5

 言われ祈が思い浮かべたのは、顔に蠢いていた文字だった。


「あの、虫みたいな文字……?」

「そう。あの悪いモノは、きみが認識できる人間だと気付いた。そして、良心的行動で干渉してきた姿を見て、大きな刺激を受けた――わかりやすく言えば、大興奮だね。結果、パン泥棒は暴走した。だから、スーパーの一件は、きみのせい」


 言い掛かりだと言ってしまえればよかったが、祈は黙ることしかできなかった。


「他にも、色々と覚えがあるんじゃないか?」


 獏間の指摘通りだったからだ。

 パン泥棒の時、店長にも言われたが、自分がいる時に限って……ということがこれまでも多々あった。


 祈は、自分が人の心の声が見えるから、そういう事に気付いてしまうのだと思っていた。

 水面下ではそういう悪いことがあちこちで起きていて、でも、普通は顔に書いていたりしないから気付かれないだけだと。

 だから、ある意味、自分は間が悪いだけだと。


 だが、獏間の言い方では――。


「きみがそこにいるだけで、悪いことは起こる。どんなモノでも、存在を認識されるということは、力を手に入れる上での大きな一歩だからね。姿形が不安定なモノにとって、見える存在は貴重というわけだ。無防備なら、なおのこと」

「……それと、珠ちゃ……叔母に、なんの関係があるんですか」

「だって、きみに存在を認識させたいんだよ? それなら、一番てっ取りばやい方法は近しい者の利用だろう?」

「――は?」

「育った〝悪いモノ〟は知恵もある。きみの関心を得るための、涙ぐましい努力だよねぇ」

「……待って下さい。叔母の行方不明は、俺のせいで――その理由はオカルトちっくな怪奇現象のせいってことですか?」

「んー……まぁ、ざっくり言うと、そうだね」

「ふざけてんのか、あんた!」


 思わずテーブルを強く叩いた祈だが、獏間は微動だにしない。


「いやだな、ふざけていないよ。いたって真剣、真面目だよ。そもそも、僕はそういった変わり種が飯の種だ。……僕が信用できないというなら、きみの叔母を探し出してあげようか?」

「は? なに言ってんだ?」

「お代は結構だ」

「……そんなの、アンタになんのメリットがあるんだよ」

「ははは、もちろん有るよ。言っただろう? 変わり種こそ、僕の飯の種だって。そのかわり、きみにも協力して欲しい。そして、きみの叔母さんを見つけ出せたら……どうだい? 正式に、ここで働かないか」

