第119話 追い詰められた皇帝

 ベゼルウス帝国の皇宮内では、季節外れのブリザードが吹き荒れていた。


 皇帝の前に跪く伝令官は、今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られながらも、己が義務を全うし震える声で国内状況を伝える。


「ほ、報告します……東部地方は既に、ほぼ全域がオルトリアの手に堕ち……反抗の兆しは全く見られません。完全に、懐柔されたものと思われます……」


 皇帝カエラルから、返事はない。

 重い沈黙が汚泥のごとく纏わり付き、声だけでなく全身が震え出す。


 そんな伝令官に、カエラルはゆっくりと口を開いた。


「徴兵と、再編の進み具合はどうなっている」


「……その……東部の状況が、噂として広まっているらしく……皇命に従わず、我先にと東部へ脱出する民が続出しており……遅々として……」


「……そうか」


 ふう、と、カエラルは一つ息を吐く。

 そして、傍らに控える侍従の一人へと手をあげながら──


「そいつの首を落とせ」


 淡々と、そう指示を降した。


「……はい」


「お、お待ちを!! なぜ、そのような……!! 私はただ、状況をお伝えしただけで!!」


「そんなくだらん報告で、余の時間を取らすな。ここで泣き言を言っている暇があったら、さっさと結果を出せ」 


「そ、そんな……!!」


 それが出来たら苦労しないと、よほど叫びたくなる。

 そもそも、そういった“結果”を出すために知恵を絞るのが皇帝や各地の指導者であり、伝令官はただその指示を伝えるのが仕事だ。結果を出す責任など、彼にはない。


 誰の目から見ても、彼の処刑などただの八つ当たりだと分かる。

 分かっているが……それを断れば次は自分の番だということも分かっているだけに、誰も彼を助けなかった。


「陛下、どうかお慈悲を! 陛下、陛下ぁーー!!」


 伝令官の絶叫が、皇宮に響き渡る。

 やがてそれが聞こえなくなるまでの間、そこにいた誰もが堪えるように唇を噛み、顔を俯かせていた。


 ただ一人、皇帝カエラルを除いて。


「クソッ、どうしてこうなった……!!」


 タイミングは完璧だったはずだ。

 オルトリアが過去に例のないほど弱体化し、逆に帝国の力は史上最高と言えるほどに高まっていた。幾人かの英雄が奮戦しようと、確実に勝利を手に出来る公算だったはずだ。


 それが、蓋を開けてみればどうだ?


 突如ユーフェミアがその全軍で以て救援に現れ、外征軍があっという間に壊滅。

 帝国内への侵攻を受けてからも、幾度となく戦力を差し向けているのだが……国内での戦闘であるにも係わらず、現地住民からほとんど支援を受けられないと報告が上がっていた。


 むしろ、敵であるはずのオルトリア―ユーフェミア連合軍は、ちゃっかりと現地住民達を籠絡し、手厚い支援を受けながら我が物顔で帝国領を闊歩している。


 何よりも驚くべきは、この状況に至るまで、開戦からまだ三ヶ月ほどしか経っていないことだ。


 いくら帝国が一枚岩でないと言っても、この僅かな間に自国よりも他国に付きたいと思わせるほどに民を魅了し、その噂だけで、未だに占領も行われていない地域の人間すら徐々に引き入れつつあるなど、あまりにも異常過ぎる。


 そして、その快進撃の中心にいる人物が誰なのか、カエラルも既に把握していた。


「ユミエ・グランベル……とうに死んだ負け犬の遺児が、今になって余の障害となるか!!」


 “癒しの聖女”の二つ名は、戦場から遠く離れた帝都にまで響き、民の間で噂となっている。


 曰く、どんなに瀕死の人間であろうと、ただ手を握るだけで瞬く間に息を吹き返す、治癒魔法の使い手。


 曰く、ただそこに存在するだけで、二十歳にも満たぬ子供が無双の力を手にする、天上の加護の持ち主。


 曰く──どんなに堅物の人間だろうと、ただの一度でも微笑まれれば瞬く間に魅了されてしまうという、絶世の美少女。


 もしここに当の本人がいれば、「何一つ正しい情報がないんですけど!?」と涙目になること間違いなしの噂ばかりだが、客観的に見ればあながち間違いでもないのだからタチが悪い。


 事実、王国軍に差し向けたはずの帝国兵が行方知れずとなり、全く別の地域で王国軍と行動を共にしている姿すら目撃されているのだから。


「だが……原因が分かっているのなら、対処のしようもあるか」


 ユミエの存在を使うことで、占領後のオルトリアの統治をスムーズなものにしようなどと企んでいたカエラルだったが、事ここに至ってはそんなことはどうでもいい。


 障害は、排除しなければならないのだ。


「おい、“例のアイツ”を牢から出せ。オルトリア軍の駐屯地へ差し向けるのだ」


「アイツ、とは……まさか、あの人斬りを!?」


 ざわっ、と、カエラルの周囲が騒がしくなる。

 そしてすぐに、侍従から反対意見が上がった。


「なりません!! あんな男を世に解き放っては……! オルトリアだけでなく、このベゼルウスの地にもどんな災いが降りかかることか!! 陛下が襲われる可能性だってあるのですよ!?」


「ならば、他に案でもあるのか?」


「そ、それは……」


 カエラルに詰められると、すぐに侍従は押し黙ってしまう。

 その姿に舌打ちを漏らしながら、カエラルは吐き捨てるように言った。


「あの戦闘狂のことだ、ユミエ・グランベルの噂をそのまま伝えれば、嬉々として襲撃に向かうだろう。どちらにせよ、余にはもう後はないのだ」


 ギリッと歯を食い縛りながら、カエラルは叫ぶ。


 もしこの戦争に負けたら自分がどうなるか、そんなことはカエラル自身が誰よりも分かっている。


 だからこそ、追い詰められた彼はなりふり構わず全ての手を打つつもりでいた。


 どうせ終わるのであれば──この国も、敵も、全て道連れだと。


「かつては帝国最強と謳われた剣豪、アマツ……! ヤツに、ユミエ・グランベルを暗殺させよ!!」

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