果ての大陸へ
■
(勇者?これが勇者ねえ…)
ヨハンの顔には余所行きの笑みが貼り付けてあったが、その心中には疑念という名の乾いた風が吹き荒んでいる。
ヨハンの目から視て、勇者を自称するクロウという青年はどこからどう視ても勇者らしく無かった。
優れた魔術師は人物を観る事に優れていると言う。
勿論相手の全てが分かるわけでは無い。
例えるならば、剣の形状を見てそれが狭い場所で振り回す目的の得物なのか、戦場の様な広い場所で大きく振り回す目的の得物なのか分かる程度のものだ。
当然何がどう分かるかは個人差がある。
ある者はその得物の材料となった金属の種類が分かり、またある者はその得物を打った鍛冶師が分かると言う様に。
勿論これは硬そうな金属だ、くらいの事しか分からないヘボもいるが、ヨハンはそうではなかった。
魔力を這わせ、相手の精神の核にまで浸み込ませ。
そうして他者の精神世界に自意識を投影する内心透徹の業は、熟練の詐欺師が裸足で逃げ出すほどに磨き抜かれている。
魔術的な理屈で簡単に言えば、相手を知りたいという強い想いが実現しているという形だ。
ヨハンはクロウの素性について頭からまるきり疑っているわけではないが、余りにも勇者らしくないクロウに疑念が無いわけでもない。べろんべろんに酔っぱらっている酒精中毒者を見て、“彼は禁欲的な聖職者です”などと言われても誰がそれを信じるだろうか?
ゆえに真偽を問うべくその精神世界に視線を向けると…
§
ヨハンは視た。
勇者クロウの内なる世界を。
沢山の墓標が数知れず立ち並んでいる不気味な世界だ。
地平線の果てまでも広がる墓標の世界を覆うのは、生ぬるい闇色の霧である。
墓標には何が刻んであるのだろうか?
ヨハンが精神を集中させてそれを確かめようとすると、傍らから細い指が伸びてくるのを感得する。
見よ。
いつの間にか眼前に冷たい怒りを彼に向ける女が立っているではないか。女の着ている黒衣が荒涼とした風にたなびき、風に乗って甘酸っぱい香りがヨハンの鼻に届く。
──花の香り
それは女の吐息であり、死招く魔香であった。
ヨハンの精神を強烈な希死の念が浸食していく。
女は怒っているのだ、愛する主であるクロウと自身の世界に土足で踏み込んできた無粋な者に対して。
勇者クロウの愛剣、コーリングは主であるクロウを愛している。それはあくまで剣としての愛情であり、人間の男女のそれではないが、それでも愛は愛だ。
コーリングは後世において邪剣と呼ばれる事になるが、この理由としては持ち主に災厄を呼び込む点にある。常人では乗り越えられない死戦、死闘、常軌を逸した試練を呼び寄せる。剣の持ち主は死ぬ…これは彼女の魔剣としての側面だ。
しかし、彼女には護剣としての側面もある。
自身が招き入れた災厄から主であるクロウを護ろうとする。
コーリングは意思を持つ魔剣というよりは、剣の形を取った邪悪な精神体と言った方が良く、この精神体はクロウの精神世界に深く食い込んでいる。これは俗に言えば“呪い”という状態であり、それもクロウ以外の者にとっては命にかかわる強力な呪いであった。
これは余談だが、仮に余人が魔剣コーリングを持てば、次々襲い来る災厄に身を滅ぼす事になる。
手放す事は出来ない。なぜなら囁き声がするからだ。
あなたは英雄だと。試練に立ち向かえと。
そんな甘い声が精神を浸食し、持ち主は正気ではいられなくなるだろう。
剣は護ってはくれない。
彼女が護るのは主であるクロウただ一人のみ。
女性に化身したコーリングはその青白い腕をヨハンの顔へ伸ばし、鋭い爪がズブズブと眼球に突き込まれていく。
ヨハンはそれを厭うでもなく、残った瞳でただコーリングを見つめていた。
──無粋を詫びよう
ヨハンが言う。
