第14話 シクラメン

昔付き合っていた女の子、伊藤陽葵(いとうひまり)の死からちょうど10年が経った。「もう前を向いて歩いていこうぜ」と友人たちは言うが、糸原自身もそれは分かっている。


忘れる必要は無いが、いつまでも過去を見つめているわけにもいかない。でも、彼女が亡くなった日だけは陽葵のことを想っていたい。


何度も思い浮かぶ陽葵の笑顔。年々、その笑顔が脳から霞んでいく。忘れないように何度も脳内に刻み込んでいく。でも日常という時の流れにその笑顔は溶け込んでいく。


陽葵の墓にヒマワリを1輪供える。陽葵は、小学校6年間、お花係を務めるほどの花好きだった。ヒマワリは陽葵が一番好きな花だった。


・・・・


陽葵と過ごした土地を歩く。夕暮れ、中学生の男女2人組が糸原の横を抜けて行く。その背中に、自身と陽葵を重ねる。


さらに1時間歩いた。地元では有名なオンボロ橋。木造の橋は、歩く度に軋む音がする。来年には取り壊されることが決定している。


橋の下を流れる川には、複数の鯉が夕焼けに照らされながら泳いでいた。鯉はゆったりの呑気に泳ぎ続ける。生まれ変わったら鯉になりたいと思った。


オンボロ橋は糸原と陽葵の思い出の橋でもあった。糸原は当時を思い返しながら歩いていく。


消えてしまいそうな陽葵との思い出を昇華しながら歩く。その時、向こうの方から1人の女の子が歩いてきた。制服のスカートが風に揺れる。この橋で告白をした日もそうだった。陽葵は制服を着ていた。


女の子は、ポニーテールを揺らしながらだんだんと近付いてくる。その姿は陽葵に似ていた。橋から川を見つめる横顔。その横顔が陽葵に重なる。


そして、女の子は手すりの上に足をかけた。


(えっ)


一瞬何が起こっているのか、これから何が起ころうとしているのか整理がつかなかった。でも気付くと何者かが糸原の背中を押した。


・・・・


「離してください」


糸原は、女の子の手を掴んでいた。朝ごはんも昼ごはんも食べていないことが原因なのか腕に力が入らない。


「離さない」


女の子は必死に抵抗をする。めくれ上がる腕には無数の傷が付いていた。


「なんで。お兄さんには関係ないですよね」


確かにと思う。その子を何も知らずに助けようとしている。糸原が助けて、生きてしまったことで辛くなることもある。


糸原は自身の考えで走り出したわけではなかった。誰かが糸原の背中を押した。誰かがその足を進ませた。


「だって、君が、」


この手を引き上げるか離すかは糸原の判断に委ねられた。糸原は両手で女の子の手を掴む。


「昔好きだった女の子に似ているから」


そして力いっぱい身体を引き上げる。呼吸を忘れていた2人は必死に酸素を取り込む。


それが石崎香里奈との出会いだった。

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