5

(なんだ、あれ? なんで、あの人、なんで……!?)


 足早に帰路を歩きながら、祈はコーヒーショップでのやり取りを思い返した。

 まだ背中が寒い気がするし、頭の中は混乱していて上手くまとまらない。


 だが……。


(分かるはずないのに……。俺が、やらかした奴を区別出来てるって、普通は気付かないよな?)


 普通は理解されないはずの現象だ。

 だから、周りからは勘違い正義感を振りかざしているとウザがられ、バイトは長続きせず、こんなことになっている。


 ――この世は、わりと生き辛い。

 見てはいけないものが多くて、指摘してはいけないものが多くて。

 最悪な結果を生むと予想が付いても、右にならえして、知らない振りをしなければいけない。


 錫蒔 祈は、それが出来ない人間だった。

 人の心の声が顔に書いてあるなどと、ありえない。

 確実に、見えてはいけないものだ。


 件の万引き犯を筆頭に、そこかしこに浮かんでいた悪意の声を無視し続ければ、当たり障りないバイトとして、もう少し続いただろうに。

 

 それを指摘してしまうから、祈は青臭い正義感を振りかざすだけの勘違い男になってしまう。


 そして、他者が祈が不正に気付く理由を理解することはない。

 不可能に近いことだ。

 だから、煙たがられる。


 ――それなのに、今日会ったばかりのあの男、獏間は示唆した。


 なんの文字も浮き上がらない綺麗な顔に、静かな笑みを浮かべて「お前が何を見ているか、分かっているぞ」と暗に示した。


 理解者や同類と喜ぶ前に、ぞっとした。 

 同時に、ああ、なるほどとも思った。

 周りもこんな気持ちだったのかと。


 自分の秘密を知った風な態度で近づいてくる、得体の知れない奴。

 周りから見た自分も、こうだったのかと考えた。


 でも……と、祈は獏間の顔を思い浮かべる。


(あの人は、違ったのかもな……)


 自分と違って、獏間は単純に、喜んだだけだったのかもしれない。

 似たような体質を見つけて、苦労を分かち合えるとおもっただけ……なのかもしれない。


(あ~……ねーわ)


 一瞬で結論が出た。

 どれだけ良い方向に考えようとしても、獏間の微動だにしない笑顔を思い出すと、全くそうは見えなかった。


(そもそも、顔には薄文字すら出てなかったし。俺が見逃した? いや、それにしたってあの雰囲気は……謎の圧があって怖かった……)


 見えないモノに振り回され苦労している人間が、同類を見つけて大喜び――好意的に解釈すればそうなるが、獏間の雰囲気は苦労を分かち合いたい態度ではなかった。


 それほど強く気持ちが動いたのなら、祈ならば見えるはず。

 だが、あの顔にはなにもなかった。


 それどころか、怖かった。

 思わず目をそらして逃げ出してしまうほどに。


(……バイトかぁ)


 探偵……獏間はそう言っていたが……。


(俺は、人に接しないバイトの方がいいかもな)


 相手の本音が分かっても、なにもいいことはない。

 善意だけなら、もっと楽だったのに――祈が目に付くのは、相手がもっとも隠しておきたいだろう、褒められるべきではない心の声。


 見る方も、暴かれる方もしんどい――今日の、些か暴走が過ぎた万引き犯の男を思い出し、祈は獏間からの誘いを脳内から追い出した。


 きっともう、あの不思議でほんの少しだけ怖い男に会うことはないだろうと思いながら。


 ――そして、誰も待っている人などいない、一人暮らしのアパートに到着する。

 階段を上り、自室の鍵を開けようとして、すでに鍵が開いている状態だと気付く。


(は? 俺、ちゃんと戸締まりしてったよな?)