すると、表情に冷たい怒りを浮かべていたコーリングは動きを止め、ゆっくりとヨハンの眼窩から指を引き抜き…くるりと背を向け去っていった。
次はないぞ、と言いたげな背中を見送り、ヨハンは自身の精神をクロウの精神世界から乖離させ、元の世界へと立ち戻る。
それ以上潜れば、もはや互いの精神と精神、どちらを滅ぼすかという話になってしまう。ヨハンとしてもそれは望む所ではなく、単なる好奇心の代償としてはやや支払いが重いものになってしまった。
・
・
・
むっ、とヨハンが呻いて片目を押さえた。
指の隙間からは血の様な液体が流れている。
「ヨ、ヨハン!?」
ヨルシカが慌てて駆け寄り、ヨハンの血を拭うなりクロウを険しい目で睨みつけた。
ヨハンとクロウが目線を合わせてすぐ、ヨハンが傷ついたのだ。ヨルシカには二人の間で何があったかはっきりとは分からないが、
彼女は例え相手が勇者であっても、恋人を傷つけられて黙っているような女ではない。
「君は…何をしたんだい?」
恋人を傷つけられたヨルシカの怒りは、密閉された空間で燃え盛る炎のごとく燃え上がり始めた。熱と圧力が次第に増していくその様子は、まるでバックドラフトが起こる直前の瞬間だ。外界からの酸素の供給を切り離された炎は息を潜めるが如く静かに燃え続け、その内部の熱エネルギーが限界に達するまで待ち受けている様に見える。
そんな彼女を、クロウは寒く薄暗い病室を連想させるような冷えた視線で見つめていた。寒々しい月光に照らされた荒野に緊迫感が漂う。彼がヨルシカの精神世界の扉を開けば、彼女の怒りの炎が逆流してクロウを焼くだろう。ちなみにクロウ本人としては、何のことだかさっぱり分かっていない。冷えた視線というのもクロウの目は死んでいる為、そこから発される視線も死んでいて当然である。
なぜ目の前の女は怒っているのか?
なぜヨハンという魔術師が血を流しているのか?
クロウにはさっぱり意味が分かっていない。
彼には魔術の素養は無く、精神の不安定さから生み出される膨大な魔力は身体の強化に回すしか能が無い。
周囲の者達は止めようともしない。
ランサックという黒槍を担いだ戦士はどこか面白そうに隣に立つ大柄の剣士…ザザに話しかけている。
──おい、みろ。クロウの奴、早速揉めたぞ
──魔術師の方が何かちょっかいでも仕掛けたのだろう。クロウは基本的に受け身だ。床の上でもそうなのかは知らんがな
タイランとゴッラは妙に気が合ったようで、そこにケロッパも加わって何ともアンバランスな三人組が何やら談笑している。
ヨルシカは恋人を傷つけられて怒ってはいたが、刃傷沙汰にしようとまでは思っていなかった。その辺りの心情が周辺の勇士達も感得していたのだろう。
ヨハンも自身の迂闊な内心透徹で火傷を負った事を理解していた。
だがそれはそれとして…
「い、いや…大丈夫だヨルシカ。心配させて悪かったな。許可なく侵入ってくるなと叱られてしまったよ。あれは俺が悪い。それにしても成程…聖剣は担い手の身体能力のみならず、その精神も庇護するという…。あの女が君を護る聖剣の意思という事か…」
ヨハンはそう言いながら目を押さえていた手を外した。
片方の瞳が真っ赤に充血し、目の端には血の雫が浮いているが、ヨルシカが気づかわし気にそれを見ている内に血が止まり、充血も消えていく。
精神への打撃はその程度により肉体へも反映されるが、精々が100の内10と言った所だ。ヨハンの様に実際に負傷をするというのはこれは並々ならぬ事で、常人ならば精神崩壊をしてもおかしくない。
「すまないな、勇者殿。不躾に君を覗いてしまった事を詫びよう。それにしても君もすみに置けないじゃないか。心に女性を住まわせているとはね…ん?ほうほう、威嚇しているな?警戒させてしまったようだ」
