ザワワ変容する

oxygendes

第1話 旅立ち

私の大切なご主人様、私はあなたの傍らに佇み、あなたが目覚めるのを待っています。あなたが2深い眠りから目覚めたら、お別れの言葉を告げなければなりません。その時間は限られているでしょう。私の言葉でうまく伝えることができるかどうか……。

 ですので、私は旅立ちの日から今日までに起こった出来事を、昏い睡りの海にたゆたうあなたに語りかけていくことにしました。私の心はあなたにかけてもらった言葉で出来ています。同じように、私の語りかけであなたに伝わるものがあることを信じて。


 そもそもの変異は旅立ちの日の数日前から始まっていました。脱皮が始まる前のような、むずむず、ぴりぴりする感覚、それは身体では無く、頭の内側で蠢くものでした。それが何かがわからないまま、私は日々の暮らしを続けていました。


 そして、旅立ちの日の朝、私はいつものようにお気に入りの場所で、あなたがご飯を準備してくれるのを待っていました。部屋の壁の不思議な窓にはいつものように様々な情景が現れ、消えていきましたが、私にはあまり関心のないものでした。


「オハヨウ ゴハンダゾ」

 その時の私には、あなたの言葉は音の連なりでしかありませんでした。時々、意味のある音の連なりが混ざっています。この時は「ゴハン」、それはご飯を意味していました。

 私は壁を伝ってあなたの足元に歩み寄り、準備してもらったご飯を食べ始めました。


 あなたは椅子に座って自分のご飯を食べ始めました。食べながら不思議な窓を眺めています。私は自分のご飯に集中していました。

「オマエノキョウダイタチハ アイカワラズフチョウノヨウダ」

 あなたの声に、私は一瞬、食べるのを止めました。でも、意味のある音の連なりはありませんでしたので、すぐに食事を再開しました。

「オレハキョウ チョウサニデカケル……」

 あなたはまた話しかけてきました。その時、異変が起こったのです。突然、あなたの言葉は音の連なりではなく、それぞれ意味のある単語の組み合わせになりました。


「俺」「は」「今日」「調査」「に」「出かける」

 無意味な音なんてない。音は組み合わさって単語になり、単語は組み合わさって文になる。文は複雑な意味を表わしている事を私は理解しました。また、単語がどういう「漢字」て構成されるかも瞬時に思い浮かぶようになったのです。

 そして、一つの単語を念じるとその意味や説明が、頭の中に浮かび上がってきました。「俺」は、「自分を指す代名詞。主に男性が使う」、「は」は「主題を現わす助詞」、「今日」は「今過ごしているこの日」、「調査」は「何かを調べる事」、「に」は「行き先を示す助詞」、「出かける」は「外に出ていく事」。更に、説明で出てきた言葉を念じると、その意味が浮かび上がります。「代名詞」は「名詞の代わりに用いられる語」と。

 それは私が知っているはずのない知識でした。どこから来ているかもわかりませんでした。ともかく私は、あなたの言葉を理解できるようになったのです。


「俺は今日調査に出かける。調査隊のメンバーに選ばれたんだ。お前はどうする? 一緒に来るか? 」

 それがあなたの言葉でした。「隊」と言うのは、一定の任務をもって行動する集団とのこと。「お前はどうする?」と、私の意図を訊かれました。「一緒」に「来る」、あなたの行く場所に付いて行くかどうか、私の答えは「行く」です。部屋に一人で残されるのは嫌でした。でも、わたしは言葉を話すことはできませんでした。代わりに頭節部の脚をざわざわと動かすことで賛同の意思を表わします。それはあなたに通じたようでした。


 あなたは外出の準備を始めました。服を着替え、身体に小さな機械を付けていきます。戸棚から背負い紐の付いた袋を取り出し、中に荷物を詰め始めました。それが終わると、屈みこんで私に話しかけてきました。

