なければ、パートに遅刻してしまう。


 しかし、その前に少しだけ——美咲が向かったのは、あの公園だった。昨日、「優愛ちゃんママ」を見かけた、あの公園のドッグラン。もちろん、時間が違えば、会える確率は低いかもしれない。けれど、それでも行かずにはいられなかった。


 一体何が自分をそうさせるのか、それは美咲自身も分からなかった。あの先生の言った通り、やはり保育園に「優愛ちゃん」はいないらしい。転園していった子もいない。他に親しくするような親子もいないなら、それは何かの勘違いで、「優愛ちゃんママ」なんて人は存在しない、それが絶対の結論だった。


 それなのに、美咲は同じくらいの確信を持って、「優愛ちゃんママ」を知っていると直感していた。その名前を知っている、呼んだことがある、そしてあの女性の顔を知っている——。


 果たして、ドッグランまでやってきたが、「優愛ちゃんママ」の姿は見当たらなかった。やはり、無駄足だった——美咲はがっかりしながらも、諦めきれずに、いままで気にしたこともなかったその柵の中の人々をじっと眺める。


 会社員なら通勤の時間、専業主婦でも、保育園や学校の送り迎えに家事など、暇な人などほとんどいない、そんな時間帯だというのに、柵の中はまるで別の世界であるとでもいうように、女性ばかりが集まって、犬が走るのを眺め、談笑し、あるいはその犬を抱っこしたり、赤ちゃんのようにあやしたり、ゆったりとした時間が流れていた。見れば、どの犬も毛並みが良く、可愛らしい洋服さえ着せられていて、その飼い主の女性たちもまた、生活に余裕があるのだろう、化粧も髪も、服も、きちんとした格好をしている。梳かしもせずにまとめただけの髪、最低限の化粧、くたびれた服の美咲とは大違いだ。


 子供がいなければ、私だって——反射的にそんな思いが込み上げて、美咲は小さく首を振った。


 子供は望んで授かったものだし、それが嫌いなわけではなかった。子供のためなら、できるだけのことはしたいし、何より幸せに育って欲しい。けれど、現実は難しい。陽菜子が今朝のように騒ぐたび、不機嫌に怒るたび、それに萌音ちゃんママの名前を出されるたび、美咲の心には殴られたようなアザができる。陽菜子を満足させられない、私は駄目な母親なんじゃないかという思いでいっぱいになる。


 もちろん、それは初めからではなかった。初め——陽菜子が産まれたとき、美咲は本当に幸せで、赤ん坊の陽菜子が泣いても、ぐずっても、嫌になることなど一度も無かった。寝ても覚めても、陽菜子が隣にいる生活。それは当然、慣れないもので、苦労を伴うものだったけれど、ときには愚痴をこぼしながら、美咲は美咲なりにやってきたつもりだった。


 しかし、それはいつのことだっただろう。あるときを境に、美咲はふと周囲が自分たちを見ていることに気づいたのだった。なぜかは分からないけれど、何か居心地の悪い視線。それは例えば、外で陽菜子が騒いだとき、わがままを言って泣いたとき、それをなだめすかし、ときには叱る美咲に対して、責めるように送られた。子供がうるさくて迷惑なのだろうか——しかし、その視線の真意を知るのに、時間はそうかからなかった。あるとき、昔の友人同士で集まりで、ふと子育ての愚痴をこぼした美咲に、子供のいない友人が当たり前のように言ってのけたのだ——「勝手に子供産んどいて、大変とかどういうことなの?」


 その美咲を責めるような視線は、記憶の折々のものとぴたりと重なり、美咲を驚かせた。それが恐らく、いままで美咲が気づくことのなかった、人々の視線の意味だったのだ。


「ママだって、愚痴を言いたいことくらいあるでしょ」


 その場は、他の友人がその友人をなだめ、場を取り繕ってくれたものの、しかし、それから美咲の耳には、一度気づいてしまったその視線の意味する言葉が、怒濤のように流れ込むようになってしまった。「好きで産んだくせに」「母親のくせに」「育てられないなら、産まなきゃ良いのに」「あんなに子供を泣かせて、まさか虐待してるんじゃないでしょうね?」。


