幕引き 獏間綴喜・前

 獏間 綴喜という名前で通っているその存在は、特殊な罪を犯した者たちを収容する施設へ足を運んでいた。


 こちら側の法律だけでは裁けない、あちら側の領分まで侵した愚か者たち。

 あるいは、あちら側だけでは満足できずこちら側の領域を乱した馬鹿者たち。

 人であり人であらざる者たちがひしめくそこで、獏間はとある人間の男と面会の予定があったのだ。


 窓のない、札だらけの部屋。

 そこへ連れてこられた男は、獏間がいることに気付くと舌打ちした。

 

「…………」

「やあ。ずいぶん大人しいそうじゃないか。やっぱり、ただの人間になったからかな」

「……誰かさんのおかげでな」

「ははは、感謝の言葉はいらないよ」

「誰が……っ! ――そもそも、獏というのは悪夢を食べるはずだろう、いつの間にか雑食になったようだな」


 男は獏間の挑発にカッとしたようだったが、すぐに主導権を握ろうとして逆に嘲るような態度を取った。


「ああ、そういえばお前……創設メンバーだったか。それなら、僕のことも、それなりには知ってるか」

「――ふん」


 だが、獏間の態度は変わらなかった。

 それは、男が意図していた反応でないのは明らかで、彼は今度こそ不快そうに鼻を鳴らす。


「……それなら……雑食なら――錫蒔 珠緒を食ったなら、どうしてアレも一緒に食わなかった……! あの化け物を……美琴と、俺の息子の魂を食って体を奪った、アレを……!」


 話しているうちに怒りが再燃したのか、だんだんと口調が荒れていく男を見て、獏間はヤレヤレと肩をすくめる。

 これは一度、冷静にしてやらなければと親切心なんて欠片もない気持ちで声をかけた。


「その件だけどさ。お前は、勘違いしているよ」

「……なに?」

「死人返りって知ってる? 死人が生き返るってやつ」

「……なにを今さら。こっちは現物を見せられてるんだ……! アレがそうだろう、息子の体を奪って、おぞましい化け物が――!」

「じゃあ、黄泉がえりは?」

「なにが言いたい!」


 声を荒らげた男を、獏間は静かに見ていた。なにが言いたいって、さっきから言ってるじゃないかと肩をすくめる。これは噛み砕いて説明してやらないとダメらしい。


「魂が返ってくるんだよ」

「……は?」

「向こう側から戻ってくるには、強い思いが必要だ。たとえば、子どもだけは助けたいという今際の際の母親の思いとかね。でも、それだけでは足りない。当然、帰還する者にも代償がいる――そう、生前の記憶とか」


 獏間は人間らしさを感じないと言われる笑みを唇に浮かべる。


「僕が言っていることの意味、分かる?」


 笑顔のままわざとらしく首を傾げると、それまで怒りでどす黒いだけだった男の表情が、不可解そうなものへと変わっていく。

 思った通りの反応に、獏間は気をよくして続けた。


「分かるとして、話を進めようか。……そうするとだ、魂は真っ白になる。生まれ直すわけだからね。……そうして戻ってきた人間は、当然記憶なんてない」

「……馬鹿をいうな。だったら、精神状態は赤ん坊になるはずだろう。アレは日常生活に支障がない程度の常識を持っていたんだ! 調べたんだ、間違いない!」

「なるほど。自分の立場を利用して、個人情報をすっぱ抜いたわけか。……にしても、変なこと言うな、お前。生まれ変わったんじゃなくて、戻ってきたんだから赤ん坊になる必要はないだろう」


 ありえないと言いたげに、男の顔が歪む。


「思い込みって、すごいな。あーぁ、なんでこんなのが、元創設メンバーなんだか」

「俺は……調べたんだ、きちんと――俺の情報が、間違っているわけがないんだ……だから俺は、この手で……」


 わざとらしくため息をついた獏間だったが、まぁいいやと自己完結する。

 一生懸命、己が正当である理由を必死でかき集めている――その時点で、この男は気づいている。いや、気づいてしまった。

 まぁ、そうしたのは僕だけどと内心で舌を出す獏間は、だんだんと顔色を赤から青へと変化させていく男を見下ろす。


「おいおい、物思いに沈むのは後にしてくれよ。僕の用事は、まだ済んでない。あの子の保護者として話をつけに来たんだから」

「――な、に」

「一応、お前は遺伝子上の父親になるからさ。お礼を言っておかないとなぁ~と思って。どうもありがとう、あの子を否定してくれて。ほんとうにありがとう、あの子を捨ててくれて。鏑 幸憲」


 このお礼だけは、獏間 綴喜の本心から言葉だった。

 この馬鹿な人間に、心の底から感謝している唯一のこと。

 

「待て……待ってくれ――お前の話が本当なら、もしかしてアレは……彼は、本物なのか? 俺と美琴の――」

  

 獏間 綴喜は、ガタガタと震えだした男を見下ろして心底楽しそうに微笑んだ。


「お礼に悪夢を贈るよ。眠っていても起きていても、ずっと悩まされる悪夢だ。――わざと情報を隠蔽して、錫蒔 珠緒へ自分の息子を生贄にやった。助けもしないで、今までずっと、傍観していたお前には、ピッタリだろ?」

「違う、彼女には、当時の俺は敵わなかったから――だから、力をつけて……」

「すぐに仲間に助けを求めればよかったのに、特にお前の弟なら喜んで尊敬するお兄ちゃんの手助けをしただろうさ」

「危険なんだぞ……仲間を巻き込むわけには……!」


 その言葉を聞いた瞬間、獏間は表情を消した。


「そんな危険な存在の所に、お前は自分の息子を放置したんだ」

「ちがっ」

「そんな危険な存在だと知っていたくせに、お前は愛する女を行かせたんだ」

「あれは、美琴が――最後だからと」

「危険だと分かっていたのなら、なにがなんでも止めるべきだった。危険があると分かっているなら、そもそもずっと前に引き離し、お前が保護してやるべきだった。それなのに、お前がしたことはなんだ? アレにいらぬ知恵をつけさせて、力を与え、守る対象だった女に手を出して、責任も取らずに逃げて……最後は息子を殺そうとして、被害者面か」


 これ以上獏間の話を聞かないという選択肢もあるはずなのに、男はその場に跪いて処刑を言い渡される罪人のように、青を通り越して真っ白になった顔で獏間を見上げている。

 

「この先は悪夢のような人生を過ごせ、鏑 幸憲。悪夢がおいしく育った頃に、僕が食べに来てやるよ」

「待て! 待ってくれ……祈は――!」

「それはもう、お前が呼んでいい名前ではないんだよ」


 散々に捨てておいて、よく呼べたものだとあざ笑い、獏間 綴喜は重い扉を開く。


「頼む、待ってくれ……! 頼むから――!」


 そして、懇願する男の声を無視して、あっけなく扉を閉めた。

 重い扉が閉まった時に響いた低い音は、中で喚く男にとって絶望の足音に聞こえただろう。きっとこの先も、何度も絶望するに違いない。


 それこそがあの男にとっての、終わらない悪夢になるだろう。

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