第31話

 水曜日、週の真ん中にして休日までの折り返し地点。多くの者にとっての水曜日とは、ただそれだけの存在である。


 しかし秀一郎にとっては違う。彼にとってのそれは、灼熱の砂漠に存在するオアシスのような存在であった。水曜日とは辛く苦しい人生を乗り切るための小休止であり、先に続く困難に相対する心構えを作る場であり、そしてまた、嫌な現実から目を逸らすための避難所である。秀一郎はそう考えていた。


 故に、秀一郎は水曜日の講義に極力軽いものを選択、調整した。それも、たった一コマだけだ。最小限の労力で最低限の講義をこなす。そして最速で帰宅し、最大限英気を養い、週の後半に備える。それこそが、秀一郎が練りに練った、大学生活をストレス無くやり過ごすための戦略であった。


 しかし、いかに緻密に練り込まれた戦略といえども、時には予期せぬ存在の前に崩れ去る事もある。秀一郎の築いた戦略という名の立派な楼閣は、〝やる気に満ちあふれた大地〟という傍迷惑な存在によって、あっさりと消失させられた。


 事ここに至って秀一郎は悟った。大地は〝砂〟であると。自身の放った皮肉や悪態を砂のようにさらりと受け流し、全く意に介する様子の無い大地の様は、まさに暖簾に腕押し、糠に釘だ。秀一郎の生活から潤いを奪う存在であるという観点から鑑みても、間違いなく砂だ。


「大室、お前は砂だ。何が大地だ。お前にその名前は相応しくない。大室砂男と改名しろ」


 直帰しようとしていた所を大地に呼び止められ、部室に半ば無理やり連行された秀一郎は、あらゆる鬱憤と不満を大地に叩きつける。


「何だ突然? 砂男? どういう意味なんだ?」


 突然意味不明なことを言われた大地は訳がわからずに困惑する。すると、部室に着くなり、部の共有おやつ棚を物色していた律が横合いから口を挟む。


「『砂の女』なら私も知っています。あれは素晴らしい話です。私もいずれはあのような素敵な恋愛がしたいものです」

「……佐田、お前の恋愛観は大分おかしい。無いとは思うが、もし万が一、佐田の恋人候補リストに俺の名前が入っていたのなら必ず削除しておいてくれ」

「何をおかしな事を言っているのですか」

「そうだよな、悪い。俺如きが言うまでもないよな」


 大地の皮肉を受けた律は俄かに真顔になると、ぴしゃりと大地の発言を切って捨てる。


 律のその余りに急速な態度の変化に大地は驚き謝罪をする。


 言われてみれば当然だ。同じ同好会所属故に気安い友人付き合いをしているとはいえ、律は目も醒めるような美人だ。それに比べて、自身は大きいだけが取り柄の平凡な人間である。さすがに釣り合いが取れないし、最初から候補になど入っている訳がないのだ。冗談の延長線上であったとはいえ、自意識が過剰であったと大地は反省した。


 しかし、その反省は続く律の言葉によって無意味なものになる。


「あなたは現在唯一の候補者です。削除など出来ようはずもありません」

「何でだよ、おかしいだろうが」

「消して欲しいなら代わりを見つけてきてください。ですが、それは難しいでしょうね。私は兎も角として大地君は私に夢中ですから」

「いや、それはない。それどこ情報だ? 間違いなくガセだぞ」

「ガセでは有りません。何故なら情報源は私だからです」

「尚更信憑性の欠片も無いな」

「まぁまぁ、そう言わずに最後まで聞いてください。いいですか? 大地君は高身長かつ筋肉質な女性が好きですね? 特に背中の筋肉に強く魅力を感じているはずです」

「……」


 律の突然の発言に大地は言葉を失う。筋肉好きや高身長好きであることは既にバレていた自覚はあるものの、まさか背中の筋肉フェチについてまでバレているとは青天の霹靂であった。上手く隠し通せていると信じていたからだ。