 仕事の愚痴は許される。社会人なんだから、その仕事を選んだのは自分なんだからと、侮蔑されることもなく、大変だねえと共感される。けれど、子育ての愚痴は許されないということを、美咲はそのとき知ったのだった。子供は絶対的に純粋な天使で、その天使を悪く言うことなど許されない。疲れた、わがままばっかり、ママだって休みたい——そんな気持ちを吐露すれば、人は侮蔑の表情を浮かべ、あるいは今朝の保育士のような疑いの眼差しで美咲を見る。「この母親、子供のことを悪く言うため、虐待をしかねない要注意人物である」。


 悲惨な虐待事件が世に出るにつれ、あるいは「毒親」なんて言葉が浸透するにつれ、人々の敵意はすべて、「母親」に向けられるようになった。時代柄、結婚せず、子供も持たない人も多ければ、世間は子供で溢れかえっている。そんな親の目線を持たない子供が、自分の親への恨みを抱え、それを新世代の「母親」へと向けているということもあるだろう。子供から一秒でも目を離してはいけない、子供を泣かせてはいけない、子供のやりたいことをやらせなければいけない、子供の可能性を広く探ってやらねばならない、大学まで出さねばならない、そのための費用がなければ、子供を持つことはなど許されない。


 子供を社会で育てよう、そんなスローガンは、「母親」を社会全体で監視しようというように、いつのまにかすり替わり、「母親」である美咲を怯えさせていた。何せ子供である人々は、上手くいく親子が普通である﹅﹅﹅﹅﹅と思っているのだ。だから、もしそれが上手く行かないのなら、親が悪いか、それとも元々育てにくい子供——何か障害でもあるだとか、そうでなければ親にあるだとか、そういう「普通」という範囲から外れたものだと信じている。


 もちろん、美咲と陽菜子はそうではない。普通だけれど、上手くいかないことだってあるし、愚痴を言いたいこともある。しかし、そんなことは誰も信じてくれない。普通でないから、要注意だ——そう思われるだけならば、うかつなことは何も言えないし、それだけならまだしも、いつ、どこでも良い母親を演じなければならない。そうしなければ、またあんなことも起こるかもしれない——。


「すみません」


 そのとき、誰かに声をかけられ、美咲は我に返った。ドッグランに出入りする扉の部分を、ちょうど美咲が邪魔をしている。すみません、美咲も謝り、足をのけたときだった。声の主の顔を見て、美咲はあっと声を上げた。


「美優ちゃんママ……」


 美咲の声に、女性は驚いたような顔をして、それから困ったように抱いた犬を抱え直した。


「えっと……」


「すみません、でもそうじゃないかと思って」


 自分でも訳の分からないことを言っていると思いながら、それでも止められず、美咲は勢い込んで言った。


「覚えてませんか? 私、木村美咲です。娘は陽菜子、あっちの道の向こうの保育園に通ってて、それで——昨日、ここでお見かけしてから、ずっと考えてたんです。もしかしたら、美優ちゃんのママじゃないかなって。いえ、保育園に聞いたら、そんなお友達はいないって言われちゃったんですけど、でも——」


 私の言っていることは間違ってない——言いながら、美咲は確信を強めた。なぜなら、女性は困ったような顔をしながらも、美咲の言葉を聞いている。もし、この女性が美優ちゃんママじゃないのなら、美咲は気味悪がられるか、怒られるか、とにかく何か否定的な反応をされるはずだ。けれど、女性はそれをしない。


「ねえ、美優ちゃんママですよね?」


 確かめるように、美咲は迫った。


「どうして保育園辞めちゃったんですか、どこにお引っ越しされたんですか」


 思いがけない言葉が、次から次へと口から溢れて、その言葉に助けられるように、美咲の脳裏には様々な景色が駆け巡った。美優ちゃんママのいる風景——美優ちゃんママと、美咲と、一緒にいるのに別々に遊んでいる、美優ちゃんと陽菜子の姿。


