雪面は君へ

雨乃よるる

12月26日

 石畳の道は、一面雪で覆われた。目を細めていても、雪のキラキラした反射は、目を通り越して脳まで刺してくる。赤レンガのキャンパスに続く広い並木道は、まだ朝で、閑散としていた。

「ねえ、アサカ、おはよう」

 君の声が、雪に反射してキラキラ光った。落ち着いたセミロングの黒髪に、赤いマフラーが似合っている。黒いコートを着て手袋をはめた姿は、地味でありながらおしゃれで、きれいで、可愛かった。

「おはよう。ミナはなんでここにいるの?」

 君の隣で歩きだす。サクサクと雪を踏む感触は、時々硬くてツルツルした氷に変わるけど、足は弾む。

「ちょっと散歩したくなってね。一人暮らしだから。ほら、昨日クリスマスだったでしょう」

「うん。一人暮らしだとつまんないよね。あとで昼食一緒に行かない?」

君はあたしの方を振り向いて、まぶしそうに目を細めた。でも、君の笑顔の方がまぶしかった。

「もう昼の話?気が早いね、アサカは。それより、うちの家寄ってかない?ゲームでもしよ」

「いいね」

 会話が雪の上を跳ねるように進んでいく。あたしの足跡と君の足跡は、ずっと隣り合って刻まれる。

 少しの沈黙も、街のきれいな景色が埋めてくれた。平屋の家々が、真っ白いふわふわの帽子をかぶって可愛く並んでいる。一面の銀世界は、朝の静けさを密かに楽しんで、笑っている。

 君が赤いマフラーをずらして、白い息を吐いた。君の目線が僅かに下がったのを、私は見逃さない。

「何かあるの?」

君は何度か呼吸を整えていた。その度に、君の白い息が宙で踊る。君がようやく口を開く。

「今年さ、夏の終わりにさ、同じキャンパスで自殺した学生がいたじゃん。薬飲んでこの石畳で倒れてたの。私、あの子のこと知ってたんだよね」

キラキラした君の瞳に、きれいな暗がりが差す。夜の深さを象徴するような君に、否応なく見惚れる。

「今みたいな感じで、並木道を散歩してるときに会ってさ。ちょうど去年の今頃かな?同じ大学なんだねって分かって、よく一緒に遊ぶようになって」

うん。君の話したいことなら、何でも聴くよ。

「夏になってからさ、その子が死にたいって言い出して。何でって訊いたら、雪の季節まで待てないからって。私よくわかんなかったから、ふうん、で終わっちゃったんだけど」

君の言いたいことは、もうわかった。

「大丈夫。ミナは悪くないから」

この言葉が欲しかったんでしょう、君は。あたしだって、君に助けてもらってばっかじゃないから。君の一番信頼できる人になれるから。

「そうなの。私はなにも悪くないんだけどさ」

え?そのちょっと突き放したような口調に、あたしは戸惑う。言って欲しい言葉は、これじゃなかった。もっと別の大事なことがあるのだろうか。それとも、ただ気持ちを共有したかっただけなのか。あたしは、君に何を言ったらいいんだろう。

「アサカ、今、幸せ?」

唐突な問いに、あたしは言葉を詰まらせる。歩調を無意識に速めてしまう。幸せ?あたしが?

「ミナと歩いてるから、幸せだよ」

「そっか」

 また、沈黙。今度の沈黙は重かった。高く鳴いた鳥の声も、空気を神妙にさせる。

「その、自殺した人が言ってたんだよね。死んだら、自分の好きな景色にずっと居られるんだって。大切な人と、大切な景色は、ずっと心の中にあるから、死んでも消えないんだって」

