幕間 ある兄妹の逃亡
逃げないと。
追いつかれる。
追いつかれたら――。
誰かが必死に逃げている。
小さな女の子と、それより少し大きいだろう少年。
ふたりは手をしっかり繋いで、一生懸命走っていた。
顔立ちは血のつながりを連想させる、よく似た兄妹。
だがその出で立ちは真逆だ。
妹は切りそろえた髪と綺麗な着物を着ていたが、少年の方は髪はパサパサで着物も着古したものだった。
薄汚れた少年と、身綺麗な幼女。
一見不釣り合いなふたりは、ナニカから逃げていた。
だが、子どもの足では逃げ切るなんて不可能で、とうとう少年は足を止め、少女を大きな木の根元にあいた空洞に隠した。
『いいか? あいつらを撒いてくるから、お前はここに隠れてろ』
『兄ちゃん……』
そう言って、少年は駆け出していく。
綺麗な着物を着て、履き物をはいた幼女と違い、裸足のままで駆け出していく。
夕焼けで世界が真っ赤に染まる頃、あちこちで怒号が上がった。
『いたぞ!』
(ああ、兄ちゃんが見つかってしまった)
『いや、いない』
(よかった、きっと獣と間違えたんだ)
『だが、どうする。もう、時間がない』
『こいつ、こんなになっても吐かないぞ』
『知らないんじゃないか』
『でも、連れ出したのはコイツだろう』
(兄ちゃん、兄ちゃん、はやく来て。怖い人たちが集まってきちゃう)
『こいつでいい』
『ああ、そうだ。村のためだ』
『そうだ。仕方ない。こいつを、かわりにしよう……!』
(かわり?)
『逃げた巫女のかわりだ。逃がしたお前が責任をとれ』
(ミコって、ミコのことだ。ミコはここにいるよ?)
『役目があるからいい暮らしをさせてやったのに! お前が余計なことをするからだ!』
『おい! 殺すなよ! 代わりでも、一時しのぎにはなるだろうが、大樹様には〝新鮮な赤〟を捧げなくちゃならんのだから!』
『分かってるさ。しかし馬鹿な奴だ。あんな化け物に肉親の情なんて持つから、身を滅ぼす。自業自得だ』
『あんな――ただの餌にな』
(いやだ。声が聞こえる、痛い音も聞こえる、悲鳴が聞こえる。違う違う兄ちゃんじゃない、兄ちゃんのはずがない)
『かみさま、かみさま、どうか村をお守り下さい』
近づいてくる。
足音。足音。足音。
隠れている大樹の元に、どんどん集まってくる。
『我らをお守り下さい。不届きな巫女を罰して下さい』
『あなたへの捧げ物を盗んだ愚か者を、こちらに差し出しますので』
お願い事をする声はたくさん混ざり合っていて、吐きそうだ。
(怖い人たち、来ちゃった。今日は儀式だって言ってた。夕方から儀式をするって。ミコも出る儀式、ミコはここにいるけど隠れてるから、勝手に始まっちゃった)
『どうぞ、かわりにしてください』
『あなたのために用意しました』
『アレのカワリに――』
大人達が口にする不穏な言葉。
なにかを引きずる音。
草木の匂いに混じる、生臭い匂い。
それに狂わされたように、聞こえる声がどんどんと熱を帯びていく。
おかわりさんだと。
ささげますと。
かみさま、たいじゅさまと。
ソレばかりを繰り返すこの場所は、恐ろしいほどの熱狂の場になっていた。
声だけで、それが伝わってきた。
(……どうしよう、なんだか怖いよ。ここから逃げられないかな……兄ちゃん――……兄ちゃん?)
そっと外をうかがう。
よせばよかった。
そうすれば、きっと知らないままでいられた。
知られないままでいられた。
でも、外をのぞき見て……――見てしまった。
大樹の元へ引きずられた、赤い塊。
それが、獣ではなく人だと気付いた。
自分を「助けに来た」と迎えに来てくれた、兄だと気付いた。
悲鳴を上げた。
気付かれた。
みんなが笑う。
見つけた見つけた、巫女だ。宝だ。我らの捧げ物だ。
ああ、今日はふたつも捧げ物が手に入った。
神様はきっと満足して下さる。
我らのカミは、喜んで下さる。
叫びながら踊りながら笑いながら、手が伸びてきて引きずり出された。
長老と呼ばれていた老人が、にたりと笑って木に彼女を押しつけた。
高らかに、叫ぶ。
『さぁ、我らを守って下さるお方。不届き者だけでは足りないでしょう。これが手塩にかけて育てた巫女です。どうぞ、おかわりを――』
ぶつん。
喉が、痛い。痛くて苦しくて熱い。
叫ぼうとして出たのはごぼりと赤い塊。
それが、びしゃりと飛び散って地面に赤い、花が咲く。
(に、いちゃ……)
なんてことだろう。
棒につるされる兄の体も、同じように……いや自分よりももっとずっと、満開の花のように赤い。
自分も、兄も、世界も、ただひたすら、どこまでも、赤い。
赤くて痛くて熱い。
ぴくりと、僅かに兄の手が動く。
伸ばされる手を、握り返したくて必死でもがく。
――に げ ろ。
か細い声が、そう告げて。
ぶつん。
笑い声と共に切り落とされた。
兄はもう、なにも言わない。
叫ばない泣かない、喋らない。
(兄ちゃん……逃げるって、逃げようって……一緒だって……)
大人達が笑う。
狂ったように笑う。
嫌な臭いが立ちこめるこの場所は、神様に儀式を捧げる神聖な場所だと聞いていた。
いずれ、ミコがここに立つのだと。
そう言われて――ミコの前に連れてこられたと言うお姉さんのミコも、〝たいじゅさま〟について教えてくれたお姉さんミコも、ある日突然いなくなった。
『逃げないと……』
いつだったか、何人かいたお姉さんミコのひとりが言っていた。
ミコはよく分からなかったけれど――喉も顔も体も腕も足も心も、全部が痛い今なら分かる。
ああ、そうだ。
逃げないといけない。
逃げなければいけなかった。
追いつかれる前に、兄と共にどこまでも逃げなくては。
今からでも間に合うだろうか。
(ああ、でも、兄ちゃんもミコも真っ赤だから……)
かわりが必要だ。
自分たちを隠してくれる、真っ赤な花。
それをたくさん用意して、今度こそ兄と逃げるのだ。
この人たちがやったように、たくさんの赤をあちこちに撒いて、分からなくしてしまえば。
(あかいはな、たくさん。オカワリサンをたくさんよういして――)
『にぃ、ちゃ……つ、ぎは……』
次があるなら、オカワリサンの赤い花を。
ぷつり。
それが最後。
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