「それに——」


 記憶に力を得て、美咲の言葉はくっきりと朝の公園に響き渡る。


「それに、まだこの近くに住んでるなら——美優ちゃんはどうしたんですか」


 その問いに、女性は隠れるように目を伏せた。しかし、それは一瞬のことで、再び顔を上げた女性の眼差しは柔らかく、美咲はほっと安堵した。どうやら美咲は間違っていない。これはやはり美優ちゃんママ、その人なのだ。


「陽菜ちゃんママ、久しぶり」


 果たして、女性は——美優ちゃんママは、そう言って微笑み、小さく犬の頭を撫でた。


「ごめんなさい、でも記憶はなくなるって聞いたから、覚えてるわけないと思って」


 意味の分からないことを口走るように言うと、美咲をふと見据える。どきっとするような、その瞳の奥には、不思議な光が宿っている。ややあって、その瞳がふっと俯き、美優ちゃんママはまるで独り言のように、小さく一言、つぶやいた。


「でも、私のことを思い出せたってことは、そういうことなのか」


「そういうことって?」


 当惑して、美咲は聞き返す。


「そういうことよ」


 しばらく黙り込んだ後、美優ちゃんママは何かを決意するかのように息をつき、抱きかかえた犬に視線をやって、こう言った。


「美優がどこにいるのかって、聞いたよね。それは、ここよ」


「ここって……」


 美咲が再び聞き返すと、美優ちゃんママは、今度は明確に犬を指してこう言った。


「美優はここにいるのよ、陽菜ちゃんママ」


   *


「やだやだ、みっくんもトマト食べないけど、食べなくて良いって先生は言うもん。ずるいもん、だからヒナだって食べない!」


 いつものように、夕食を前に陽菜子は不機嫌で、わがままを言っている。


 陽菜子の言う「みっくん」がトマトを食べないのは、アレルギーがあるからだ——しかし、そう返せば、陽菜子は意地悪だと泣き叫び、ひどいことになるだろう。


「じゃあ、いいよ、残しておいて」


 結局、美咲はそう言って、ぼんやりとおかずを口に運ぶ。残しておくことの何が気に入らないのか、怒った陽菜子がトマトを投げる。掃除したばかりの床にべちゃりと落ちる。今日は陽菜子の好きなハンバーグ、好きなおかずと一緒なら、苦手なトマトも頑張って食べられるだろうかと、一つ、添えただけなのに、一体どうしたらいいんだろう、私に何が足りないのだろう——普段ならそうして自己嫌悪に陥るところが、今夜はどこか他人事で、もちろん、その理由は美優ちゃんママ、その人と話したことに違いなかった。


『美優はここにいるのよ、ほら』


 夢の続きでも見るように、美咲は美優ちゃんママとの会話を脳裏に蘇らせた。抱いた犬の頭を愛しげに撫で、そう事もなげに言った、美優ちゃんママを。


『美優はね、もう人間じゃないの。犬になっちゃったのよ』


 美優ちゃんママは微笑んで、戸惑う美咲を公園のベンチへと誘った。地面に降りたがる子犬に細いリードをつけ、膝の上から下ろしてやり、その姿を優しく見守る。


 この犬が美優ちゃんだなんて、冗談も過ぎるのではないか——美咲は反射的に思いながらも、一方で、その奇妙で非常識な考えに納得する自分を感じていた。美優ちゃんは犬になったのだ。目の前で歩く、この小さくて可愛い犬に。美優ちゃんママの頭がおかしくなったわけじゃなく、美優ちゃんがいなくなったわけでもなく。


 その証拠に、ほら——犬を見守る美優ちゃんママの目は、どこか覚えがあるものだった。そう、美優ちゃんママはいつも、こうして美優ちゃんを見守っていたのだ。子供と一緒にはしゃぐというより、その成長を助ける親の目で、大人しそうな人だったけれど、いけないことはきちんと叱り、それが子供のためになるかならないか、見極められる人だった。