ヨハンの視線がクロウの剣…魔剣…聖剣コーリングに注がれる。
コーリングは鞘の中でガチガチと震え、暴れている。
剣から勝手に飛び出すのを防いでいるのはクロウだ。
「すみません、うちの子が。少し興奮しているみたいです」
クロウがぺこりと軽く頭を下げる。
それを見て“おや”とヨハンは思う。
彼が見た所、クロウはもう少し壊れていてもいい筈だった。
(精神にあんなモノを飼っていて正気で居られるはずがない)
ヨハンはそう思うが、それにしてはまともだったからだ。
それはすなわち、この自称勇者が勇者の精神に巣食っている女の形をした怪物より遥かにイカれているからという事だ…そのようにヨハンは考察する。
「気にしないでくれ。きっと魔王を斬りたくて仕方がないんだろう、良い魔剣は…いや、聖剣は日常的に血を求めるものだ。勇者の得物としてふさわしい。この剣の主である君も勇者にふさわしい狂靭な精神を持っている様だな。頼もしい。魔王討伐への希望が増して来たよ」
ヨハンは一つ二つ頷いて邪悪な笑みを浮かべながら言う。
彼は勇者クロウの壊れっぷりを頼もしく感じた。
なぜなら魔王との戦いは恐らくこれまでにない地獄を見るはずだし、過酷な環境下では常人はすぐに廃人へと変わるのが常だからだ。だが最初からぶっ壊れているなら何も問題はない。
そしてクロウも自身に好感を表明するヨハンに良い印象を持つ。
これには他意はない。クロウが単純なだけである。
ちなみにクロウはヨハンが内心を窃視した事は知らない。
しかし初対面の相手の前で得物がガタガタと震えているのだ、これはもう斬りたがっていると思われても仕方がない。
クロウは色々あってイカれてしまっているが、イカれている中にも前世日本人の残滓が残っていた。
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なお、そもそも勇者クロウは勇者ではない。
四代勇者は上魔将マギウスにより殺害され、五代勇者は選定されたものの、その対象はクロウではなくフラウという少女〈別作、白雪の勇者と黒風の英雄参照〉である。
ちなみに上魔将マギウスによって聖剣も破壊されている。
勇者の選定は光神が行っているが、既に光神に自意識はなくこれは自動的に行われている。意識がない理由は法神が光神の信仰を簒奪した為。選定の度に光神は力を割く事になり、五代勇者が最後の勇者になるだろう。
ただし、クロウは自分自身を勇者だと思い込んでおり、勇者として強くなるための条件も自分なりにこねくりだしている為に、少なくとも四代勇者に見劣る事はない。
東西の両国の上層部にもこの事実を知るものは少なく、ルイゼ・シャルトル・フル・エボンはその数少ない一人である。
■
「クロウ、ヨハン、自己紹介は済んだ様ですね。それでは皆さん、こちらへ来て下さい」
ルイゼがやや呆れたような表情で言うと、空を見上げる。
蒼褪めた満月に暗雲がかかりつつあった。
暗雲はまるで空の一点から際限なく湧いてくる様に、瞬く間に空を覆いつくしていく。
それがただの暗雲でないことは明らかであった。
ぴょこぴょことケロッパがルイゼの隣にやってくる。
「久しぶりだねルイゼ!それにしても全然変わらないねえ君は!最後に会ったのはいつだったかな!君はまるで年をとらない様に見えるよ!時の神を脅迫でもしているのかい?」
ケロッパの口調は快活で、軽く、楽し気だ。
しかしそのつぶらな瞳の奥には実験動物を見る時のような無機質な好奇心の光が宿っていた。
彼はある意味でこの場の誰より残酷だった。
未知を既知とする為に良識が邪魔になるとしたら、ケロッパは喜んでそれを捨て去るだろう。
ルイゼはケロッパのそんな気質を良く知っており、決して口には出さないが、彼が魔族などより危険な存在になりうるとすら考えていた。
