第6話
幼い日、もう何年前か思い出せない。
道路沿いの公園で僕は一人で遊んでいた。一人でぞうさんのすべり台を滑り、一人でブランコをして、一人でジャングルジムに登るのに飽きたから、スコップを片手に砂山で遊んでいた。もちろん、これも一人で。
周りにはボール遊びをする同年代の幼児が数人いた。彼らは僕を誘うか否か迷うようにチラチラ見ていたが、それもすぐに忘れボール遊びに熱中し始めた。それを見て僕はほっとしていた。
この頃はまだ赤い彗星が降る前、異能都市ができる前だった。
つまり僕が『無能』なんてレッテルを貼られる前だった。
当時の僕は今と変わらず無力で無能な、ありふれたただの人間だった。そしてやっぱり独りぼっちだった。周りに遊ぶ人間はいなかったし、親の仕事の都合上転勤族だったのが大きかったかもしれない。でもやっぱりそれ以上に、当時から人嫌いだった性格が問題だったのだと思う。
これは強がりでもなんでもないが、別に寂しくはなかった。
毎日忙しい親とは朝も夕も会うことはあまりなかったけれど、その分会える時はこれ以上ないくらい優しくしてくれた。学校の先生もそんな僕を思って暖かく接してくれた。冷たくつけ離す僕なんかに何度も話しかけてくれた当時のクラスメイトには今では申し訳なく思っているし、感謝している。
……いや、やっぱり寂しかったんだろう。
しょうもないことで笑いあう彼らに、下らないことで泣きあう彼女らに、どうでもいいことで怒りあうことのできるあいつらに僕は嫉妬していた。
僕も、そんな風に心を共有できる誰かがいたら。
そう思った時に、一陣の風が吹いた。砂が目に入りそうになって慌てて目を瞑る。
ゆっくりと開く瞼のその先に、少年が立っていた。少年は僕とそっくりだったが、僕とは違って前髪を上げていた。そして目の前の僕を安心させるように笑っていた。
口元に笑みを残したまま、少年はゆっくりとその小さな手を僕に差し出す。
僕は何も考えず、親に手を伸ばす赤ん坊のように無邪気にその手を取る。
瞬間、世界が変わった。
・
目を開けた先に広がるのは無機質で角ばった蛍光灯が照らす見知らぬ天井だった。
ギャルゲーならこんなシチュエーションはド定番、とぼんやりとした頭でゆっくりと思考しながら現は少しずつ視界を広げる。まだ意識の覚醒には程遠く夢うつつの表情を浮かべる現だが、隣から発せられた初めて聞く声が覚醒を急かす。
「……あらぁ、目ぇ覚めはったみたいねぇ」
流暢な京都弁だった。妙に伸びる語尾と色気ある声音が声の主が女性であることを決定づけていた。
ゆっくりと首を傾けた声の方向に目を向けると、女が俯いてどこかにメールを打っていた。
はっきり言って、彼女は美しかった。切れ長の山吹色の目に長いまつ毛、目端の赤いアイラインが特徴的だ。健康的で白い肌は妙な光沢を帯びており、声と相まって艶かしさを助長する。長く伸ばした黒髪は後ろでくくっているのだろう、後頭部に大きななかんざしが見える。
特別な行事があるわけでもないだろうに、その女は和服を着ていた。しかもレンタルで着るような安っぽい物ではなく、素人の現が見ても一級品であることはわかる程の逸品だ。黒の生地に何枚かの散りゆく紅葉があしらえてある。
その女の一番の特徴は耳だった。いや、人間の耳に当たる部位は長い髪に隠れて見えなかった。では何の耳かというと、狐の耳だった。その女の頭には狐の耳が生えていた。異能の中にも容姿が変わるタイプはあるが、彼女のように戦闘向きではないものは珍しい。
「あぁ、これ? 異能の副作用みたいなもんで生えてしもうたんよぉ。気になりはる?」
現の視線に気づき、顔を上げて苦笑する女。その手の視線には慣れているのだろう。
「……あ、いえ……すみません」