「じゃああたしは、死んだらここに戻るわけか」

少し可笑しくなった。

「あたしは、大切な人はミナで、好きな季節は冬だから、ずっとここにいられるんだ」

なんだか、死ぬのも悪くない気がしてきた。

「その、自殺しちゃった人は、好きなところへ行けたのかな」

君に訊いてみる。答えは何だっていい。ただ君と、話したいだけなのだから。

「行ってほしく、ないね」

 鳥が、甲高く鳴いて、空は宇宙の高さまで青く染まる。太陽で少しずつ雪が溶けていく。解けていく。

 針葉樹の並木が続く。地面を踏む感触が、雪から石畳に変わる。クリスマスの翌日、会う人のいない者同士、君と歩く。少しずつ雪を溶かしながら歩く。解かしながら歩く。

「心の中にあることは、ずっと消えずに、変化しない。停滞の時間だ。あの人の心の中は、あの人だけで完結していて、そこに他者の介入や偶発性、予定不調和は存在しない。私は、あの人にそんなところへ行って欲しくない。そこには私じゃない、あの人の心の中の私がいる。そんな偽の私に、あの人を奪われたくない」

君の横顔は、真剣だった。君の吐く息はもう透明になって、見つめる石畳に雪は欠片も無かった。




 蝉が泣いていた。


 夏の終わり、西日を受けた針葉樹が、石畳に長い影を落としている。あたしは寝転がって、暮れていく不思議な色の空を眺めていた。夕焼けの赤が退いて、紺色の夜空が現れる。その移り変わりが終わると、星たちが賑やかな笑い声とともに顔を出す。

 視界の端で、君が泣いていた。


 蝉が泣いていた。


 君の泣き声は石畳を跳ねて、そこら中に転がっていく。その嗚咽を包み込むように、蝉の声が降っている。


 ごめん。なんでまた君を泣かせてるんだろう。あたしはいつまで君に頼っているんだろう。本当はあたしが君を慰めたいのに。

 ひんやりした石畳から体を起こす。


「何で泣いてるの、ミナ」

あたしが起き上がったのに気付いて、ミナは顔をあげてその瞳をまんまるにした。

「生きてるの?」

時が止まったみたいに、君の目尻に涙がずっと浮かんでいた。泣き腫らして喉の不安定な声で一生懸命話す。生きてるの、と、もう一度呟いたみたいだ。君の精一杯発声した子音が、夕刻の空気へ浸透する。無声音の響きがふるえて、ずっと漂う。

 あたしは、何で泣いてるの、ともう一度訊いた。

「アサカが、いきなり死ぬとか言い出して。びっくりして。死ねば冬になるとか訳のわかんないこと言ってから得体の知れない薬飲んだの。それでぶっ倒れて。誰か呼ぼうとしたけどもう脈止まってたんだよ。AEDとかやっても、蘇生しても無理。だからもう二人きりにしてって頼んだの。後で必ず届け出るからって」

夕闇でよく見えないけど、君の顔が涙でぐちゃぐちゃなことだけはわかった。

「死のうとしてたの?あたし」

「そうだよ、覚えてないの?なにも?」

君の声がか細くなっていく。石畳に座り込んで何度も涙を拭く君を、私はそっと抱きしめる。

「あたしはね、ミナと、この道を歩いてたよ。初めて会った時もここだったよね。今年の12月」

「一面の雪景色で、きれいだったの。ミナと一緒に歩けて、幸せだったよ。でもね、ミナがこの世界に引き戻してくれたの」

夏の、この日、8月31日に。死んだ世界じゃなくて、生きてる世界に。

「ごめんね、死のうとして」

「いいの。そういうのはいいから、生きててくれて、本当にありがとう」

君の吐息が、あたしの肩でふるえている。気だるい暑さの中で、君の体温を感じようとする。くっついてると暑いけど、いつまでも離れられない。


「あたしも、ありがとう。ミナに、もう一度会えて良かった」


 その言葉で感情の堰が切れて、君はまた泣き始めた。心臓の奥が枯れるほど、あたしの腕の中で。

 淋しげな蝉の音が、並木道の暗闇へ流れていく。街灯に照らされない闇は、少しずつ濃さを増す。

「また、今年の冬も二人で一緒に居よう」

 ささやいた声に応えて、君は冷えた地面からゆっくり立ち上がった。

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