14

 祈の動揺は手に取るように伝わっているだろう――獏間は笑って、向かいのソファに腰を下ろす。


「他人の不幸は蜜の味って言葉があるくらいだ――きみにとって、甘いは不幸の象徴なんだろう」

「……なんすか、それ?」

「甘いカレー」


 それだけで、思い出す。

 舌にまとわりつく、あの、どこまでも甘い――。


「はい、もう一口」

「ぶっ!? ――アンタ、いい加減にっ……!」

「いい加減にするのは、きみだ。祈」


 口についた生クリームを拭いつつ、さすがに横暴だと獏間をにらむ祈だが、獏間は思ったよりもずっと、真面目な顔をしていた。


「いつまでこだわってるんだ」

「……は?」

「縛るものはもう、なにもないのに、きみ自身がきみを縛ってる。僕を家族だなんて言いながら、きみ自身は背を向けてる」

「……別に、俺は……」

「僕といるのは、不幸か?」

「は……?」

「こうして食べるケーキは、不幸の味か?」


 たたみかけられて、祈は戸惑う。

 甘い物が嫌いなのは――そう、獏間の言うとおり、珠緒のカレーが原因だ。

 息苦しいあの頃に食べた、舌に残る、絡みつくような甘さ。


 あれが、嫌いだった。

 でも、珠緒のことは嫌いになりきれなかった。

 好きだなんて一度も言ったことのない甘口カレーを、自分のために作ったんだと笑う彼女を――それでも嫌いになれない、自分自身が嫌いだった。


 だから、かわりのように甘い物を避けた。

 甘いカレーを黙って食べながら、作る珠緒を嫌えずに、好きじゃないと言えない自分を嫌いながら、かわりに甘い物を遠ざけた。

 あの頃は、そうしないと、息苦して息が出来なくなりそうだったから。

 

 それなら、今はどうだろうか?

 今は――。

 

「今は、別に……俺は、不幸なんかじゃ」

「そうか。別にか……。それなら、僕は不幸だよ」

「――え」

「だって、きみは僕に頼ってくれないだろ」

「……たよ、る?」

「もの凄く悩んでいるのは、見ていれば分かるよ。でも、僕が声をかけても、祈は最近同じことしか言わないんだ――大丈夫って。それってさ、まったく大丈夫じゃないよね?」


 茶化すような口調だが、獏間の顔には笑みがない。

 彼は真剣な顔のままで、祈に確認するように続けた。


「僕では、やっぱりきみの家族になりえないかい?」

「――っ」


 不安そうな声だ。

 獏間 綴喜という存在が口に出したとは思えないほど、不安そうで心配そうで……寂しそうな声だった。

 顔を見ていられなくて、祈は俯く。

 どっと冷や汗が出てきて、目がチカチカした。

 それなのに、自分の言いたいことがまとまらない。


「ち、がう――アンタが悪いんじゃない、アンタはなんにも悪くない……全部、俺が……」

「うん。ゆっくり話してごらん」

「俺が――俺は……偽物だって……」

「……そんなことを気にしてたのかい?」


 少しだけ、獏間の声が穏やかになる。


「そんな、ことじゃない……死んだって、あの人……祈は――錫蒔 祈の本物は、死んだって。俺は、体を横取りしたんだって……じゃあ――じゃあ、俺はなんなんだよ。俺は……俺は、本当はここにいたらダメな……」

「きみは、きみだろう」


 言われて、祈はぱっと顔を上げた。


「俺は……俺?」

  

 獏間は目が合うと、こくりと頷き笑みを浮かべた。


「僕にとって、祈はきみだけだよ。きみが唯一だ。外野がどれだけ騒ごうが、僕はそう決めた――ここにいて欲しいって、僕が思ったんだ」

「……っ……」

「それだけじゃダメかい?」


 ぽすんと頭に獏間の手が乗る。

 子ども扱いするなと振り払うには、その手はあたたかすぎて、祈はされるがままで顔を歪めた。


「僕はきみしか知らない。だから、偽物本物の区分自体がナンセンスだ。だけどね、それできみが不安だと言うのなら、いくらでも言うよ。――僕にとって、本物となり得るのはきみだけだ。錫蒔 祈は、きみしかいらない」


 ともすれば傲慢だ。

 それでも――そんな獏間の言葉だからこそ、祈も真っ正面から素直に受け止められる。


「それじゃダメかい? 僕だけだと足りないかい?」


 祈は泣き顔を伏せて、首を横に振った。

 

「……ダメじゃない――充分です」

「うん。よかった」

 

 ぽんぽん。

 慰めるように動いた手が下ろされて、かと思えば獏間は「本当によかった」と頷いた。


「僕だけだったら不足と言われたら、笹ヶ峰刑事やきみの幼馴染みにも声をかけなきゃいけなかったよ」

「え……?」

「なに不思議そうな顔をしてるんだい、祈。だって、そうだろう? 笹ヶ峰刑事はきみを気に入ってるからまず間違いなく肯定する、幼馴染みの彼女に至っては東京まで乗り込んできそうだよね! だって彼女にとっては誰が本物かなんて言わずもがな、だからね」


 冗談めかしているが「本気だよ?」と付け加えられたので、祈は泣いていた涙も引っ込んだ。


「本当に、綴喜さんで充分っすから……!」

「うんうん、嬉しいよ。家族冥利に尽きる。というわけで、はい」

「……は? ……ケーキ……」

  

 目の前に食べかけのケーキ――先ほど、獏間に無理矢理食べさせられたものの残りが突き出される。

祈が瞬きすれば、獏間も自分の分を手に持っていた。

 

「仕切り直しで、いただこう。だって、記念日は、ケーキを食べるんだろ?」

「改まって食うことっすか……? アンタは常時食べてるし……――そもそも、今日はなんの記念日っすか」

「僕と祈の、家族記念日?」

「疑問形って……思いつきだろ、完全に……」


 ごしごしと目をこすって祈が言えば、獏間は笑った。


「いいんだよ、意味なんて。だって、家族の記念日なんだ。たくさんある方が楽しいだろ」

「――」

「違うのかい?」

「……違わない」

「じゃあ、ほら、今日は家族記念日だ」


 決定と楽しげに笑った獏間ががぶりとケーキにかぶりつく。

 それに釣られたように、祈もケーキを食べて――。


「うまい……」

「うん、おいしいね」


 また、じわりと視界が滲んだ。

 あの頃の甘さが、今日の甘さで上書きされていく。


 ――きっともう、甘い物は嫌いじゃない。


 遠く感じていた日常が、戻ってくる。

 感じていた疎外感が、溶けて消える。

 揺らいでいた自分が――ようやく、地に足をつけた。

 獏間が祈にそうされたと言ったように、祈もまた獏間によって、自分自身の存在を確かな形にした。


 誰かのかわりでもなく、誰かの偽物でもない……。

 自分という存在を、手に入れた。


 そう考えれば、獏間の言う記念日というのも、あながち間違っていないなと思いながら、祈は初めて、ケーキを食べて笑った。

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