黒き鏡の玉兎。

押田桧凪

第1話

 月の欠片を拾った夜を後にして、わたしはそれを学習机の引き出しにそっとしまった。鍵を掛けて、誰にも見つからないように。


 鏡の奥で見た景色は、図鑑で見たよりも何倍も広く、クレヨンで塗りつぶしたような黒い空が一面に広がっていた。宙に浮いた塵がちかちかと瞬いている。周りの皆はわぁと叫びながら空を仰ぎ、これが星か、とわたしは深く感動した。


 昼と夜は二つで一つだったと、わたしたちは子どもの頃に言い聞かせられた。ある時を境に、この国のえらい人が夜を鏡の中に閉じ込めてしまい、人々は昔のように昼と夜の間を行き来できなくなってしまったと。かつての夜は朝に変わり、わたしたちは一日の大半を昼で過ごした。女、子どもは昼を生き、大人だけが夜を生きる世界になった。


 昔は、昼の世界にも月があったそうだ。見えなくても、たしかにそこにあったと。今では信じられない話だが。


 満月になるという日。小学六年生になったその年の秋。わたしたちは修学旅行で、夜を訪れた。その日だけは特別だった。


 山のてっぺんにある、今は使われなくなった展望台のそば。そこにある湖面を張ったような大きな鏡が、夜に通じている。


 わたしたちがよく知る、学校の先生たちとはちがって夜に住んでいる大人たちは皆、肌が白くて綺麗だった。しみやそばかすは無くて、澄んだ色の目をしている。けれども、どこか憂鬱そうな表情をしていて、無気力な声で工場までの道を案内してくれた。太陽を知らない大人たちの顔は、夏の終わりのしおれたヒマワリにそっくりだった。


「ここは、夜の世界に電力を供給する場所です」と見たことのない大きな計器を指さして、その人は言った。


 鏡を通して、昼から送られてくる太陽の光を貯めるこの機械が夜の生活を支えているのです。と説明を続けていると、列を成して見学していた、わたしたちの中のひとりの生徒が質問をした。


 どうして夜を閉じ込めたの、と。わたしははっと息を呑んだ。それは事前学習でも、夜にいる人に訊いてはいけない事項の一つだったし、学校で使っている検定済み教科書には載っていない事柄だったからだ。図書館の閲覧禁止コーナーに置かれたカビの生えた古文書とか、そういう物を手に入れない限りは知ることができないと、わたしは友達から聞いていた。


 引率の先生と、夜の人。両者戸惑ったような沈黙があって、夜の人はわずかに目を細めて、遠くを見るようにして答えた。


「夜は大きな黒い鏡のようでした。ちょうど今わたしたちが見ている世界のように。かつて、ひとりの大人が水面に映る満月の中の兎を追いかけて、冒険に出ました。けれど、その日見た兎は毎晩姿を変え、もとの兎はもう二度と戻って来ないことを知りました。それを嘆いた大人は、鏡の中に月と一緒に夜ごと閉じ込めるよう神様にお願いしたのです。鏡の中でなら、たとえそれが探していた兎でなかったとしても、水辺の危険を顧みず、そこに映る兎の近くまで近寄ることができるから。どこまでも追いかけることができるから、と考えてのことでした。一月に一度はその兎を見ることが出来ると知ったのは、その後になってからでした」


「じゃあ、なんで今も……?」


「眠ることを知らない大人たちにとって、夜はうってつけの場所だったからです。昔、『夜が明ける』という言葉がありました。これは、暗くて深い闇に手を差し伸べる一筋の光、いわば希望を表す際に用いられていましたが、大人たちは徐々に朝を迎えることに絶望を感じるようになりました。一生明けないままでいい。終わることのない仕事に苛まれ、光を拒絶したのです」


 わたしは、憔悴しきったような作業員であふれる工場内を見渡した。単に何十年も日の光を浴びてないからだと考えていたが、原因はそれだけではないようだった。それが子ども騙しの、作り話かどうかの真偽なんてどうでも良かった。ただ、哀れに思えた。


 眠らなくていい。眠ることのできない大人たち。延々と続く夜。太陽を知らない。


 夜の人の青白くやせ細った身体に月の光が射して、骨まで透き通っているように見えた。月の欠片──夜の世界に落ちる星を砕いて作られる、古くから伝わる不老の薬。その効用はいかほどのものか。


 昼に住む女の人のほうが、苛烈な陽射しを長年浴びているせいか寿命が短い。どうせ生きるなら、昼の世界で長生きしたいな。


 こっそりと持ち帰った丸っこい月の欠片を、何度も手のひらの中で確かめながら、この日のことは忘れまいとわたしは思った。

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