「…………本当に、珠ちゃんを見つけられるのか?」

「ああ。きみが協力してくれるなら、という前提だが」


 うさんくさい。

 けれど、それ以上に――。


「……分かった。珠ちゃんは、俺にとって親代わりも同然の人だ。あの人たち……祖父母にとっても、ひとり残った大事な娘だし……無事に見つかるなら、協力する」

「それはよかった!」

「ただし……金もちゃんと払うんで」

「うん? それは本当にいらないよ。これはあくまでも試金石だ」


 叔母の安否がかかっているのに試金石扱い。

 祈は、さすがにその言い方はどうかと首を横に振る。


「――仕事を頼むなら、対価を払う。そうじゃないと、俺は安心してアンタに協力できない」

「う~ん……分かったよ。そっちの方がいいというのなら、後払いということでいいかな?」


 祈が頷くと、獏間はにこりと笑った。


「それなら、今日からきみと僕は協力者だ。――よろしく頼むよ……あぁ、そうだ、名前を聞いてなかったな。――なんて呼べばいい?」


 そういえば、この男の名前は名刺までもらって知っていたのに、自分は一度も名乗っていなかったと思い出した祈は、一応の年長者に向かって頭を下げた。


「錫蒔 祈です」

「…………」


 しかし人の名乗りに文句があったのか、初めて獏間は真顔になった。


「……君、今のそれ、本名か?」

「は? 自己紹介するんだから、そりゃ本名に決まってますよ」


 そもそも本名以外なにを名乗れというのだと祈が顔をしかめていると、獏間は真顔を崩さず言った。


「老婆心ながら忠告すると、本名を教えるのは止めておいた方がいい。名乗るなら、せめて名字程度に留めておくのがいいよ。きみのようなタイプの人間はね」

「――は?」

「僕は、なかなかに善良で出来る男だから、今の自己紹介は聞かなかったことにする。なので、テイク2いこうか」

「テイク? いや、あの、俺は――」


 なにを言っているんだ、この男は。

 そう思った祈に対し、獏間は子供に言い聞かせるような口調で続けた。


「いいかい? 名前は大事なモノなんだ。名は体を表すというように、正しく名を紡ぐと言うことは、存在を正しくとらえるということに他ならない。つまり――正しく綴られた名前は、相手の全てを把握し支配できる鍵ということになる。だから、みだりに名前を明かしてはいけない」


 なにやらとても大仰で大切なことを言っているようだ。

 しかし、あいにく祈にはさっぱり分からない。

 意味不明だ。


「あの、すいません、言ってる意味が、よく分かんなくて。――自己紹介にフルネームを言うのは、常識じゃないっすかね?」

「常識は常に疑ってかかりなさい、勤労青年。――ソレは所詮、人の輪の中でだけの話だ」

「…………」


 言葉を交わせば交わすほど、妙だ。


(なんだ、この人……いや――)


 目の前の存在は、本当に人か?

 そんな思いにかられ、祈はまじまじと獏間の顔を見てしまった。

 すると、獏間は「ああ、それも」と言って苦笑を浮かべた。


「その癖もほどほどにしなさい。――無駄だから。その不完全な眼では、僕を見破れない」


 テーブルを挟んだ向こう側から身を乗り出した獏間に「さっきも言っただろう」と内緒話をするように吹き込まれた祈は、ぞっとして仰け反った。


 そのまま、危うくソファの裏側に転げ落ちそうになり、なんとか持ちこたえる。

 その一連の動作を見ていた獏間は、淡い微笑みを浮かべていたが――。


「ふふ」

「……?」

「ふふふ、くくくっ!」


 急に口を押さえたかと思うと、肩をふるわせ、テーブルに突っ伏した。


「あ~面白い!」

「……は?」

「いいなぁ、純だなぁ。こんな素直な反応、久しぶりに見たぁ~! アレらが寄っていく気持ちが、少しだけ分かる。これはいい!」

「あ、あの?」


 目に涙をためて大笑い。

 完全に笑いのツボに入っているが、祈には笑い所がさっぱり分からない。


「あの、獏間さん?」

「あ~? あ、すまないね。えぇと……そうだな、じゃあスズ。きみのことは、スズと呼ぼう。どうしたんだい、スズ君」

「いえ、あの……ただ、よろしくお願いしますと言おうと思っただけっす。……あと、さっきは怒鳴ってすんませんでした」


 獏間は全く気にしていないようだったが、祈は少しだけ気になっていた。

 相手にどれだけ無関心でも、怒鳴られるのはやはり不快だろうから。


「……きみ……」


 ポカンとした獏間は、また肩をふるわせた。


「よりにもよって、この状況で言いたいことがそれなんて……! くくくっ、本当に、面白い――あんなの、怒鳴られたうちに入らないよ。笹ヶ峰刑事なんて、顔を合わせた途端、怒鳴り散らしてくるからね。ご丁寧にありがとう。それから……こちらこそ、よろしく頼むよ」


 差し出された手を、祈は何気なく握り返した。


「ふむ。ためらわないか。……無防備で、危ういな」


 ぽつりと呟かれた獏間の声に、祈は「はい?」と聞き返す。


「いいや。物怖じしないと思ってね。――叔母さんは、必ず見つかるよ。大船に乗ったつもりでいるといい」


 なにせ、きみは大事な飯の種だ。


 そう続いた言葉は、やはり祈にとって不可解だった。

 だが、獏間はそれを詳しく明かそうとはしないまま、景気づけといって祈を以前と同じコーヒーショップへ連れて行ったのだった。

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