 そうだ、だからだ——美咲はようやくすべてを思い出す。そんな美優ちゃんママに、美咲は密かに好感を持っていて、だから夫相手に何度か話したことがあるのだった——「今日、美優ちゃんママがね」「もっと美優ちゃんママと話してみたいんだけど」「美優ちゃんママなら、分かってくれるのかなあ?」。


『私も、陽菜ちゃんママは大変そうだなって、いつも見てたよ』


 美咲の記憶に、美優ちゃんママは笑って言った。


『陽菜ちゃん、いつも泣いてるなあって。それでも陽菜ちゃんママは、声も荒げないから偉いなあって』


『美優ちゃんママも、怒ってるところなんか見たことないよ』


『そりゃそうよ』


 すると、美優ちゃんママはおかしそうに笑ってみせた。それから少し、真面目な顔をして、


『だって、いまの時代、子供に怒鳴りでもしたら、虐待かって、大げさな目で見られるでしょう。正直、子育てしてたら、怒鳴りたいことなんかたくさんあるけど、それを全部飲み込んで、我慢しないといけない。実際、私、少し美優の手を引っ張っただけで、虐待ですかって言われたことがあるもの、通りすがりの知らない人から』


『そうなの?』


『そうそう……確か、あのときは、美優がわがまま言って、どうしても玩具が欲しいんだって、保育園の友達が持ってるやつ』


 そのときのことを思い出したのだろう、美優ちゃんママはため息をつき——その目つきで、美咲はさらに思い出した。以前——美優ちゃんが犬になってしまう以前のことだ——美優ちゃんママは、これほど明るい人ではなかった。いや、明るい顔つきをしていなかった。いまと同じ、雰囲気は優しかったけれど、その目はとても暗かった。特に、美優ちゃんが泣いたり、怒ったり、ひどく騒いでいるときには、まるで光の差し込まない海の底のような、闇のような黒い目をしていた。


『私の子供の頃はね』


 足元でうろうろする犬越しに、どこか遠くを見るように、美優ちゃんママは小さく言った。


『わがまま言って騒いだり、自己主張が激しいような、私はそんな子供じゃなかったのよ。自分の記憶の中でも、親や兄弟に聞いても、そう。むしろ、正反対に大人しくって、だから周囲にいるそういうタイプの子が嫌いで嫌いで仕方がなかったくらい。それなのに、美優は違ったのね。血が繋がった子なのに、不思議だけれど』


 でも、だからといって愛せなかったわけじゃないと、そう続ける。


『親子だって違う人間なんだし、相性だってあると思う。だけど、いくら性格が合わなくても、お腹を痛めた産んだ大事な子だし、私なりのやり方でこの子を育てれば良いんだって、そう思ってた。でも……何でだろうね。美優が泣くたび、怒るたび、周りの人の目が向くの。うるさいとか、親がちゃんとしてないからだとか、さっきみたいに虐待してるんじゃないのかとか——そうするうちに、何だか疲れちゃったなって……』


 美優ちゃんママが暗く、俯く。その消え入りそうな美優ちゃんママの手に、美咲は思わず自分の手を重ねた。それに驚いたように、美優ちゃんママが顔を上げる。その濡れたような目を見つめ、そのとき美咲は秘密を口にした。夫の他には誰にも言えなかった、心を蝕む小さな秘密を。


『あのね、私、通報されたの』


 その一言を告げただけで、これほど胸が軽くなることを、美咲はいままで知らなかった。消えなかった心のアザが、ふっとその色を失くし、消えてしまったかのように、それによって解き放たれたかのように、美咲は一気に言葉を吐き出した。