ようやく頭が回り始めた現は彼女を不快にしたと思って謝ったが、
「ふふっ、ええんよぉ」
女は笑って流した。その余裕のある仕草と丁寧な物腰は廃墟の中で出会ったあの少女と似ていて……
「そうだ! 虚は!? それに龍爪はあのあとどうなっ」
慌ててベッドから降りようとする現だが、
「痛っ!」
激痛のあまり起き上がることすらできなかった。そこでようやく現は自分の今の姿に気づいた。
現はベッドの上に仰向けに寝かされていた。ご丁寧に薄水色の患者服まで着せられている。布団がところどころ奇妙に膨れ上がっているところを見るとギプスがつけられているらしい。
あらあら、と言葉だけは心配そうに女は妖艶に微笑んだ。
「安心してええよぉ、二人とも無事。二日前にもう退院してはるし」
言葉を聞いて安心した現だが、一方で同時に違和感も覚えた。
「二日前……?」
「あぁそうだ。お前さんが亜楽恋思と交戦してからもう四日経ってる」
言葉を反芻してポカンとする現に、入り口側からだるげな少ししゃがれた声が投げられた。
かろうじて目を向けた先で、声の主は後ろ手でドアを閉めていた。
「やっと起きたか、孤衣無弟。ご苦労さん」
男は三十代前半といったところだろう。若々しくもなく、かといってしわが目立つ肌でもない。キシキシの茶髪、よれよれのスーツ。ネクタイは酔っ払いのようにくたくたで緩められている。そんなだらしない姿のはずなのにどこか様になっており、隙がないようにも感じた。
ふわぁ、とあくびをしてから男は口を開く。
「その様子じゃまだ状況がわかってねぇみたいだな。ったくメンドくせぇ、説明ぐれえしとけよ地神」
「仕方ないやん、まだ目覚めたばっかなんやしぃ。大体うちに説明まかして、守桜はんは自分が楽したいだけやろぉ?」
「まぁな」
もう、と女は可愛らしく肩を揺らす。
男は壁に立てかけられたパイプ椅子に目をやり、面倒くさいと思ったのかパイプ椅子には向かわず女の後ろの窓に背を預けた。
「じゃあ、まずは自己紹介からでええ?」
圧倒された現は女の言葉にハッとして、こくりとうなずく。女は微笑み、自身の胸に手を当てた。
……女の和服は胸元が大きく開いており、その豊かに実った胸を大きく露出させていた。本人はそれに気づいていないようだったが、現はわざわざ目の前の幸せをつぶすような人間ではなかった。
「うちは地神稲荷(ちがみ いなり)って言うんよぉ。管理局の局長やらしてもろうてるんやけど、管理局については紅が説明してくれたんやろ?」
「……確か、異能都市の治安維持のために活動する特別部隊みたいなものって聞きましたけど」
ゆっくりと記憶を辿ると、龍爪のこと細かな説明が頭に浮かんだ。あんな状況でも丁寧に教えてくれたことに現は改めて感謝した。
「うん、そんな感じの認識でええと思うわぁ。よう覚えてたなぁ、ええ子ええ子。ほな次守桜はん、よろしゅう」
守桜と呼ばれた男はだるげにまぶたを開けた。ビー玉のように透き通った茶色い瞳と目があった。男はこく、と何かに納得したように一回頷いてからようやく口を開いた。
「メンドくせぇ……俺ァ守桜隠身(すおう かくれみ)ってもんだ。本来なら異能都市の運営側なんだが、今は管理局と運営側のパイプ役をやってる。ちなみに運営側っつーのは、異能都市運営統制委員会。詳細は省くが、異能都市全体を管理する組織だ。管理局の親元って考えればわかりやすいだろ」
「なるほど、お偉いさんってとこですかね。そんな人に自己紹介するのも気が引けますけど、僕は孤衣無現。調べてるでしょうし、これ以上は特に」
龍爪は現の個人情報を管理局で調べたと言っていた。ならば、局長である地神とそれ以上の立場の守桜が知っていないはずがない。案の定地神は肯定した。