ルイゼはこの世界に、いや、この星にかつての故郷を重ねて幻視する。
ケロッパの様な者は世界の発展を促進するだろうが、逆に滅びを早める事もあるという事を彼女は知悉していた。
──まあ、その時は消せばいいだけの話ですが
ルイゼはそんな内心をおくびにも出さずに淡々と答える。
「時の神など居ませんよ、術師ケロッパ。そして私も年は取ります。ただ、余人より年を取りづらいだけの話です。老化は節理、そして理であるなら解き明かせない道理はない。貴方たちもいずれは同じ事ができるようになるでしょう…」
ルイゼはケロッパに答えると、やおらまるで月を握りしめるかのように天に手を差し伸べた。
開いた手が握りしめられる。
夜気と月光がルイゼの手に握りしめられ、混ざり合い、拡散し、その場の者達の身体をきらきらと光るなにかが纏わりつく。
これは?とラグランジュが尋ねた。
「光学迷彩…といっても分からないかもしれませんが、幻術だと思ってくれて構いません。簡単に言えば私たちの姿は見えなくなります。ただ、余り動かないでくださいね。姿を消すわけではなく、視覚を誤魔化しているだけに過ぎません。そんなことよりも、ほら、見てください。我々の敵がお目見えです」
満月を翳らせる暗雲が天空で渦を巻き、まるで暗黒の巨人が指を地上へ伸ばすかのように、不気味な尾が空から降りてきた。
「師よ、魔族の、ええと転移雲でしたか?それを逆用するとのことですが、まさかアレに突っ込めと?どうみても竜巻ですが…」
ヨハンが尋ねるがルイゼはそれに答えず、ただ妖しい笑みを向けるだけである。ヨハンの経験上、こういう反応の時は“是”を意味する為、何とも言えない表情でヨルシカの方を見て言った。
「ヨルシカ。心が疲れた時、人はただただ共感してほしくなる事がある。理解や同情、解決策の提示ではなく“共感”だ。こう言うと馬鹿共はピイピイと囀る。そんな事、意味があるのかと。俺はそんな時、そいつの喉に短刀を突きつけて言うんだ。意味があるのかないのかを決めるのは俺で、お前じゃない。不快だからここで殺してやる、と。俺はそういう気分なんだ、分かるかい」
ヨルシカは苦笑しつつヨハンの手を掴み、その甲を軽く2度叩いた。
不貞腐れる愛犬を宥める様に。
真っ黒くて不気味な竜巻が空から伸びてきて、そこに突っ込めと言われた時、大多数の者の精神は疲労感を覚えるだろう。
それは百戦錬磨の連盟術師であるヨハンとて例外ではないし、その場にいる他の魔王討伐の任を帯びた勇敢なる殺し屋共にとっても例外ではなかった。好奇心の塊であるケロッパでさえも呆然としている。
「あんなのに飛び込んだら目的地につく前に何人か死んでるんじゃねえのか?」
カッスルが呆れたように呟き、空色の瞳に憂いの帳がおりる。
他の者達も何人かが同意した。
中でもラグランジュが深刻そうな表情を浮かべている。
「死ぬのは良い…皇帝陛下の御為に剣を振るうが私の使命。しかし、魔王の元に辿り着く前に事故死などは御免だが…」
ヨハンはラグランジュと初めて対面した時、刹那の十分の一の時間で彼女と気が合わない事を感得したが、今回ばかりは同感だった。
「お、おれ、肌。鉄。そして、重い。風、平気。おれから、いくよ」
不安そうな一同を見てゴッラがそんなことを言うと、“勇敢ねぇアナタ!じゃああたしも付き合うわよ~”とタイランがゴッラの腕を叩きながら言う。
一同の眼前で、黒い竜巻は時折紫紺の放電を放ちつつ大地へとその先端を接吻させつつある。
不思議なのは竜巻であるなら強風を伴うはずなのに、天から伸びる不気味な黒指にはそれが見られないという点だ。
少なくともこの距離ならば立っては居られない程の強い風が吹いて当然なのだが、種はあるのだろうか?