『通報したのは誰かは分からない、同じマンションの人かもしれないし、近所の人かもしれない、美優ちゃんママみたいに、通りすがりの知らない人かも。でも、ある日、知らない二人組が訪ねてきて「児童相談所のものですが、子供がよく泣いているという通報があったので確認だけさせてください」って、それで話を聞かれることになった』


 そこで美咲は無遠慮な視線で検分され、質問されることになったのだった。すなわち、この母親は虐待をしていないか、子供を愛しているか、育児に不適当なところはないか——。


『結局、話を聞かれただけで、その後は何もなかったんだけどね。通報があったので、一応って、その人たちも言ってたし、もちろん陽菜子におかしなところはないし。でも……』


 その日を境に、美咲は極度に陽菜子の泣き声を恐れるようになってしまった。それまでは、陽菜子がわがままを言って泣いていても、「それはだめ」と言っていたのが、まるで言えなくなってしまった。いままでだって、通報されるようなことはしたことがない。だというのに、ただ普通に子育てをしていた結果、児童相談所へ通報されたという事実が、美咲自身にも思いがけない衝撃を与えたのだ。もしかしたら、理不尽に我が子から引き離されてしまうかもしれないという、恐怖と共に。


 そして、その事実は、思わぬ方向へ美咲の気持ちを変えていった。初めは、陽菜子と引き離されてしまうという恐怖から、次第に陽菜子を泣かせてはいけないという恐怖へ、それから万が一にも通報などされぬよう、良い母親を演じること、果てには、そのために陽菜子の言う通りの奴隷になることへと。


 そうして陽菜子は、いまの陽菜子になったのだった。ごく普通の子供から、美咲の言うことを聞かず、何をしても満足せず、他の家の子になりたいという、美咲を苦しめるような子に。


 重ねた美咲の手を、美優ちゃんママは優しく握った。言葉はなくとも、二人の気持ちは通じ合い、それを知らない犬だけが——美優だけが、足元で地面を嗅ぎ回っている。


 子供は好きで産んだのだから、親が責任を持って育てなければならない。何不自由ない環境で、怒られることなく、叩かれることなく、すぐすぐ育つ権利があるから。だから、社会はその権利を侵害しようとする者を監視し、その気配があればすぐに通報しなければならない。なぜなら、それが社会の子育てなのだ。手出しはしないが、助けもしないが、監視だけは怠らない——。


『私の場合は、虎くんっていう、知り合いの男の子ママだった』


 美咲の手を握りしめたまま、美優ちゃんママがぽつりとそう言った。


『美優を保育園に送る途中、通りを散歩している虎くんママを見かけたの。とはいっても、陽菜ちゃんママと同じ、そのときは誰だか思い出せなかった。でも、絶対に知ってるって確信があったから追いかけて……』


 その人は、一人で散歩していると思いきや、その足元には犬がいた。小さな可愛らしい黒い犬。それを見て、美優ちゃんママは、それまで忘れていたことが不思議なくらい、虎くんのことを——同時に虎くんママのことを思い出した。二人は同じ児童館に通っていて、よく知った仲だったのだ。


 けれど、一体全体、どうして忘れていたのだろう。なぜ忘れられたのだろう。


 美優ちゃんママの疑問に、虎くんママはこう言った。


『美優ちゃんママも大変なのね、子供を愛しているのに、愛せなくなって』


 その言葉は、心の真ん中に突き刺さったのだと、美優ちゃんママはそう言った。


『美優が産まれて、私はママになって、本当に幸せだった。けど、きっと、私も陽菜ちゃんママと同じ、周りの目ばっかり気になって、叱ることも、厳しくすることもできなくなった。甘いものを与えるだけが愛じゃないのに、周りが甘いものばかり与えようとするから、甘いものを与えないのは虐待だってそう言うから、私一人が悪になった。子供も甘いものが好きだもの、甘いものをくれる人に懐くもの』