「異能を持ってへん人間がおるなんてなぁ、知らんかったわぁ。無能ゆう名前はセンスないけど」
「これほどぴったりな名前はないと思いますけど。異能を持たない僕は所詮、無力な無能ですから」
自虐的な笑みを浮かべた現だが、自分で言うことか、と自分を蔑んだ。色持ち二人を前に、面倒くさい劣等感を感じずにはいられない。
「なんだ、メンドくせぇやつだな」
口に出すのかこの人、と現は思った。
「守桜はんそないに言わんときぃ。すまんなぁ、えぇっと……」
「現で大丈夫です」
「うん、じゃあ現くん。すまんなぁ、守桜はんが。管理局にもえらいネガティブな子がおってなぁ? やけぇ、余計にそう思うんよぉ」
否定はしないんだな、とやはり現は思った。
「……それで局長でしたっけ? それに運営側の人間。異能都市の権力者が二人も揃って、僕なんかに何の用ですか?」
現はこれまで管理局という存在を一度たりとも聞いたことはなかった。ましてや、異能都市の秩序を守る組織があることすら知らなかった。
しかし、考えてみれば当然の話だ。ある意味で極悪死刑囚を集めた監獄よりも危険な場所である異能都市に管理局のような治安維持組織がなければ、現はこの場に立っていないだろう。
そう考えるとやはりその管理局の長である地神、そして運営側とを繋ぐ役割を持つ守桜は異能都市の中でもなかなかの権力者であることは間違いない。そして権力に見合うだけの責任と仕事があるはずだ。無能の病室に来るほど暇であるはずがない。
「いやぁ、案外そうやないんよねぇ」
「そうじゃないって……暇なんですか?」
「あぁん、そうでもなくってぇ」
妙に色っぽい雰囲気を醸し出す地神はやはり困ったように笑う。そんな地神を見かねたように、ため息をついて守桜が口を挟む。
「別に暇なわけじゃねえ。無能のお前に会うのは大事なお仕事だっつー話だよ」
そうそう、と地神は頷く。こう見えて地神は案外押しが弱い方なのかもしれない。
「龍爪から聞かなかったか? 今の管理局の任務を」
守桜の言葉で現は数日前の記憶を掘り起こす。といっても、現にとっては昨日の話なのですぐに思い当たった。
「クラレントの解体、でしたっけ」
クラレント。龍爪からは、天将帝を中心とする過激組織だと説明された。最近は無能探しに躍起になっているらしい。
「異能都市は今二つの厄介ごとを抱えてる。一つは食人鬼の始末、もう一つがクラレントってわけだ」
メンドくせぇ、と呟くように漏らして守桜はよれよれのスーツの胸元からタバコを取り出す。しかし地神に睨まれ、慌てて胸元に戻した。
食人鬼とは文字通り人を喰らうとある色持ちのことだ。赤い彗星の日直後に暴れ始めたオーガは、人を喰らうことで自分の能力を高める異能を持っているらしい。一向に理性が戻る様子が見られないほか、明確な言語を発さないため運営側はオーガの異能が『理性を奪う』という特性も保有していると判断した。普段は森林部に隠れており、たまに都市部に降りてきて人を喰らう。その被害数と凶暴性から異能都市内では『食人鬼』として有名である。
守桜の説明にふぅん、と現は相槌を打つ。被害者が多数でていることを考えれば大事件だと思ったが、流石に今身に迫る危険ほど興味はそそがれない。
「それで、僕が知りたいのはクラレントについてなんですが、なぜあいつらは僕を狙ってるんですか? 別にいなくてもいいような奴じゃないですか、僕なんて」
「いなくてもいいような奴、やからやろうねぇ」
地神は呟くようにそう言った。温厚に振る舞っていた彼女とは思えないほど、その声は凍っていた。
