男としての苦悩、或いは天国

「え、先生が何かしおらしくなって帰ってきた……」

「湖岸先生、何かあったんですか?」


「…………」


 つい敬語を忘れる夜枝と、只々状況を理解出来ないでいる錫花に対して迫真の沈黙。俺に手を引かれて後ろを歩く様子はとても貫禄ある大人とは思われない。本当に夜枝くらいの女の子に見えてきた。

 ともあれナンパから先生は救出出来たので一人で待ちぼうけを食らう冬癒の下へ戻ろう。もしかしたら一人で泳いでる可能性はある。

「それにしても、センパイって周りから見たら羨ましがられるんじゃないですか? クスッ♪ だって、こーんな美人に囲まれてるんですから!」

「言いたい事は分かるけど、錫花でトントンだろ。普通に怪しい」

「言いたい事は分かるけど、身体でトントンじゃん。普通にえっち」

「被せるなよ」

 どちらにせよ視線は集める。夜枝はまるで自分を省いてしまっているが、顔の綺麗さで言えば彼女も人の事は言えない。すらりと細く伸びた足も含めて人形のよう。先生を説得している間、三人からナンパされたらしい。

「でも普通に断ったんだな」

「私センパイ以外には興味ありませんので♪ 先生みたいにホイホイ付いて行くなんてナンセンスな真似はしませんよ!」

「う、うぅ。だって仕方ないだろ……最近の若者は押しが強くてさ……年齢言っても全然引いてくれないし」

「先生が美人なのはマジで事実ですからね」

「やめて! もうやめてそれ! …………じ、自分でもどうしたらいいかわからなくなるから!」

 先生は遂に褒め殺しを拒絶する様になった。だが事実は事実で、お世辞を言ってはならないのなら事実だけを伝えるべきだ。一応本人が求めていそうな否定……になるかは分からないが……巨乳にコンプレックスがあるのか、水着で寄せ上げて、いつもの三割増しくらいで大きく見える。谷間だって十分見える。ただ天然物には及ばないだけ。

 言える事はこれくらいしかない。歩くだけでばるんばるんと揺れる錫花の横乳に邪なノイズを感じながら、設置したテントが見えてきた。一々ホテルに戻るよりは合流もしやすいし設営して正解だったと思う。

 


 ただそこで同い年くらいの男子からナンパされる冬癒は視たくなかった!



「は? ナンパ多くね?」

「うーん。冬癒ちゃん可愛いですからね!」

「そういう問題じゃねえだろこれ! いーや信じねえ! 何か原因がある筈だ! 冬癒! おいちょっと!」

 兄である体でもないが、話に介入して男子を追い払った。仲良さげなら見守るのもありだったが、普通に迷惑そうだったのでアウト。テントの中に逃げ込もうとする妹の腕を掴むなんて言語道断だ。

「お兄ちゃん、遅いッ」

「いや、うん。御免。でもナンパ受けるなんて思わなかった。まさかよりにもよってお前が」

「あれれ。なんかお兄ちゃんに凄い失礼な事言われてるような。でも私もびっくりした! こんな事本当にあるんだッ」



「……呪いの影響かな」



 ここまで借りてきた猫よりも大人しくついてきた先生は突然正気に戻ると、手つかずだった残りの浮き輪やボールに空気を入れ始めた。冬癒の隣にあるのを見て膨らまそうとして失敗した流れを察したのだろう。確かにこの手の道具は、肺活量に自信が無いと苦戦しがちだ。

「あ、先生だ! 凄い可愛い!」

「ぎゅふん…………!」

「ああやめてやってくれ冬癒。この人褒められるのに慣れてなくて調子がおかしくなるから。それで先生。影響って言うのは?」

「…………………確証はないんだけど、ほら、女子に声を掛けられてないだろ。そもそも近所とも言えないから当たり前なんだけどさ。そして私達は影響下にありながら相対的にはまともな方だ。でも呪いの影響は着実に受けている。だからもしかしたら、影響範囲にあって、誰も新宮硝次君を害せない場合はこんな形になるのかなって」