 だから、私は疲れてしまった。悪者になることに、悪者にされることに、美優のことは愛しているけど、けれど、いつしかその美優にさえ嫌われることを知ってしまった。


『だから、首輪を受け取ったの。虎ちゃんママの差し出した、首輪を』


『首輪?』


 その単語の意味するところが、美咲はまるで分からなかった。けれど、にもかかわらず、そのとき美咲の背筋は、何か恐ろしいことでも聞いたかのようにぞわっとした。


『首輪って、犬や猫の?』


 恐る恐る美咲が聞く。すると、


『そう、この首輪』


 美優ちゃんママはにこりと笑い、足元の犬を優しく抱き上げ、その首に嵌められた首輪を見せた。青く、長年の使用で少しよれたような、小さめの首輪——そう、ちょうど子供の首にぴったりというくらいの。


 この首輪が何だというのだろう——息を止めるように、美咲はそれをじっと見つめる。すると、美優ちゃんママは、その首輪を丁寧に外し、


『これ、陽菜ちゃんママに渡しておくね』


 そう言って、美咲の手のひらへそっと乗せる。


『使い方は簡単なの』


 首輪の上から手を重ねたまま、美優ちゃんママはそう囁く。


『首に、この首輪を嵌めるだけ。それだけで陽菜ちゃんも、美優と同じようになって——陽菜ちゃんママも、陽菜ちゃんのこと、もう一度愛せるようになる』


 美優ちゃんママは、真っ直ぐに美咲の目を見つめた。それから、その目線を、膝の上の犬に向けた。その様子は、はっとするほどの慈愛に満ちていて、その犬を——美優を、本当に愛しているのだと、痛いほどによく分かった。そこに、あの日のような暗い眼差しをした母と、不機嫌な子供はもういない。子供は犬になり、母は監視の目から放たれて、ありのままに子供を愛することができるようになったのだ——。


「——ママ、明日のお洋服がない!」


 そのとき、陽菜子の叫び声がして、美咲は現実に引き戻された。目の前のテーブルには、食べ散らかされた夕食、床に落ちたフォーク、脱いだ洋服、片方だけ椅子の上にある靴下。


「新しいお洋服じゃないとやだ! さっちゃんみたいな、可愛いやつ! ママ、買って来てっていったでしょ、なんでヒナの言うこと、聞いてくれないの!」


 叫ぶ我が子を、美咲はどこか遠くにいるようにぼうっと眺める。そうしているうちに、陽菜子の声は遠のき、美咲はいつのまにか何かを手に握りしめていることに気づく。あのくたびれた、青い首輪。美優ちゃんママから受け取った首輪、陽菜子を犬にする首輪に。


「ママ!」


 遠くで、陽菜子が叫んでいる。不機嫌そうに泣き始める。


 可哀想に、美咲は他人事のようにそう思う。甘いものばかり与えられた幼子は、自分一人ではどうして良いのか分からないのだ。何を言っていいのか、悪いのか、何が欲しいのか、欲しくないのか、手取り足取りしてもらわなければ、自ら泣き止むこともできずにいるのだ。まるで生まれたばかりの赤ん坊のように、そこから成長できないままに、ここまで育ってしまったから。


 けれど、これが社会の望む、正しい子育てで、美咲と陽菜子のことを何も知らない、赤の他人が安心するような子育てなのだ。子供が泣くたび、その母親は失格という烙印を押され、甘い顔をしなければ、愛情がないと断じられる。その監視の目を嫌がれば、そら見たことか、やはりこの母親には何か後ろ暗いことがあるに違いないと、一層、監視は厳しくなる。けれど、監視の中では、何の関係も育たない。健全な愛は育たない。だからこそ、そこから逃れて、再び関係を築くには、きっとこうすることしかないのだった。愛し、愛されるという、当たり前の関係を、もう一度、美咲と陽菜子が築くには。


「陽菜子」


 いつになく凜とした声が、美咲の口から部屋に響いて、その変化に気づいたように、陽菜子が一瞬、口を閉じる。しかし、再び叫びだそうとするところを、美咲は抱きしめるように陽菜子の背後に手を回し、その細い首に輪を嵌める。あつらえたように、その輪は嵌まる。音も立てずに、するりと嵌まる。すると、その瞬間はいつだったのか、美咲が抱きしめているのは陽菜子ではなく、陽菜子であった小さな犬だ。可愛らしく舌を垂らし、陽菜子によく似た、小さな子犬。