「うちは天将はんに会ったことないけど……。噂だけは聞いたことあるんよぉ。何でも、自分のことを王様や思うてるあほみたいでなぁ。自分の気に食わんもんぜぇんぶ不必要なもんって思うてるらしぃんよ。そんで自分が王様やから、自分がおる世界に変なもんが混じっとったらあかん、王様がおる世界は綺麗やないとあかんって思うてるんやてぇ」
「さしずめ僕は不純物ってところですか」
言い得てるとしか思えないし、別に間違ってはないんだろうけど。
そう続けようとしたところで守桜が口を開く。
「そうそう、俺らはその不純物君に用事があんだよ。ナァ、地神」
「そやねぇ。単刀直入に言うけど、現くん。君、管理局に入るつもりない?」
「……僕が管理局に、ですか?」
「うん。管理局に入ったらようけ特典もらえるよぉ。治安維持活動のお給料がたんまりもらえるしぃ、市販しとらん異能抽出品言う物も支給されるよぉ。さらに今ならぁ、」
「待ってください、僕は」
「さらに今ならぁ。身の安全も保証できるよぉ」
にたぁと狐耳の女はいやらしい笑みを浮かべる。
「見つかってしもうたことやし、これからクラレントに襲われることも増えるやろねぇ。うちらも早うクラレント解体できるよう頑張るけどいつになるかわからん。その間君は今回みたいに怪我を負い続けるやろうし、最悪死ぬかもわからん。でも管理局に入ったら少なくとも死ぬことはないやろうしぃ。あぁ、何なら現くん自身に戦場に出てもろてもええんよぉ? そっちの方が早くカタつきそうやしなぁ」
(……本当、いやらしいな)
現は歯噛みして唾を飲み込む。地神は何なら、と言ったが実際に入局すれば戦いは避けられないだろう。無能の自分が異能者を相手に戦えば、今回のように病院送りになる機会も増す。それこそ死ぬことはないだろうが、囮役として使われたり、危険な場に向かうことも増えることは間違いない。
いくら報酬が増えるとはいえ、流石にこんなことになるのは二度とごめんだ。
以前なら、そう思っていた。
「……わかりました。管理局に入ります」
現のこの返答に対し、地神は驚いたようにピンと狐耳を立てて目を丸くし、守桜は眉をひそめた。
「何ですか、その反応。誘ったのはそちらでしょう」
「いやぁ、そうやけどねぇ? あんまりに意外でなぁ……。普通、断らん? 死ぬかもしれんよぉ?」
「言質とったあとでこういっちゃなんだが。正直俺らはお前を囮に使うつもりだった。そんぐらいわかってただろ」
「はい」
「なら、余計何でだよ」
「知りたいからです」
問い詰める守桜を、現は真っ直ぐに見つめ返す。若干気圧された様子の守桜を無視して現は続ける。
「僕は、何故生きるのか知りたい」
「何故生きるのか?」
「はい。今回死にかけて、僕は初めて僕が生きたいと思っていることを知りました。なんで生きたいと思うのか。生きる意味は何か。僕は、それを知りたいと思った。管理局として戦えば、命のやりとりをする場所にいれば、それがわかると思った。それだけの話ですよ」
二人は現の思いをじっと黙って聞いていたが、やがて、
「うん。えぇんやない? ちゃんとした理由を得たいんやったら、満足いくまでやらせてあげることはできるよぉ。なぁ、守桜はん?」
「あぁ、歓迎するぜ孤衣無弟。ようこそ、管理局へ」
笑って現を迎え入れた。つられて現も口元が緩むが、ふともう一つの可能性が気になった。
「……一応聞いておきますけど、入らなかったらどうなるんですか?」
うぅん、と地神は腕を組み、
「クラレント解体までにどれだけ時間がかかるやろかぁ……まあ今のままやったら、一年ぐらいやろぉ。それまでぇ、」
やがて人差し指を顎にあてて可愛らしく首を傾げた。
「軟禁?」
「誠心誠意働かせていただきます」
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