 しかし、大地のその性癖は律によって白日の下に晒された。


「ふふ、気付かれていなかったとでも? 常日頃から足腰や肩に熱い視線を感じていました。ですが特に背中です。はっきりと確信したのはボルダリングの時です」


 律は、どことなく嬉しそうに背中側をちらちらと見せながら蠱惑的に微笑んでいる。


「……認めよう。だが、あくまで見た目だけだ。俺が好きなのは佐田の見た目と筋肉だけだからな。そして、それは別に佐田じゃなくても良い」


 巧妙に隠していた視線がバレていた事で、穴があったら入りたい程の羞恥心を感じた大地は、しかし潔く事実を認めた。こういった事は否定すればする程に事実を暴こうと相手がよりムキになり、自身がより恥を掻くものだからだ。


 だが、そんな大地にも譲れないラインはあった。その決して譲れない境界を明確に強調することで、まだ自分はライン手前で踏みとどまっているぞ、と言外に主張していた。


 しかし、調子に乗った律の快進撃は止まらない。


「ふふ、甘いですね。私の身長は日本人女性の上位0.01%〜0.02%程ですよ。恐らく五千〜一万人に一人いるかいないかです。私の代わりなどそう簡単には見つかりません。筋肉質となるとさらに減ります。良いのですか? 大地君の人生で、私以上の高身長女性に出会えることなど、もう無いかもしれませんよ? 今まで私ほどの身長の女性に出会った経験は? 勿論街で見かけたとか、テレビでとかは無しです。まぁ、それですらレアでしょうがね」

「ぐっ……それは……」

「それに、そもそもの前提が間違っています。外見と中身は不可分です。故に私の外見が著しく好みであると言っている時点で、私の事を好きだと公言しているのと同義です」


 大地は外見と人格を切り離すことで律の追及を逃れようとした。


 しかし、律は自身の身体的希少性を全面に押し出しつつ、さらに加えて、それらの密接不可分性を論じる事でさらなる攻勢をかけた。


 そして、それは大地に事実上の敗北をもたらした。


「……そうかもな。だけど、別に身長や筋肉が全てではない。身長は必須ではないし、筋肉は増やせる。そんな些末な事よりも大事なのは人格と相性だ」


 結果として、追いつめられた大地は禁断の外法に手を出した。数十年前にイギリスの或る政治家が生み出した最強の論点ずらし手法によって、〝ゴールポストを動かした〟のだ。


 しかし、それでも律は余裕の笑みを崩さなかった。


「安心してください。その点も抜かりないです。お互い大のスイーツ好きで、体を動かすのも好きです。さらに大学まで同じで、講義や同好会まで被っています。これはもう付き合っていると言っても過言ではないですね」

「作為的なものが混じっているだろうが」


 呆れた大地が溜息を吐くと、律は大地のその態度にこそ呆れたと言わんばかりに、これ見よがしにより盛大に溜息を吐いた。


「いい加減観念したらどうですか。少なくともこの大学内に、私程あなたの好みに合う女性など存在しません。既に私の両親への面識もありますし、良いではないですか」

「おい、マジで砂の女じゃないか。お前怖いぞ」

「……ふふ。鍵の管理はしっかりするようお勧めします」

「洒落にならんから止めろ。駒井助けてくれ。こいつはヤバい」

「五月蠅い黙れクソどもが」


 五分前に秀一郎の振り撒いた呪詛は、二人の下らない遣り取りによってあっという間に浄化され、もはやとっくに無かったものとされていた。


 やはり繊細な自分と、この無神経な二人の相性は極端に悪い。天敵と言っても良い。同じ土俵で張り合っても無駄なのだ。この能天気なバカ二人は、何から何までありとあらゆるモノを自分たちが盛り上がるための餌にするし、そこかしこで盛っては独自の世界を構築する。


 こんなやつらに関わるだけ時間の無駄だ。手っ取り早く問題を解決し、必要最低限の接触に留め帰宅する。それが最適解に違いない。二人に対する自身のスタンスを、その方向へシフトすると、早速本題に入ろうと秀一郎は口を開く。


「進捗を述べろ。簡潔に、だ」

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