第97話 少女と少年の覚悟
少々時間は遡り──
ユミエが誘拐された直後、残された避難所の人々に激震が走っていた。
特にセオの動揺が酷く、目も当てられないほど憔悴している。
「私が、私があの時、一緒に行かなかったから……! また、また私のせいで、ユミエが、ユミエが……!! あぁぁぁぁ!!」
「落ち着きなさい、セオ!! あなたのせいではありませんし、ユミエさんは必ず連れ戻します!! だから、気をしっかり持ってくださいまし!!」
ユミエのお陰で立ち直りつつあったセオにとって、かつてのトラウマを想起させるようなユミエの誘拐事件は、傷口をナイフで抉り開くような痛みをもたらした。
もし、モニカが今こうしてこの場にいなかったら、セオの幼い心は取り返しがつかないほどバラバラになっていただろう。それほどまでに、セオの状態はギリギリだった。
「それで……本当に、金狐の居場所は知らないのか?」
そんなモニカとセオの二人を痛ましい思いで見つめながら、カース公爵は拘束されたグレイに再度問い掛ける。
セイウス議長やライガルやジャミリーなど、そうそうたる顔ぶれに囲まれたグレイは、小さく首を横に振った。
「分かり、ません……落ち合う場所は決められていましたが、それだけで……僕より、カイデルの方が詳しいとは思いますが、あの人も、拠点の場所まで知らされているかどうか……」
ギリッ、と、グレイは歯を食い縛る。もっと早く、自分が覚悟を決められていたら、と。
グレイがコーラスと僅かな交戦をした後、追っ手を振り切ってユミエの下に急いだのだが……その時には既に、彼女は拐われた後だった。
生まれて初めて抱いた、自分以外の何かを守りたいという強い想い。
それを成し遂げることも出来ず、指の間から溢れ落ちていくのを目の当たりにした深い絶望と後悔の念。
僕にもっと、力があれば。と、生まれて始めて、グレイは己への無力感というものに向き合っていた。
それこそ……セイウスの応急処置がなければ、そのまま命を落としていたかもしれないと診断されたほどボロボロの体が訴える激痛も、気にならないほどに。
「本当に何かねえのかよ!? 早くなんとかしねえと、今度はユミエまであいつらに……!!」
「落ち着けライガル、セオの前じゃぞ」
焦るライガルに、セイウスが諭すように告げるが……彼自身も、湧き出る殺気をまるで抑えられていない。
いや、この二人だけではなかった。
ジャミリーも、ベルモント家の騎士達も、遠巻きに騒ぎを聞き付けた一般の獣人達でさえ、誰もがたった一人の少女を想って怒り、何か出来ることはないのかと知恵を絞っている。
一体ユミエは、どれほど多くの人々に慕われていたのか。
この国に来て、僅か一ヶ月程度。それだけの期間で、これほど多くの絆を紡ぐことの出来る彼女を、グレイは素直に尊敬する。
そして……自分も彼らと同じ気持ちなのだと思うと、こんな時なのに、心が満たされていくのを感じた。
たとえ自分が、もうその輪の中に入る資格がないのだとしても。
「一つだけ、手掛かりというほどじゃないかもしれませんが……コーラスが、定期的に花を取り寄せているという話は耳にしました」
「花だと?」
「はい。柑橘系の、独特の匂いを放つ……帝国では有名な花です。ここに来るまでは、花を飾って楽しむような人には見えないのに、どうしてだろうって思っていたんですが……この国では、花の匂いを道標にしている、という話を聞いて……」
「その花の匂いを、隠れ家の目印にしているのではないかと、お主はそう考えたわけか」
「……はい」
それを聞いたセイウスは、あり得る話だ、と思った。
いくら金狐族がこの国を捨てたと言っても、この国で培った価値観や常識が簡単に切り替わるわけではない。
ユーフェミアでの風習に引き摺られ、馴染みのある“花の目印”を拠点に設定する可能性は、大いにあるだろう。
帝国の仲間にさえ拠点の場所を知られないように隠蔽しているのであれば、尚更に。
(問題は、その花の匂いをワシらが知らんことじゃな)