『子供が犬になってしまえば、その子のことを覚えているのは、あなただけ』


 美咲の脳裏に、別れ際の、美優ちゃんママの台詞が蘇る。


『陽菜ちゃんママが、私のこと忘れてしまっていたように、私が虎ちゃんママのことを忘れてしまったように、首輪を嵌めれば、その親子の存在は他の人の記憶から消えてしまう。だけど、もし、誰かがあなたたちのことを思い出すとしたら、そのときはね——』


 キャン、何を思ってか、犬が鳴く。可愛い——いつ以来だろう、素直にそんな言葉が口から漏れて、美咲はその犬を抱きしめ、いままでずっと伝えたかった言葉が溢れるに任せた。


「陽菜子、大好き。ママ、世界で一番、陽菜子のことが好きなんだよ」


 キャンキャン、もう一度犬が鳴く。ママの馬鹿、早く元に戻せ——もしかしたら、犬になった陽菜子は、そう悪態をついているのかもしれない。けれど、その言葉は美咲にも、誰にも分からないがゆえに、誰の耳を気にすることもない。誰の咎めを受けるわけでもない。


 美咲は鳴く犬におかまいなしに、微笑み、何度も頬ずりをする。抱き上げ、柔らかいキスをする。可愛い、愛してるが、口から溢れて止まらない。愛することがこれほど簡単だったなんて、人と人ではこじれたものが、一方が犬になり、ようやく元に戻るだなんて。


 散らかった部屋も食器も放っておいて、今日は、陽菜子と一緒に眠ろう——犬を抱きしめ、美咲は思う。そして、明日の朝、目が覚めたなら、とびっきりの朝食を食べて、二人で散歩に出かけよう。いままで通り過ぎるだけだった、通りのペットショップに行くのもいいかもしれない。この子に似合う新しい服やリードを買って、あのドッグランに行ってもいい。この子のためなら何でもできるし、これからも何でもしてあげたい。いままでできなかった分も含めて、幸せな関係を築くのだ——。


 まるで陽菜子が産まれた夜のような幸福を抱きながら、美咲は犬を撫で続ける。犬がうとうと目を閉じて、可愛い寝息を立て始め、すっかり眠ってしまうまで。


「そうだ」


 と、そのとき美咲は小さくつぶやく。ぴくり、その声に耳を上げた犬を、ごめんごめんと、再び撫でながら、美優ちゃんママの最後の言葉を思い出す。


 犬になった陽菜子と、飼い主になった美咲には、それゆえの新しい役目があった。それは散歩がてら、この子を連れて、いろんな場所へ行くということ、いろんな人に会うということ。私の顔を忘れてしまったはずのママ友たち、その誰かが私に気づき——陽菜ちゃんママ、そう口走るときを待ちながら、この青い首輪を他の誰かに渡す役目、その役を、美咲は美優ちゃんママから引き継いだのだから。


『誰かがあなたたちのことを思い出すとしたら、そのときは、その青い首輪を渡してあげて。また新しい親子が救われるように、新しい関係が作れるように、そうやってこの首輪は、私たちの手に渡ったのだから』


 穏やかに、ゆるゆる夜は更けていき、やがて訪れた新しい朝が、眩しい光をくっついて眠る二人に当てる。いや、二人と一匹に、誰に憚ることもなく、愛し愛されるママと、子犬に。


 もう少し、あと数分もすれば、美咲が先に目を開けて、子犬に気づき、微笑むだろう。そして、美咲がずっと望んでいたように、この世で一番優しい声で、こう言うのだ——おはよう、陽菜子。今日も世界一、あなたが大好きだよ、と。

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子供を愛する最も簡単な方法 黒澤伊織 @yamanoneko

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