あった。
「まてまて、見た目ですっかり仰天してしまったがあれは転移雲か!荒れ狂う竜巻に見えるのは、魔王の内心を投影しているからだろうか?何とも荒々しい大魔法だ!魔術も魔法も術者の色が出るものだが、魔王の魔法にふさわしい禍々しいその姿!我々に勝ち目はあるのだろうか?まあいいか!そんなことより、みんな、よく見たまえ!あの竜巻は地上に向けて渦を巻いている!つまり通常のそれのように、巻き上げられて地面に叩きつけられて死ぬ心配はなくなったね!」
不意にケロッパが叫びだす。
その声には歓喜が滲んでいた。
そう、竜巻に見えるのはあくまでガワだけであって、実際は違う。
あくまで転移の術式であって、内実も竜巻と同等であれば魔軍は戦わずして壊滅してしまうだろう。
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まるで地獄の扉が開かれたかのように、その暗黒の渦は底知れぬ闇を放っていた。竜巻は、時折激しい雷を放ち周囲の空気を震わせる。
そして竜巻の中心から、続々と魔軍が姿を見せた。
彼らは人間の悪意や恐怖、絶望が具現化したようなそら恐ろしい姿をしていた。ルイゼが行使した幻術は強力で勇士達が魔軍に捕捉されることはなかったものの、仮に戦闘になればただでは済まないだろうとその場の誰もが思った。
魔軍の兵士たちは、地獄の底から這い上がったかのような恐ろしい姿をしていた。その中には人間の死体を捩じ曲げたような形状の屍兵がいた。彼らは腐敗した肉と骨からなる体で、耐え難い悪臭を放ちながらゆっくりと動いている。
また、人間に似た形をした魔族の戦士もいたが、彼らの目は血に染まり、瞳の奥に渦巻く狂気が見て取れた。時折あげる彼らの叫び声は夜の闇に響き渡り、常人ならば恐怖で魂を凍らせてしまうと思わせる程に恐ろしかった。
さらに巨大な角を持ち、赤黒い筋肉をした悪魔のような兵士もいた。
炎を纏った大剣を振るいながら、力強さと残忍さを感じさせる邪悪な笑みを浮かべている。
だがそんな者達はまだ原型が分かる。
恐ろしいのは悪夢を現実に具現化したかのような怪物達だった。
肉がよりあつまって出来た悪趣味な巨獣などは、基本的には饒舌な勇士達をも黙らせるには十分すぎる不気味なインパクトを与えた。
「…鼻獣に似ている…気がするけれど、違うわね…」
タイランが鬱蒼と言った。
鼻獣とは鼻が長い巨大な獣だが、彼の知る鼻獣とはシルエットこそ似ているものの、明らかに別物であった。
「俺はそれよりもあの小さい虫みたいな奴の方が嫌だな」
ランサックが言う。
青白いぶよぶよした塊に足が生えた何とも形容しがたい生き物が大量に地面を這っていた。
黒い竜巻はその広がりをどんどんと拡大させながら、魔軍を無尽蔵に生み出し続ける。そして恐るべき地獄の尖兵共はただ一点を目指して行軍を始めた。
「行く先は王都か」
ザザが短く呟いた。
ザザはアリクス王国の金等級の剣士だ。
“百剣”と謳われるザザは異名の通りに多種多様な剣技を操る。
風俗狂いだが業は確かだ。
いつだって無気力で、風俗代を稼ぐ為に怪物でも人でも斬る男。
そんな駄目男が胸の奥から湧き上がる暗い怒りで表情を険しくしている。
逸る気持ちのザザは無意識のままに手を腰にやる。
王都襲撃などとんでもない話であった。
王都にはリリスと言うザザのお気に入りの女がいるのだ。
リリスは魔族でありながら人の世界に逃げた女だ。
王都で娼婦をやっている。
そしてザザのお気に入りだ。
ザザが魔王討伐を引き受けたのは、リリスの見受けの金を見繕う為、そしてリリスの安全を国に保証してもらう為であった。
商売女の為に命を懸ける…それは極東出身のザザにとっては極々当然の無謀と言える。
