第14話【月刊ラー 3月号】

「巨石信仰が今なお根付く地 富地米村」


 アニミズムという言葉をご存じであろうか。初耳だという読者諸兄のために、まずは辞書の定義から紹介しよう。


 アニミズム(英語 animism)とは、生物、無生物、自然現象を問わず、万物に霊魂、もしくは精霊のような霊的存在が宿っているという考え方。(中略)語源はラテン語で魂・生命・呼吸などを意味するanimaとされている【副書院辞林より抜粋】


 古来より多くの文明史において、人類は万物に神を見いだしては信仰の対象としてきた。もちろん日本も例外ではない。古代日本においても、アニミズムとしての土着信仰は遍く受け入れられ、山、木、滝、稲といったありとあらゆる自然物を崇拝していた記録が全国各地に残されている。


 もちろんその間に全くの変化が無かったわけではない。時代を経るにつれて、仏教伝来や神仏習合(※1)により、信仰のカタチはその都度影響を受けてきた。自然物そのものではなく、自然物に降臨、内在しているとされる神話の神々を信仰するように変化したり、偶像を崇拝するようになったりと、信仰とその対象のカタチは実に多岐に渡る。だがそれでも、自然物に対する崇敬は廃れることは無く連綿と受け継がれてきている。


 現代においても、意識的にせよ無意識的にせよ、アニミズムは多くの人に受け入れられ存在している。我が国の国旗を見れば太陽信仰の片鱗が伺えるし、多くの日本人が霊峰富士を見かける度に自ずと厳かな気持ちになるのも山岳信仰の名残と言えるだろう。


 今回のテーマは、そんな日本に数多ある自然信仰の一つである巨石信仰と、その信仰が今なお根強く残る『富地米(ふちめ)村』についてである。近年、俄かににパワースポットとして脚光を浴びた彼の地ではあるが、実は富地米村の巨石伝説は非常に長い歴史を持つ。だが、始めから巨石がそこに存在していたわけではない。


 事の始まりはおよそ四百年前にまで遡る。かつて彼の地はかなりの産出量を誇る金鉱地として栄えていた。村に残る古文書によると、川に手を突っ込めば、子供の握り拳程の大きさの砂金が採れたという逸話も存在するほどだ。そのため多くの出稼ぎ労働者が村を訪れ、現代で言うゴールドラッシュの様相を呈し、宿場町として村は大繁盛していた。


 当時の村名は『郷作(ごうさく)村』であった。



 そんなある時、鉱山の奥深くが奈落(※2)に通じてしまったのだそうだ。そして、その奈落に通ずる穴から、人を呪うかのような怨嵯と共に山のように巨大な体躯の鬼達が這いだしてきた。鬼達は度々村に現れては暴れ、鉱山夫や村人を片っ端から浚っていった。その住処は広大な鉱山のどこかに存在していたとされているが詳細は分かっていない。また、鬼たちは浚った人間を地獄の業火で炙って生きたまま食べるとされており、その際には被害者の悶え苦しむ悲鳴が山二つ先まで響き渡る程に残虐な有様であったらしい。


 それらの惨事から辛うじて生き残った者も謎の奇病によって歩行が困難になり、鬼への恐怖から震えが止まらなくなるなど精神に異常を来す者も多かった。他にも感情が不安定になる、急に笑いだす、反応を示さなくなる等々、不気味な症例は多数であった。


 さらに奇妙な事に奇病は村に長く住んでいる者しか罹らず、しかし罹った者のほぼ全てが数年内に死に至ったという記録も残っている。余所から嫁いだ者などは無事だったものの、村を遠く離れていた者まで感染するという異常事態に当時の医者も匙を投げた。


 結果、病はさらに蔓延し、村存続の瀬戸際にあった村人は苦渋の決断を下した。奇病は鬼の呪いであると考え、鬼の怒りを鎮めるために定期的に生け贄を捧げることに決めたのだ。だが、それでも窮状に変化は無かったため村民は絶望した。


 そんな中、徳の高い修験者(※3)が荒れ果てた村をたまたま訪れ、悲嘆に暮れた村の現状を知り嘆き悲しんだ。そして義憤に駆られ、その日の内に鬼の住処である洞窟に単身飛び込んでいったとされている。


 二刻(約四時間)ほど経つと、山の方からとんでもない轟音が聞こえたそうだ。村人は不思議に思いつつも怖々と鉱山入り口に集まると、そこには修験者の姿も鬼の姿もなく、現在のように巨石だけが鎮座していたのである。それはまるで、坑道の入り口から出てくる悪いモノから村人を守るかのようであった。村人たちは修験者が法術で奇跡を起こして鬼を奈落に封じ込めたに違いないと涙した。そして、その偉業を讃えるために巨石を御神体として奉った。


 

 すると、二つの奇跡が起こった。一つは謎の奇病が徐々に沈静化していったこと。もう一つは翌年から周囲の田畑が豊作に恵まれだしたことだ。数年も経つ頃には村は日本有数の穀倉地帯になった。村に伝わる古文書によると、修験者は鉱山を封印したら村人が食い扶持を失ってしまうと考えて大層心を痛めたそうだ。そのため、残った村人が困らないようにと粋な置き土産を残したと伝わっている。


 二つの奇跡を目の当たりにした村人達の信仰心はますます高まり、その信仰は現在に至るまで続いている。そしてこの奇跡を期にが豊になる土ということで富地米村と改名したのだそうだ。(※4)



 これが富地米村に語り継がれる巨石伝説のあらましである。富地米村の巨石信仰は、記事冒頭で述べた自然物や現象それ自体を神とみなすアニミズム信仰とは厳密には異なる。信仰の対象は間違いなく巨石それ自身であることに間違いはない。だが、その内には村を救った修験者の偉業と共に、氏への敬意と感謝、そしてその尊い犠牲を風化させないようにとの信仰という名のが込められているのである。事件から四百年が経過した現代においても信仰されていることからも、当時の村人の修験者への感謝の気持ちが如何ほどかが伺えるというものである。



※1 仏教の伝来によりもたらされた仏教信仰と、古来より日本に存在する土着の神道が融合した信仰の形態。明治時代に神仏分離令が出されるまでは広く受け入れられていたとされている。神は仏が姿を変えたものであるという本地垂迹説や、逆に神こそが主たる存在で仏が仮の姿である神本仏迹説も興った。本文に登場する修験道は、神道における山岳信仰と仏教が習合した日本独自の宗教形態。修験者は霊的パワーを有する霊脈の豊富な山に籠もり修行することで特殊な呪術を使いこなし、その力を用いて衆生を導くとされている。


※2 仏教における地獄と表現される場所。語原は梵語のnarakaであり、奈落はその当て字


※3 法師とする説もある。しかし、以下の二点を鑑みると修験者説が優勢。

 ①伝わる逸話から実践的な宗派であったことが窺える点

 ②郷作村に隣接する山々が修験者の修行地として有名であり、地域的に山岳信仰が広く受け入れられ盛んであった点


※4 村名から米に着目されがちではあるが、実は里芋の生産量が全国上位であることはあまり知られていない。この里芋は修験者の時代の頃に品種改良が著しく進んだため、修験者の奇跡の一つと考える村人も多い。地元では『修験者』という言葉から派生したと思われる『げんざ芋』と呼ばれる荒れ地に強い品種が名産である。

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