知っている花であれば、微かな匂いからでもその場所を突き止めることは出来るだろう。
しかし、全く知らない花ともなると、完璧に嗅ぎ分けるのは獣人とて難しい。
“柑橘系の独特な匂い”というヒントだけでは、この国に元から生えている同系統の花の匂いと区別が付けづらいのだ。
(あまり時間もかけられんというのに……どうしたら……)
「……ねえ」
セイウスが悩んでいると、グレイの前にフラフラとセオが歩み寄っていくのが見えた。
今の不安定なセオでは、何をしでかすか分からない。咄嗟に止めようとするが、それより早く彼女はグレイの肩に手を置き、口を開く。
「その匂いを探し出せば……そこに、ユミエはいるんだよね?」
「……この国にはない花だったから、まず間違いないと思う」
「なら……私が、その花を探す。薬、ちょうだい」
薬? と、その場の誰もが首を傾げる。
そんな周囲の反応に構わず、セオはとんでもないことを言い出した。
「あなたが使った……魔物の薬。まだあるなら、私にちょうだい。もう一度、私が魔物になって……ユミエを、探す……!!」
魔物因子による身体機能の拡張・強化は、嗅覚や視力などの五感にも作用する。
ただでさえ優れた獣人の鼻が魔物因子により強化されれば、嗅いだこともない花の匂いとて、正確に嗅ぎ分けられるかもしれない。
だがそれは、せっかくここまで回復したセオの体を、再び異形に堕とすことを意味する。
「何言ってやがるんだセオ!? そんなこと、またお前がする必要ねえだろ!? やるなら俺がやる!! そういう危険なことは、俺達大人がやるべきことだ!!」
すぐさまライガルが身代わりを申し出るが、グレイは言いにくそうにそれを否定した。
「それは……ダメなんです」
「あぁ!?」
「魔物因子は、注入すればすぐに強くなれる万能薬なんかじゃない。少しずつ注入して、体に馴染ませて……副作用や侵食の痛みに耐えながら、少しずつ体を作り替えていく下準備がいるんです。僕は、実験の中で自分の体を使わされることもあったから、あれだけの力を出せただけ……あなたが今ここで注入しても、ただ体を壊すだけです」
普通の人間と違い、獣人であればそこまで慎重にやらずとも効果は得られる。だが、それは下準備がいらないということを意味しない。
その意味では、セオは完璧だ。
既に、度重なる実験によって散々因子を注入され、馴染んだ体。一時はほぼ完全な魔物と化し、戦闘行為すら行ったことがある。
それは、グレイやカイデルが研究し、ついぞ普通の人間では到達出来なかった領域だ。
仮にセオが魔物因子を再び取り込めば、望む力を得られる公算は高いだろう。
「でも、セオだって……またそんなことをすれば、もう二度と普通の体に戻って来られなくなるかもしれないんだよ? それなのに……」
「だから、なに?」
魔物因子によって得られる力も、その代償も、セオはこの世界の誰よりも身に染みて理解している。
それでも、「だからどうした」と据わった目付きでセオは言った。
「ユミエを守れない弱い体なんていらない……ユミエが傍にいてくれるなら、私は魔物でも化け物でもいい……!! だから、グレイ……私に、力をちょうだい……!!」
絶対に退かないという確固たる覚悟を瞳に宿すセオに、グレイもまた覚悟を決める。
もう僕も、何もせず後悔することだけはしたくないと。
「分かった。でも、今すぐはダメだ」
どれだけ急いでも、事前に手筈を整えていたとしても、そう簡単には国境を越えられない。他ならぬグレイ自身、コーラスの手引きでこの国に不法入国した立場だからこそ、それは分かる。
何せこのユーフェミアは、海と魔物の蔓延る人外魔境に囲まれた、陸の孤島に存在するのだから。
「セオ、君が望む力を得ながら、副作用で苦しむことのない完璧な因子を、今から調整してみせる。だから、三日……いや、一日でいい。僕に時間をくれ!!」
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