ランサックは横目でザザを見ながら、もし飛び出そうものならすぐに止めようと心の準備をしていた。
そんなザザに声をかけたのがルイゼだった。
「ザザ、落ち着きなさい。貴方も魔王討伐の為には必要な駒です、あれらに命を懸ける事は許しません。それに、王都にはルピスがいます。例え魔王相手でも簡単にはあの男を抜く事は難しいでしょう…アリクス王国領内の戦に限るならば、彼は我々の誰よりも強い」
ルイゼの言葉にファビオラがうんうんと頷く。
「それに、クロウを見なさい。さっさと魔王の元へ行かせろという表情をしています。やるべき事を弁えた優秀な青年ですね、ザザも見習いなさい」
ザザが胡散臭そうにクロウを見ると、その表情はいつもと余り変わらない。
クロウは困惑しているのか疲れているのか、どこか陰を感じさせる目で黒い竜巻を眺めていた。
■
悍ましき魔軍は大方が王都へ向かい、後には黒い竜巻が残されるだけとなった。するとルイゼは幻術を解除し、竜巻に向かって歩を進めていく。
ルイゼの細く白い人差し指が竜巻に向けられると、その口からイム大陸に存在する如何なる言語体系にも属さない奇妙な言葉が発された。
──Ω(∇² - μ²)ψ = δ(x-x₀)δ(y-y₀)δ(z-z₀)
Ωは魔力の波動を表し、∇²はラプラシアン演算子、μ²は魔法の波長を表す定数だ。ψは魔術の空間波動関数を示し、δはディラックのデルタ関数を表す。x₀、y₀、z₀は転移魔術の元の位置を示す座標であり、これをもって魔王の大転移魔法に使用されている魔力を逆流させる。
──魔力の正規逆流はすなわち魔法の逆行を意味し…
「行きなさい」
ルイゼが短く言う。
「行ってきます」
クロウが律儀に出発の挨拶をしてから竜巻へ向かっていった。
残された者達も顔を見合わせ、クロウの背を追っていく。
・
・
・
この時ヨハンはこの場の全員に死の影を視ていた。
全員だ。ヨハン自身も彼が愛するヨルシカも、底知れなさを感じさせる勇者クロウにも、ルイゼにでさえも。
だがヨハンは知っている。
自身の霊感は絶対の予感ではなく、努力次第で変えうる未来を察知する類のものであることを。
「ヨルシカ、俺の霊感が囁いているぞ。この場の全員が無残に死ぬとな」
ヨルシカはぎょっとしてヨハンの顔を見た。
ヨハンの顔には邪悪極まりない笑みが浮かんでいる。
だが、とヨハンが続けた。
「俺の霊感は少し特殊でな。“やるべき事”をやれば大体どうにかなるんだ。この戦い、勝ったな。なぜならば俺がやるべき事をやらなかった事など過去に一度もないし、未来においてもありえないからだ。それでは師よ、貴女もこの後は死闘でしょう?不覚を取らないでくださいね。我々が魔王を斃し、貴女が手下どもに敗北しては笑い話にもならない。ははははッ!」
ヨハンは訳の分からない高笑いをあげながら竜巻に向かって歩いていった。ヨルシカは一瞬唖然とし、そして苦笑を浮かべヨハンの背を追っていく。
■
かくして勇者一行は果ての大陸へと。
残されたルイゼは口の端に笑みを浮かべ彼らを、ヨハンを見送った。
あるいは今生の別れとなるかもしれなかったが…
「…正直に言えばもう余力がないのですが、不詳の弟子の言う通り。手下に負けては恰好がつきません。さて、私も行きましょう」
──王都へ
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一応なろうの方には全部挿絵いれてるんですが、カクヨムのほうでは近況ノートで画像をあげたいとおもいます。ラグランジュだとかタイランだとかランサック、カプラとかの画像もあるので…また、今後はイマドキのサバサバ冒険者のほうも更新内容は同一となります。
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