「ザワワ、お前、バックパックの中でいいか?」

 「ザワワ」が私を指し示す音の連なり、名前であることは前から理解していました。「バックパック」とは背負い紐の付いた袋のことでした。あなたと一緒に行けるのなら何でもかまいません。私は体の前半分を床から上げ、脚をざわざわと動かして賛同の意思を伝えました。

 あなたは私の身体を抱え上げ、バックパックに入れてくれました。私の頭節だけがバックパックの開口部から外に出ている姿です。私はバックパックの中で脚を伸ばし身体を安定させました。


 あなたはバックパックを背負い、私たちは一緒に部屋を出ました。扉が並ぶ廊下を進み、小さな部屋に入りました。あなたがボタンを押すと、身体が上に押し上げられる感覚があり、部屋ごと移動しているのがわかりました。部屋の動きが止まり、扉が開くと、その先は青空の下に広がる平らな場所でした。葉を茂らせた草木が植えられていて、その間を抜けていくと、手すりの付いた柵があり、辺りの景色が一望できる所に出ました。私たちがいるのは巨大な四角い建物の屋上で、周囲には同じような四角い建物がたくさん並んでいました。建物の間を曲がりくねった帯が縦横無尽に伸びています。その形は私の同族にどこか似ていました。

 私が自分たちの住んでいる世界を広く眺めたのはその時が初めてでした。見渡す限りに広がっている建物の群れ。でも、そこに動いているものの姿はほとんどありませんでした。


 あなたは空を見上げ、左手で右の手首を握りました。手首から、ヒュウヒュウヒュウという音が鳴り響きます。あなたの目線を追って、私は遥かな高みに青紫の輝きを見つけました。煌めくそれは巨大な蝶でした。はねの差し渡しは私の体長より大きいほど。

 蝶はゆっくりと滑空して下りて来て、差し上げたあなたの右手に留まりました。日の光を受けて、青紫色の翅がきらきらと輝きます。私の触角がふるふると震え、蝶の足からあなたの手首の機械に電気が送られているのがわかりました。

 やがて送電は終わり、蝶は翅を広げました。そよ風を受けてふわりと浮き上がり、ゆっくりと羽ばたきながら空へ上って行きました。


 私は頭節を上げ、蝶の姿をずっと眺めていました。青紫の輝きは美しく、また、あなたとつながり、電気をお渡ししてあなたの役に立つことができる存在であることを羨ましいと思いました。私はあなたからご飯をもらうばかり、何の役にも立てていないのです。


 あなたは小さな声で何かを口ずさみ始めました。


『百足の娘がざわざわわ 叶わぬ恋にざわざわわ

 百の手足でざわざわわ お百度参りをざわざわわ』


 リズミカルで心地よい抑揚が連続する言葉の連なりには、身体を動かしたくなるような何かがありました。初めて聞く言葉もありますが、念じればその意味を説明、補足する言葉が次々と頭の中に浮かびます。「叶わぬ恋」「お百度参り」、たくさんの言葉で頭の中に情景が描かれ、切ない気持ちになりました。繰り返される「ざわざわわ」は動きや様子を表現した言葉で、繰り返すたびに勢いが増していくように感じました。

 この奇妙な言葉の連なりはいったい何? 私は頭節をかしげてあなたの顔を見ました。


「ばあちゃんに教わったわらべ歌さ。お前の名前もここから来ているんだぜ」


あなたが口ずさんでいたのは歌というものでした。言葉とリズム、旋律を組み合わせることで意味だけでなく感情も聴き手に伝えることができるものと、頭の中に浮かびました。この歌は、「ばあちゃん」、「父の母、あるいは母の母」から教わったとのこと。歌は世代から世代に伝えていくものだと知りました。そして、私の名前がこの歌から来ていると聞いて、うれしい気持ちになりました。


あなたの歌は続きました。


『百の鳥居にざわざわわ

仲間の百足もざわざわわ 百匹一緒にざわざわわ』


 娘の仲間が一緒に行動していく展開です。歌声が私の心に沁み込んでいきました。

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