「何の話?」

「お前は知らなくていい。別にみんながナンパされても俺を害す事とイコールにはならないような」

「一対一ならばともかく、一対多の願いはそう望み通りには動かないっていう話があっただろう? だから可能性として、望みが重なった結果こうなるのかもって」

「ははあ……成程。まあ……でもこれくらいだったら気にしないでも良いかな。無事合流出来たわけですし、改めて遊びましょうか!」

「はいはいはいはい! 水中でバレーしたい!」

 流石センパイの妹♪ センスあります! 錫ちゃんは視界的に大丈夫なの?」

「問題ないです。一応、息抜きですから。今は遊びましょう」

 錫花は俺の手を握って、見上げるように前傾姿勢を取った。

「ね、新宮さん」

「お、おう」

 視線は遥か遠く。底なしに感じられる谷間に釘付けとなっていた。錫花はガスマスク越しに笑みを漏らしながらパレオを外すと、夜枝と一緒に俺の手を引いた。

「さあ」

「さあ!」



「「楽しみましょう」!」



 呪いの事なんてどうでも良くなるような青春。一夏の思い出とやらは濃厚で、忘れられる筈のない記憶となる。

「……二人共、泣くなよ。俺は強いからな!?」

「お兄ちゃん浮き輪! 浮き輪ないと溺れるよ!」

「お前だけだそれは! 所で先生は泳げるんですか!?」

「勿論。友達にね、ずっと付きっきりで教わった。好きな人と一緒に泳ぎたくて」

 遅れて先生が海に足を踏み入れる。気合いの入った拳は高くボールを打ち上げ、次に誰が取るかは予想もつかない。上を向いているせいで俺は水に足を取られた。次に主導権を握ったのは浮き輪ボートを踏み場に飛び上がった夜枝。

「まあ、いいんだよそんな事は。今は楽しもうじゃないか!」

「お、先生ノリが若いですね~!」

「煩い! みんなでわいわいしながらやるのが初めてだから楽しいだけだ! 私も思い出が欲しいんだよお!」

「…………ふふ」



「…………ふふふ、ふふ」



 たまたま距離の近くなった錫花から、心底愉しそうな笑い声が聞こえてくる。目の前の喧騒に比べれば静寂に等しかったが、聞こえている俺まで、つられて笑いが零れてきた。

「錫花、パス!」

「―――はいッ」

 こういうの。

 こういうのだ。

 ただ脳死で俺を『好き』と言うのではなく、当然の物として肉体関係を結ぼうとするのではなく。体験を共有してくれる存在。俺がアイツを好きになった理由はどんな体験も共有してくれたからで、隼人を差し置いて俺を好きになってくれたなら、アイツの理由だってきっとそうだ。

 遅れた青春を取り戻す。

 そう言う意味なら先生も俺も似た者同士で。


 この気持ちも似通っていると信じたい。
















「何だかお腹空きましたね」

「それこそ海の家で一休憩しましょうか?」

「いえ。私はテントの中で休みたいです」

「じゃあ今度は私が買ってきます♪ 冬癒ちゃん、行こっか♪」

「はーい!」

 時刻が正午を回るまで考えなしに遊んだ。これは午後の部が始まるまでの小休憩に過ぎない。一番疲れているのは俺だろう。バレーの後に始まった隠れ鬼ごっこに苦労させられた。夜枝の泳ぎが早すぎて、捕まえる事が出来なかったのだ。

「あー……水の中に居たのに暑いってヤバいな」

「お疲れ様です」

 錫花に膝枕してもらいながら、テントの中で涼んでいる。先生はというと年齢で自虐しているにも拘らずそれ程疲れていない事に衝撃を隠せず、ビーチチェアに背中を預けて寛いでいた。わざと疲れた振りをしているのだ。

 褒め殺しにされてからというもの、先生の奇行が止まらない。

「…………楽しいです。今日は来て、良かったと思っています」

「それは俺もだ。夜もどうせ沢山遊ぶんだろうな。なんて思うと今からワクワクしてる。本来の目的とかマジで忘れそうだ」

「…………休むまでに胸を八三回、太腿を二〇回、手を三五回、腰を六一回、お尻を七四回、臍を七五回、首を四回」

「……それって」

「………………」

 皆まで言うな。


 分かってるんだ。


「…………近くに誰も居ないから言うけど、悪い。お前と夜枝と先生に囲まれて興奮が止まってない。いつにないハイテンションは多分それが混じった」

「素直なんですね」

「言い訳しようがないだろ」

 揺葉の時から詰められて足掻けなさそうなら降参する根性が染みついている。むしろどういう言い訳をすれば完璧に威厳が保たれるのかを聞かせて欲しい。どうせ無理だ。余程純真でもないと信じてくれない。

「いえ、素直なのは良い事です。別に嫌じゃありませんから」

「…………か、数えられてるのは複雑だぞ」

「それは、すみません。当主様も数えていらしたそうなのでつい。でも、霧里先輩ではないですけど、私も新宮さんに見せたくて、ここに来たんです。本当はもっと色んな水着見せたくて。その……何て言ったらいいか分かりませんけど」

 膝枕から解放される。上体を起こすなり、錫花は俺を抱きしめて、耳元で囁いた。

「き、気にしてないですから」

「…………あんまりそういう事言うと、本気にするぞ」

 背中を抱きしめる。ビキニの紐をほどきたい衝動に駆られながら、最後の理性で抑え込んだ。




「貴方がメロメロになってくれるなら、私。本望です。水着は全部、新宮さんに惚れてもらいたくて、選んだので」

 







「お待たせしました♪ ナンパは流石にされませんでしたよ!」

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