 ドアノブをひねると、中から食欲を刺激する香辛料の匂いが漏れてきた。


「おかえり、祈」

「……珠ちゃん?」


 ドアを開くと同時に姿を現したのは、叔母である珠緒だった。

 祈の母親の妹――祖父母の家に引き取られたときから、なにくれとなく面倒を見てくれる相手だ。


「なんで、ウチにいるの?」

「かわいい祈の顔を見に来たらいけない? 祈ったら、滅多に家に帰ってこないじゃない」


 お玉を片手に不満を口にする珠緒に、祈は苦笑を浮かべる。


「だって、あの人たちは俺の事嫌いじゃん」

「まさか! 祈のことを嫌うはずないでしょう!! お父さんとお母さんにとって、祈は孫なんだし、姉さんの大事な忘れ形見なんだから」


 優しく笑う珠緒だが、祈はなんと言っていいものか迷う。


(あの人たちは、俺を嫌ってるよ。だって、見たから)


 そんなこと、珠緒には言えない。


 彼女は――それこそ祈が祖父母の家に引き取られてからずっと、母親を失った甥っ子に対して好意的だった。


 祈に優しい言葉をかけて、裏では悪意に満ちた言葉を吐いていた――なんてこともない。

 子どもの頃、叱られるときはやはり顔に「悪い子」といった文字が浮かぶことはあったが、その程度だ。

 いつも祈が祖父母と歩み寄れるようにと骨を折っている人だった。


 結局、祈は優しい叔母とそれ以上口論したくなかったので、祖父母の話題を避け、部屋に漂う匂いについて指摘した。


「あ~、この匂い……。カレーかぁ~」

「そうよ、祈の好物。あなたったら、私が作ってあげないと、ろくにご飯たべないんだから」

「ちゃんと食べてるよ」

「あら、カップラーメンとインスタントラーメンの買い置きしか、見あたらなかったけど?」

「う、それは……たまたま、安かったから……」

「もう」


 しかたないんだからと目を細めて笑う珠緒だったが、ふとその表情が曇る。


「……祈」

「ん?」

「あなた……その顔、どうしたの?」

「顔? ――あ」

「誰かに殴られたの? やだ……警察、その前に病院に行かないと……!」


 血相を変えた珠緒に縋られて、祈は苦笑いを浮かべたまま首を横に振った。


「たいしたことないって」

「だって、顔が……祈の顔が――」


 珠緒は、昔からこうだ。

 愛情が時折行き過ぎるといえばいいのか、暴走する。

 母親を亡くした甥っ子を可哀想に思い、引き取られてきた祈をたいそう可愛がった。


 当時、珠緒はまだ二十代前半だったというのに、孫に距離を置く両親の分も祈の親代わりを務めようと気張っていたのかもしれない。


 昔から祈がケンカして少しでも怪我をすれば、大いに動揺し、時には相手の家に怒鳴り込みに行く――それが、珠緒だった。


 だが、十九にもなって同じ事を繰り返すつもりはない。


「平気だって。ちょっとバイト先で厄介なお客さんがいただけ」

「厄介って? どんなの?」

「ブーッ、守秘義務でーす」


 ことさら明るく祈が言うと、珠緒は強ばっていた表情をぎこちなくも笑みに変化させた。


「も、もう、祈ったらふざけて」

「それより珠ちゃん、腹減った」

「はいはい。ご飯にしましょうね」


 愛情に溢れた人。


 珠緒を見れば、みんなそう思うだろう。

 甥っ子の母親代わりを立派に務めた、出来た女性――感謝しないといけないよ、と隣近所の人は祈を捕まえると必ずそう言った。


(言われなくても分かってるっつーの)


 珠緒は心の声と口に出す声が、一致している人。

 とても付き合いやすく、信頼出来るはずなのに――祈は時々思ってしまうのだ。


 珠緒のそばは、息苦しいと。


 それでも、そんな罰当たりで恩知らずなことを口に出せるはずもない。

 だから、心の中でだけ、祈はいつも考える。


 ――この世は本当に、生き辛いなぁ、と。


 珠緒の作ったカレーは、やっぱり今日も甘かった。

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